碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川企救男の欧米見聞記 (45)

2011年04月19日 11時03分25秒 | 碧川

 ebatopeko

 
 

       碧川企救男の欧米見聞記 (45)

  

      (英国の女性の飲酒および婦徳)

 

  (はじめに)

 鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男は、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
 
 中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。『中央新聞』に載せた紀行文を紹介したい。
 彼のジャーナリストとしての、ユーモアをまじえた鋭い観察が随所に見られる。

 ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。

 三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。

 横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。

 この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。

 

 碧川企救男はコレア丸で太平洋を横断しアメリカ西海岸に着いた。そのあと鉄道でアメリカ大陸を横断した。東海岸からさらに大西洋を越えてパリの講和会議を取材した。そのあとイギリスに渡ったのである。

      (以下今回)

 倫敦(ロンドン)の市中を歩いていて、とくに旅行者の目を惹くものは、倫敦に女の多いことである。大通りを歩いている三分の二は婦人であるということからも、いかに女が多いか分かろう。

 そしてバーに入ってみると、男の客が半分、女の客が半分という割合である。碧川企救男は驚いてしまった。

 碧川企救男が住んでいるハムステッドは、市街電車の終点である。夕方そのバーの中に入ってみると、制服を着た女の車掌さんが、片隅にパンの包みを開きながら、ビールをグイグイと甘そうに飲んでいらっしゃる。

 あられもない姫御前の身で、若い男そっちのけで「満を引く」までもあるまいが(引用者注:満を引くとは、もと弓を十分に引きしぼるという意味と、酒をなみなみとついだ杯をとって飲むという意味の二つある。ここでは言うまでもなく後者の意味である)、息継ぎに酒を飲んでなどは、ちょっと日本では見られない図である。

 そうかと思うと、こちらの隅には色あせた花かんざしをつけた、古いボンネットを被った老婆が、スコッチ・ウヰスキーに舌鼓をうってあらせらるるのである。

 文明国に候、婦人参政権に候と威張って御座るが、このバーの中での婦人の威張ってるをを見ると、少し恐れ入る。バーには十五歳以下の子どもは絶対に入る事を禁じられているから、子供らは今にもお母さんのお酒が済んで出てくるであろうと、表に立って待っているのを見ると、実際可哀想にもなる。

 仏蘭西(フランス)では、酒を飲む婦人も多いようにではあったが、あまり婆さんの酒飲みを見なかった。倫敦に来てからはひどくこれが目につく。我が輩(企救男)は、大分西洋カブレになったようであるが、この女の酒呑みだけは日本に輸入したくない、と碧川企救男は思った。

 (碧川企救男は大酒のみであるが、日本の多くの男と同じく、大正時代半ばには女性への偏見の思いを持っていた)

 こうした女があるかと思えば、この初めの日曜日からキングスホールで、孩(がい)児死亡防遏(あつ)(引用者注:孩児とは乳飲み子もしくは、いとけない子どものこと。防遏とは防圧である)の国民議会が開かれた。

 碧川企救男は、「柄になく」この会議に行ってみた。会議に列するには1磅(ポンド)1シリング(これを1ギニアという)出せというので、大枚の金を投じて(引用者注:大正時代には日本の小学校の教員の初任給が15円くらい。当時の1ポンドの値打ちは現在の1万円くらいであろうか、まさに大枚)を投じた。

 それで一週間傍聴出来るという。これに参加すると、養育院や保母会を見るのに多大の便宜が与えられるというので、これに参加したのであった。

 この会の内容は読んで字のごとく、近来孩児の死亡が余り多いために開かれたという。すなわち1917年の孩児の死亡率は、3.1パーセントであったのが、1919年には14.9パーセントという割合になっているという。

 インフルエンザもあるがそれは一部で、死亡数の増加の理由は、既婚者の子が3.7パーセントに対して、未婚者の子の死亡率が6.97パーセントであるという。

 未婚者の子の割合が多いことは、このイギリスにおける婦人の道徳が乱れつつあるということが分かると碧川企救男は指摘する。そこで、どうしてこの死亡児を防ぐ事が出来るかを、このような会を開いて協議したのである。

 これを機会に市内各所に赤ん坊競争大会が開かれ、赤ん坊の体格を検査し体重を計ってこれに賞状を渡したのである。

 東京でも西山君の巣鴨学校で毎年これを開催しているが、この倫敦にならって、今後大規模に赤ん坊展覧会を開いて賞してはどうかととも思う・・・と。

 ただ、赤ん坊展覧会を開いてこれに賞品を与えねばならぬほどに、婦人が子どもを育てる事が嫌になっているという英国の婦人界に、何となく一種の暗い影が漂っているような気がする、と碧川企救男は思った。

 



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