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碧川企救男の欧米見聞記 ⑳
(モルモン教の若旦那)
(前稿まで)
鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男は、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。
ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。
三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。
横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。
この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。
ついに「コレア丸」は大正八年(1919)五月十三日、横浜を出て十八日の航海のはて桑港(サンフランシスコ)に着いた。
当時のアメリカもイギリスも、第一次世界大戦から帰還した兵士達の処遇が大きな問題になっていた。
彼らが戦争から帰ってみると、彼らの就いていた仕事は女性達に占領され、仕事がないのである。彼らの不満をなだめるため、政府は半年間の休暇を出し、給与も支払わざるを得なかった。
アメリカは自由の国である。いや自由を標榜している国である。そのため、ヨーロッパのスイスのように、アメリカには随分いかがわしい連中が入り込んで、色々なことをやっている。
殊にロシアのボルシェビッキが、アメリカを発生源としているように、日本に対する朝鮮人の反抗が、アメリカをその根拠地としたように、アメリカには各種の思想家が各種の企てをしている。
それは、外国の亡命客のみでなく、アメリカ人の中にも、この種の過激思想を抱くものが、しばしば資本家を脅かしている。
大正八年(1919)八月十六日(土曜日)
オクデン市にて。
八月十三日に桑港に着いて、十四日終日市内を見学した。その午後五時半に桑港を出発し、サウザン・パシフィック会社の寝台車に乗って、紐育(ニューヨーク)に向かうことになった。
最近はサンフランシスコ港では、このオークランドとサンフランシスコとの間に海底鉄道を企画しているそうである。早晩これは実現するであろうと碧川企救男はいう。
やがて、この地域の高速輸送手段が考えられるようになったのである。それが現在のいわゆる「バート」である。すなわち「Bay Area Rapid Transit」である。
この「バート」は、ジョンソン大統領の出席のもと、1964年6月開始された。そして海底トンネルは、1969年8月に開通した。当時世界で最も深く長い水面下のトンネルであった。
大正時代当時の日本では、関門海峡トンネルが後藤新平鉄道院総裁の命を受け、土木技師田辺朔郎が可能なことを述べ計画されたのであった。
結局日本の関門海峡トンネルは、昭和十一年(1936)年に着工され昭和十六年(1941)年に開通した。当時は戦争時であり、橋梁案は艦砲射撃の危険性のため取り上げられなかった。上下線とも開通したのは昭和十九年(1944)九月であった。
世界最初の海底鉄道トンネルであった。海底トンネルとしてはアメリカに先んじたのである。当時「竜宮の回廊」と宣伝された。
汽車の旅は、青々とした牧草の丘をいつまでも走った。そのうち日が暮れたが、碧川企救男の希望は早くロッキー山脈を見ることであった。しかしこれを見るには、今夜汽車に寝て、また明くる夜も汽車に寝てからでないというのでウンザリした。
車掌をつかまえて強硬談判の結果、ようやく明後日の朝汽車がオクデンというところに着いたとき、そこで降りて七時間ばかり待ってユニオン・パシフィック鉄道の汽車に乗ればよかろうということになった。のんびりした話である。
これで安心してその晩寝ると、その翌日には漸くネバダ州を通っていた。一帯は砂漠である。草も生えていない黄砂限りなしである。まったく人も森も山も見えない。そして所々の砂の上に白く浪の紋が付いている。それは砂にまじる塩が吹き寄せるのだそうだ。
日本なら早速採掘して昨今のような塩の高いときに相場を狂わせるのだが・・・と指をくわえたまま、このような砂漠をほとんど一日見たすえにその日も暮れた。
碧川企救男は、アメリカの広さを感じざるを得なかった。
(以下今回)
小さい停車場から、一人の若い紳士が乗車した。そして僕らの姿をみると、馴れ馴れしく何と日本語でしゃべってきた。
誰やらがイギリスに行ったとき、田舎の村で鶏の鳴く声を聞いて、故郷の人に会ったような気がしたという。この若い外人紳士の日本語は、まことに慕わしいものであった。
英語が苦手で、何も聞きとることが出来ず、また何も自らしゃべることの出来ず、我慢をしてきた碧川企救男らには、どうしても地獄で仏という格好であった。
その紳士の年は、27~8歳であろうか。話してみると彼はモルモン宗の宣教師となって、東京の牛込薬王寺前に三年間住んでいたという。
(紹介者注:モルモン宗とは、19世紀前半、アメリカにおいて始ったプロテスタントの一派の新宗教である。ジョセフ・スミスによって創められた。はじめ一夫多妻などを唱えていたが迫害を受け、この一夫多妻は1890年に廃止された。モルモン宗の正式名は「末日聖徒イエス・キリスト教会」という。
各地での迫害で転々としたが、イリノイ州でスミスは牢獄にとらわれ、さらに暴徒によって殺されるにいたった。後継者ブリガム・ヤングによって、ロッキー山脈を越え、ついにユタ州ソルト・レーク・シティに落ち着き、大家族を中心に農業、産業を営み、信仰を広めた。現在アメリカで約500万人の信者がいる。
最近テレビであまり見かけないが、外人芸人として一時売り出した「ケント・デリカット」もモルモン教徒で、1974年から北海道において宣教師として2年間活動し、その後テレビの「いいとも!」などでおもしろ芸人としてテレビに出ていた事を思い出す人もおられることでしょう)
さて、この若いモルモン教徒はやや気障であった。縞の洋服に大きな近眼鏡をかけていた。彼との話は夜が明けるまでつづき、夜が明けるとこの紳士もオクデンで降りた。そして碧川企救男らのために預けた荷物の始末や、色々駅長に手違いのないように懇切丁寧に話をしてくれた。 さらにオクデンを遊覧する時間があったら、是非僕の家に遊びに来てくださいと言ってくれた。
オクデン(ソルト・レーク・シティのやや北にある)では停車場の前で雑貨商を営んでいる玉置商会の主人の歓迎を受けてオクデンのキャノン(谷)を自動車で見物した。「グランドキャニオン」は、ここから遙か南のアラバマ州にあり、これではなさそうであるが、オクデンの近くにグランドキャニニオンの小型版があるのであろうか?
その途中、例の若紳士宣教師の店に寄った。中に入るとその広さにびっくりした。何とそれは東京の三越の広さくらいあった。玉置君の話によると、この紳士君の店はユタ州でも第一流の資産家だという。その若旦那がこの紳士君であったのである。
碧川企救男は、三越以上の店を持つ若旦那がなぜ何千里何万里を隔てた日本に伝導に行ったのか信じられなかった。失恋かそれとも親が「かわいい子には旅をさせ」のつもりで送ったのか。碧川企救男はどうしても合点がいかなかった。
例の玉置君に聞くと、モルモン宗ではその教えとして、資産家のせがれは、神のためにどうしてもある年限の間、外国に伝導に出なければならないということであった。それで彼は東京に出向いたのであった。この若紳士の名前は、ジムニー・スコリュスコレフ君といった。
さてこのユタ州では、既に禁酒を実行している。玉置君にこの禁酒が労働者に及ぼした影響を聞くと、労働者としても浪費を省くことが出来て喜んでいるということであった。大酒のみの碧川企救男はびっくりせざるを得なかった。