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碧川企救男の欧米見聞記 (31)
(パリの沢庵そして太公望)
(前回まで)
鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男は、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。
ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。
三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。
横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。
この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。
ついに「コレア丸」は大正八年(1919)五月十三日、横浜を出て十八日の航海のはて桑港(サンフランシスコ)に着いた。
当時のアメリカもイギリスも、第一次世界大戦から帰還した兵士達の処遇が大きな問題になっていた。
彼らが戦争から帰ってみると、彼らの就いていた仕事は女性達に占領され、仕事がないのである。彼らの不満をなだめるため、政府は半年間の休暇を出し、給与も支払わざるを得なかった。
アメリカは自由の国である。いや自由を標榜している国である。そのため、ヨーロッパのスイスのように、アメリカには随分いかがわしい連中が入り込んで、色々なことをやっている。
殊にロシアのボルシェビッキが、アメリカを発生源としているように、日本に対する朝鮮人の反抗が、アメリカをその根拠地としたように、アメリカには各種の思想家が各種の企てをしている。
それは、外国の亡命客のみでなく、アメリカ人の中にも、この種の過激思想を抱くものが、しばしば資本家を脅かしている。
汽車の旅は、青々とした牧草の丘をいつまでも走った。そのうち日が暮れたが、碧川企救男の希望は早くロッキー山脈を見ることであった。しかしこれを見るには、今夜汽車に寝て、また明くる夜も汽車に寝てからでないというのでウンザリした。
車掌をつかまえて強硬談判の結果、ようやく明後日の朝汽車がオクデンというところに着いたとき、そこで降りて七時間ばかり待ってユニオン・パシフィック鉄道の汽車に乗ればよかろうということになった。のんびりした話である。
これで安心してその晩寝ると、その翌日には漸くネバダ州を通っていた。一帯は砂漠である。草も生えていない黄砂限りなしである。まったく人も森も山も見えない。そして所々の砂の上に白く浪の紋が付いている。それは砂にまじる塩が吹き寄せるのだそうだ。
日本なら早速採掘して昨今のような塩の高いときに相場を狂わせるのだが・・・と指をくわえたまま、このような砂漠をほとんど一日見たすえにその日も暮れた。
碧川企救男は、アメリカの広さを感じざるを得なかった。
一人の若い紳士が乗り込んできた。彼は日本語を話し、何くれとなく親切にしてくれた。彼はモルモン教徒の宣教師であった。
彼は縞の洋服に大きな近眼鏡をかけていた。彼との話は夜が明けるまでつづき、夜が明けると、この紳士もオクデンで降りた。そして碧川企救男らのために預けた荷物の始末や、駅長に色々手違いがないように話をしてくれた。
そしてオクデンを遊覧する時間があったら、是非僕の家に遊びに来てくださいと言ってくれた。オクデンでは停車場の前で雑貨商を営んでいる玉置商会の主人の歓迎を受けてオクデンのキャノン(谷)を自動車で見物した。
例の玉置君に聞くと、モルモン宗ではその教えとして、資産家のせがれは、どうしても神のためにある年限外国に伝導に出なければならないということであった。東京に出向いたこの若紳士は、名前はジムニー・スコリュスコレフ君といった。
最近の日本では、「変な外人」としてテレビに出ていた(最近はあまり見ないが)ケント・デリカットも北海道に二年間布教のために来て、そのうちテレビに出るようになった。また、ケント・ギルバートもモルモン教徒の一人である。
