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碧川企救男の欧米見聞記 (44)
(英国の離婚裁判)
(前回まで)
鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男は、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。
横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。
ついに「コレア丸」は大正八年(1919)五月十三日、横浜を出て十八日の航海のはて桑港(サンフランシスコ)に着いた。
当時のアメリカもイギリスも、第一次世界大戦から帰還した兵士達の処遇が大きな問題になっていた。彼らが戦争から帰ってみると、彼らの就いていた仕事は女性達に占領され、仕事がないのである。
アメリカは自由の国である。いや自由を標榜している国である。そのため、ヨーロッパのスイスのように、アメリカには随分いかがわしい連中が入り込んで、色々なことをやっている。
殊にロシアのボルシェビッキが、アメリカを発生源としているように、日本に対する朝鮮人の反抗が、アメリカをその根拠地としたように、アメリカには各種の思想家が各種の企てをしている。
大陸横断鉄道の汽車の旅は、青々とした牧草の丘をいつまでも走った。そのうち日が暮れたが、碧川企救男の希望は早くロッキー山脈を見ることであった。しかしこれを見るには、今夜汽車に寝て、また明くる夜も汽車に寝てからでないというのでウンザリした。
やがて列車は漸くネバダ州を通っていた。一帯は砂漠である。草も生えていない黄砂限りなしである。まったく人も森も山も見えない。
碧川企救男は、アメリカの広さを感じざるを得なかった。
一人の若い紳士が乗り込んできた。彼は日本語を話し、何くれとなく親切にしてくれた。彼はモルモン教徒の宣教師であった。
彼は縞の洋服に大きな近眼鏡をかけていた。彼との話は夜が明けるまでつづき、夜が明けると、この紳士もオクデンで降りた。そして碧川企救男らのために預けた荷物の始末や、駅長に色々手違いがないように話をしてくれた。
そしてオクデンを遊覧する時間があったら、是非僕の家に遊びに来てくださいと言ってくれた。オクデンでは停車場の前で雑貨商を営んでいる玉置商会の主人の歓迎を受けてオクデンのキャノン(谷)を自動車で見物した。
例の玉置君に聞くと、モルモン宗ではその教えとして、資産家のせがれは、どうしても神のためにある年限外国に伝導に出なければならないということであった。東京に出向いたこの若紳士は、名前はジムニー・スコリュスコレフ君といった。
最近の日本では、「変な外人」としてテレビに出ていた(最近はあまり見ないが)ケント・デリカットも北海道に二年間布教のために来て、そのうちテレビに出るようになった。また、ケント・ギルバートもモルモン教徒の一人である。
シカゴの「ストックヤード」において、碧川企救男は豚、牛のされるのを見て、顔を覆わずにはいられなかった。それに対し、アメリカの金髪の女性たちは、健気なことにその場においても、笑い声を上げながら見て回っていた。碧川企救男の驚きであった。
ミシガン湖を見ながら碧川企救男が聞いた話は、アメリカの代表的な鉄鉱石の産地がこの湖岸にあるという。しかしそれは間違いで、アメリカ随一の鉄鉱石産地は「メサビ」鉄山であり、この鉄山がアメリカの第二次世界大戦を支えたといわれる。
現在では信じられない、このアメリカおける「禁酒法」は、1919年から1933年まで実施された。米国憲法修正第18条である。大統領はウィルソンであった。彼は拒否権を発動したが、米国下院が再可決して、消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が国家として禁止することになった。
碧川企救男がニューヨークにいたのが、丁度その1919年であった。アメリカの飲み助が黙っている訳がないだろうと碧川企救男が思っていたら、案の定連邦議会の開会に合わせて、酒屋連中の煽動かそれとも一部労働者の主張か、8月25日夜のニューヨークマディソンガーデンで禁酒法反対の市民大会が開かれた。
五月二十九日、もっとニューヨークを見るつもりであった碧川企救男は、出帆予定がいきなり二日も繰り上がり、二十九日にニューヨークを出帆することになった。あわてふためいて準備に追われ、ようやくニューヨークから出国することになった。
船中での人々をジャーナリストの目で碧川企救男が観察すると、第一次世界大戦が終わったばかりであるだけに、アメリカ人の態度の大きいのがやや鼻につく。ヨーロッパの人たちは「俺たちがヨーロッパの再建をしてやるんだ」というアメリカ人に辟易していた。
また第一次世界大戦が終わったばかりである。戦時中のドイツ兵の暴虐を訴えた講演会を皮切りに、やれフランス水兵の為だ、やれ孤児の為だ、やれ寡婦の為だと言って、アメリカでしこたま儲けた船客から義捐金を絞ろうという計画が四つばかり出てきた。その中で、音楽会兼富くじ会というのがあった。
美人達が競争でこの富くじを売る。寄付金を集める。吉植社長は寝巻きに持ってきた浴衣を寄付された。音楽会がすむと競売が始まった。シャンパンが8ドルで売れた。軍人の絵が3ドルで売れた。そし東洋の珍客(吉植社長)のお土産の浴衣は、3ドルから競り上げてついに12ドルで落ちた。
浴衣一枚24円(現在の24万円くらい)とは、いくら慈善会とはいえ、まことに良い値段である。こうして集まったお金は5000フラン以上である。
ニューヨークを出た碧川企救男らの船は、六月七日の朝早く、ハーブル(今のルアーブル?)沖合にかかって、ついに目的地であるフランスに着いたのである。ハーブルは、フランス北岸の唯一の港である。地中海のマルセーユに匹敵するのが、北海のハーブルであった。
さて、碧川企救男が汽車の窓から見たフランスの田園風景は、彼は実に気に入った。アメリカの殺風景な野や畑を見た農業民の日本人の眼にとって、まるで故郷に帰ったような心地がしたという。
碧川企救男らは、パリの日本記者倶楽部において、まったく久しぶりに日本食にありつけた。さらに、パリ講和会議の日本代表である西園寺公の好意により、沢庵まで味わうことが出来たのであった。
さて、フランス革命のきっかけとなった「バスチーユ牢獄」を見に行った碧川企救男は、その跡に立つ塔に登って、この絶頂からパリを透かして見ようとは思わず、この絶頂からヨーロッパ大陸に起こっている、第二の世界的大革命を見ようと思った。
この度の革命において、さしあたりバスチーユ牢獄を勤めたのは、ロシアであろうか?
