碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

「碧川道夫」のこと・・・カラー映画の草分け(65)(『ああ野麦峠』余話 ②『ああ野麦峠』の頓挫

2017年09月04日 15時34分21秒 | 碧川

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     「碧川道夫」のこと・・・カラー映画の草分け (65)

 

         (『ああ野麦峠』余話)②『ああ野麦峠』の頓挫 

 

  (前回まで)

   前に「碧川道夫の徴兵検査」という文を発表したが、ここに社会思想社の山口猛編『カメラマンの映画史』(1987.8発行)という一冊の本がある。副題は「碧川道夫の歩んだ道」とある。

 この本の紹介を通して、碧川道夫のたどった道を追ってみたい。興味のある方はぜひお求め下さい。

 

 内田吐夢は碧川道夫と組んで、昭和44年(1969)、『ああ野麦峠』を撮る予定であったが、産業筋からのブレーキがあり、その上、吐夢のガンと結核が進行しており、目的を果たすことが出来なかった。
 

 内田吐夢と妻芳子の兄にあたる碧川道夫が組んで『ああ野麦峠』が製作される予定であった。その製作にあたって主演として吉永小百合がやることになっていた。彼女もぜひこの役をやりたいとの願いがあった。その吉永小百合の撮影前の意気込みを知る話がある。以下それを紹介したい。 

  野麦峠はきわめて厳しい峠越えで命を落とす人が多く、1841(天保12)年に人命救助のために建てられた。峠越えの歩いてしか通れない旧街道は地元でも忘れられた存在だったが、作家山本茂実氏の作品「あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史」が発表された1968(昭和43)年を機に一転観光地に。70年の車道開通に合わせ、飲食と宿泊ができる施設として今の小屋ができた。
 

 岐阜と長野の県境にある野麦峠(標高1、672メートル)は、かつて信州に糸引きに向かう飛騨の娘たちがそう歌い、励まし合って峠を越えたと伝え聞く。峠近くの高山市高根町野麦に立つお助け小屋も工女ゆかりの建物。「この建物は工女も泊まった野麦集落の民家で、観光用に移築して当時を再現したんです」と同小屋の近くに立つ「野麦峠の館」管理人堀野徹さん(66)=同町野麦=は説明する。

 小屋が建つ前年の69年、女優吉永小百合さんが旧道を歩いて信州から飛騨へと峠を越えた。大きな試練に臆せず、峠を越えて行った飛騨の娘たちの物語に共鳴した吉永さんはこの年、芸能生活10年を記念し、野麦峠の映画を自主制作すると発表。原作は山本氏、監督は内田吐夢氏。映画と物語に対する思い入れは相当熱かった。
 
  「雨の中、神社で野宿しようとしていた女性2人を私の母が気の毒に思い、家で泊まってもらった。最後までその女性が、吉永さん本人だとは気付かなかったですよ」と奥原音蔵さん(78)=同町野麦=は振り返る。

 吉永さんは帽子にサングラス姿で素性を隠し、歩いて峠を越えて奥原家で1泊。翌日は奥原さんが出勤途中に高山駅まで送った。

 「翌日はいい天気で阿多野郷から乗鞍岳が見えて喜んでいた。ところが枕銭を包んだ紙に名前が書かれていてね、そこで初めて気が付いたんじゃよ」。後日、吉永さんは再度、奥原家を訪ね「あの時ご親切にしてもらったご恩は忘れません」とお礼を伝えたという。

 細部で色々食い違いがあるがまぁ人の語るエピソードなので、それはそれということで。吉永さんに限らず、昭和の大女優伝説はときに惚れ惚れするほどの輝きを放つなぁ。昔話の一篇みたいである。
 

 吉永さんの前に高山市を舞台に映画「遠い雲」(55年)を制作した映画監督木下恵介氏も、飛騨市古川町出身の郷土史研究家蒲幾美さん(92)=川崎市=の短編「野麦峠」を読んで61年に映画化を発表、野麦峠や蒲さん宅にも訪れた。

 残念ながら2人とも映画化の実現には至らず、吉永さんは旧街道の峠に物語の主役で飛騨市河合町出身の政井みねの石碑を建てた。そして79年、2人とは別に山本薩夫監督が大竹しのぶさんを主役に映画化を果たした。

 東日本大震災以降も野麦峠には訪れる人が絶えない。山本監督のロケ撮影では、炊き出しを手伝った堀野さんは言う。「震災後は人が減ると心配していたが、昨年より観光客が多い日もある。過酷な時代を乗り越えていった工女の、くじけずに前向きに生きたけなげな姿が震災後の今の時代と重なり、共感を呼ぶのかもしれません」と。
 

 

 (以下今回) 

 碧川道夫は言う。最初、この映画は吐夢と私のコンビでやることになっていました。しかし、吉永小百合の周辺から、彼女のイメージに合わないということで、反対が起きていました。

 しかし吐夢のためにも、これを成功させなければならないと考えて、とにかく彼女がやる気になっているので、押し切ろうということになりました。そうすると、私以上に、名画を作るのは、宮島義勇だと思ったので、思いきりよく推薦しました。

(注:宮島義勇はカメラマンとして名をなしたが、とくに『人間の條件』、『切腹』、『怪談』などは、国内外から高く評価された)

 吐夢はびっくり。宮島にしても、吐夢とは、これが初仕事。仲がよいのに、不思議と仕事をするチャンスはなかった。やっと、これで二人が一緒に仕事が出来るようになったのです。

 ところが、製作を始めたとたん、あるところからブレーキがかかりました。紡績界の内部に、深く突っ込まれ、昔のことを洗いざらいされると困る人々がいたのです。

 わずか四百フィートほど、それも蚕さんの実景を回し始めたところで、ストップ。それで、吉永サイドが、スタッフに、賠償金を支払いました。ここで吐夢の『ああ野麦峠』はお蔵入り、頓挫してしまったのである。

 



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