シカゴの「ストックヤード」において、碧川企救男は豚、牛のされるのを見て、顔を覆わずにはいられなかった。それに対し、アメリカの金髪の女性たちは、健気なことにその場においても、笑い声を上げながら見て回っていた。碧川企救男の驚きであった。
ミシガン湖を見ながら碧川企救男が聞いた話は、アメリカの代表的な鉄鉱石の産地がこの湖岸にあるという。しかしそれは間違いで、アメリカ随一の鉄鉱石産地は「メサビ」鉄山であり、この鉄山がアメリカの第二次世界大戦を支えたといわれる。
現在では信じられない、このアメリカおける「禁酒法」は、1919年から1933年まで実施された。米国憲法修正第18条である。大統領はウィルソンであった。彼は拒否権を発動したが、米国下院が再可決して、消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が国家として禁止することになった。
碧川企救男がニューヨークにいたのが、丁度その1919年であった。アメリカの飲み助が黙っている訳がないだろうと碧川企救男が思っていたら、案の定連邦議会の開会に合わせて、酒屋連中の煽動かそれとも一部労働者の主張か、8月25日夜のニューヨークマディソンガーデンで禁酒法反対の市民大会が開かれた。
碧川企救男は、「この禁酒法の運命は如何・・・?」と思わざるを得なかったのである。
五月二十九日、もっとニューヨークを見るつもりであった碧川企救男は、出帆予定がいきなり二日も繰り上がり、二十九日にニューヨークを出帆することになった。あわてふためいて準備に追われ、ようやくニューヨークから出国することになった。
船中での人々をジャーナリストの目で碧川企救男が観察すると、第一次世界大戦が終わったばかりであるだけに、アメリカ人の態度の大きいのがやや鼻につく。ヨーロッパの人たちは、「俺たちがヨーロッパの再建をしてやるんだ」というアメリカ人に辟易していた。
また第一次世界大戦が終わったばかりである。戦時中のドイツ兵の暴虐を訴えた講演会を皮切りに、やれフランス水兵の為だ、やれ孤児の為だ、やれ寡婦の為だと言って、アメリカでしこたま儲けた船客から義捐金を絞ろうという計画が四つばかり出てきた。その中で、音楽会兼富くじ会というのがあった。
美人達が競争でこの富くじを売る。寄付金を集める。吉植社長は寝巻きに持ってきた浴衣を寄付された。そして6月5日の夜に音楽会が開かれた。舞台では何とかいう音楽学校校長のマダムが一人で持ち切っている。
音楽会がすむと競売が始まった。シャンパンが8ドルで売れた。軍人の絵が3ドルで売れた。そし東洋の珍客(吉植社長)のお土産の浴衣は、3ドルから競り上げてついに12ドルで落ちた。
浴衣一枚24円(現在の24万円くらい)とは、いくら慈善会とはいえ、まことに良い値段である。こうして集まったお金は5000フラン以上である。日本では2000円(現在の2000万円くらい)の勧業債券の当たりくじで国民のそそのかそうとしているが、もう少し高いものをしたらどうだろうかと碧川企救男は思った。
ニューヨークを出た碧川企救男らの船は、六月七日の朝早く、ハーブル(今のルアーブル。碧川企救男はサイレントのHを発音しハーブルと呼んだ)沖合にかかって、ついに目的地であるフランスに着いたのである。ハーブルは、フランス北岸の唯一の港である。地中海のマルセーユに匹敵するのが、北海のハーブルであった。
大西洋を横切ってアメリカ大陸に通うフランスの船は、すべてこの港を中心にしているだけに、ハーブルの港は繁華であった。
フランスに上陸した碧川企救男らは、第一次大戦直後のフランスの料理店でも、砂糖がなくサッカリンが使われているのを知った。
さて、碧川企救男が汽車の窓から見たフランスの田園風景は、彼は実に気に入った。アメリカの殺風景な野や畑を見た農業民の日本人の眼にとって、まるで故郷に帰ったような心地がしたという。
(以下今回)
停車場そばの旅館で一夜を過ごして、翌日停車場の税関で荷物を調べてもらった。これを自動車に積んで、ホテル・コンチネンタルというところに腰を据えて、パリを見物することになった。
このホテルは、アメリカと余り変わりないが、アメリカのように下の大広間に人がたくさん集まっていないことが何より良かった。
有名なサンゼルゼー(シャンゼリゼのこと)に近いところで、表に出て右を見ると、ここがセーヌ河畔になっていて、一帯が青い樹林になっている大きな公園である。
もちろんパリの町は、東京の銀座の比ではない。にぎやかなこと、店のきれいなこと、それは論外である。なぜならば文明の度が違っている。ただ碧川企救男は日本の東京でもすぐ出来そうなのは街路樹であるという。
サンゼルゼーは半分公園の通りであるから、芝公園のようなのは勿論であるが、その他、オペラ通りにしても、街路樹が青々として枝を張っているのを見るのは実に嬉しい。銀座の貧弱な樹などは早く抜いてしまって、もう少し枝の繁茂するような青々とした樹を植えたらいいのではと、彼は思うのである。
パリの町を見学して、碧川企救男の第一の印象はこれであった。そこへ先着の菊池君が訪ねて来てくれた。
久しぶりの積もる話に、夕方になってどこかへ飯を食べに行こうということになった。ニューヨークで日本食を食べて以来、米にありつかない社長は、早速日本食を食わせるところはないかと聞いた。
すると、それならオペラ通りの裏にある日本の記者クラブに行けばいいということになった。そこなら牛肉でご飯を食べさせてくれるという。酒別で昼は五フラン、夜は七フラン。日本食に飢えた碧川企救男らは、「これだ!」と棚からぼた餅の気分。
早速行ってみると、三井の福井君なども来ている。日本人倶楽部である。畳こそ敷いていないが、肉鍋に沢庵もあり、小蕪の糠味噌もあり、まことに遠来の客に珍味佳肴山のごとくであった。
久しく香の物を食べていない碧川企救男らは、何しろ飯の前にその香の物でお茶を飲んだだけで命が延びたような心地がした。碧川企救男は「幸福だ!やっぱりお天道様と米の飯は我等についてお回り下さる!」と叫んだ。
沢庵は珍品である。どうしたのか?と聞くと、何と西園寺侯がわざわざご持参のものを記者倶楽部へ分配されたという。言うまでもなく、西園寺侯は、パリ講和会議の日本代表の西園寺公望その人である。
考えてみれば、明治のはじめに日本の若い豪傑たちが、大刀を抱えてパリに乗り込んだとき、パリ人の方でもこの東洋の珍客が珍しかっただろうが、それよりも東洋の珍客がこのパリの広大にして繁華な町を見たときは、眼を回さんばかりに驚いたことであったろう。
彼らはきっと日本食を食べたかったであろうが、そのときは一杯の飯も食べられなかったに違いない。それを考えると今の渡航者は幸福者であると碧川企救男は思った。
パリの見聞記は、先着の菊地君や上田君から細大漏らさず報道されていることと思うので、屋上さらに屋を重ねることになるのでこれは止め、この六月十五日にパリのしかもセーヌ河で見た太公望のことを書こうと碧川企救男は思った。
実は碧川企救男は、小樽時代から釣りが好きであった。色々な道楽の行き着く先は釣りであるという。フランスでも我が党(太公望)は必ずしも少なくはなかった。新聞も今月はじめから、もう釣りのことを書いている。
これによると、パリにも禁漁期があって、毎年六月十六日からでないと釣りを許さないことになっている。ところが今年(1919年)は、その一日前が日曜である。
勤め人や奉公人は、一日前の十五日が日曜で、一日違いで楽しみの一日をみすみす逃すことになる。日本の警察だと、条文、規定でこうなっているんだから、仕方がないじゃないかと拒絶されるところであるが、そこが人民の快楽を基礎とし、社会の和楽のために作られているこの国の法律である。
ただちに社会一般のためとあらば、一日繰り上げても差し支えなしとあって、十六日解禁を十五日解禁となった。魚は一日命を縮められた勘定であるが、人間はこの一日の繰り上げでどの位命を延ばされたか知れない。
柔軟な法解釈に、さすがと碧川企救男は感心した。とくに釣りに目のない彼にとってみれば尚更のことであった。