パリのレストランに入ると、アメリカと違って、水を飲んで食事をしている人は少ししかいない。その少数を除いてその他はことごとく麦酒か葡萄酒を飲んでいる。女性もまったく同じである。彼らのビール、葡萄酒は、あたかも日本のお茶の如しである。
二、三日前にも、碧川企救男がよく行く飯屋に、彼がみて七十くらいと思うヨボヨボのお婆さんが隣に座って、飯を食っていた。この婆さん何を注文するのかと思ったら、ソップを注文した。
そのあと、マカロニーを注文して、ない歯で噛んでは食べている。その婆さんが飲むのは、老人の冷や水にあらず、赤い葡萄酒をコップに入れてガブリガブリ、皺くちゃの顔が薄紅色になる迄も呑んでいるのには、碧川企救男はまこと恐れ入った。
フランスでは、下宿屋の下女(原文のママ)が五万フラン(今の貨幣価値にして、315万円くらいであろうか)の公債を持ち、その配当とか公債の利子で生活をしているという。
下戸党にとって喫茶店で砂糖がないとは打撃であるが、上戸党はさらにロンドンをより以上に苦痛の都市と考えねばなるまい。ロンドンではバーにしろレストランにしろ、また普通の酒店にしても、酒を売るには時間が決まっている。
夕方になって、近所のレストランに行って早速ビールを注文してみると、給仕は一言のもとに「ノー、サー」と来た。後で聞くとレストランでもだいぶ酒を売る免状を持っていない店があるそうだ。
仕方なしに食事をすませてその店を出た。あちこち散歩しているうちに一軒のバーが見つかった。よしきたとばかりに飛び込むなりビールを下さいと言ったが、店の女番頭は時計を指して「ノー、サー!」。時計は九時を過ぎること二分。ここでは九時を一分でも過ぎるとアルコールを出さないのである。
碧川企救男は言う。あえて外国の真似をせよとは言わない。しかし、目の前にイギリスやアメリカのデモクラシーの大きな潮流を見たとき、日本での軍人ののさばり、デモクラシーの立ち後れの現実を考えたとき、大阪弁の男の日本への愚痴も、言ってみたくなるのも当然であろうと。
イギリスに渡ると、そこでは普段の生活の中の国民の生活に秩序があり、規律があり、公徳を重んじることを碧川企救男は感じ、甚だ感じ入ったのであった。
それに対して日本ではすべての場合が「命令」の形をとる。学校も「命令」である。人々は命令を受けることが当たり前になっていた。
外国では、人々はすべてが先ず協同生活が基になっている。それ故、秩序を乱すとか、規律を破るとかいうことが、彼らにはこの上ない罪科とせられている。この一点こそが彼らが文明を誇る所以であろうし、逆に日本が少なくとも自ら顧みなくてはならない点であろうと碧川企救男は思った。
日本から海外に留学した人々は、欧米人の社会生活の現状を視察し、その状態を伝えて幾分なりとも我が社会にこれを活かして用いることをあまりしてこなかった。また彼らにはその機会が少ないのである。
この社会生活を直に伝える者は、社会と直接の交渉を有する新聞記者でなくてはならぬ。
碧川企救男は思う。この欧米の社会の実生活を見て、なぜに日本の社会がはこのようにならなかったのかを考えたとき、社会と常に交渉を持つ新聞記者などジャーナリストがこの点を見過ごして来たことを恥じざるを得なかった。
碧川企救男は主張する。公徳を重んぜよと学校で教えることよりも、左側通行を励行せよと強いるよりも毎日直接社会と接する新聞記者が筆によって説くべきであると。
とにかく碧川企救男は、国民生活の向上を願って、新聞記者の海外視察について、識者に是非議題にして貰いたいと主張するのであった。
碧川企救男の下宿の近くのリゼント公園には有名な動物園がある。上野動物園とあまり違った動物もいない。嬉しいのはラクダと象に限って、入園の児童の希望者を乗せて歩かせていた。。
子ども達は「キーキー」と喜んでいる。碧川企救男は日本でも早くこうした計画を立てて欲しいと思った。
動物園ではなく倫敦の公園でも、到るところで鳩や雀さらにはリスが人に慣れているのを見て碧川企救男は、異様に感じざるを得なかった。鳩に限らずリスでもそうである。これらの動物は、すべての人間は自分に危害を加えるものではなく、食物をくれるものであると信じ切っているような顔をしている。平和と幸福が園内にみなぎっている心地がした。
碧川企救男はどうかして日本でも、こうした公園の平和な姿をみたいものだと思ったのであった。
碧川企救男が倫敦に来てから一週間、天気の日は一日もない。そして殊の外寒い。ヴェルサイユ条約が結ばれたのが、1919年の6月28日である。
新聞でも「7月になるのか、12月になるのか?」と書いてみたり、「夏物売り出しは冬物売り出しの間違いであろう」などとふざけていた。
調印が済めば、大砲が鳴り各寺院では鐘をつくことになっている。それは午後四時頃になる筈であった。遉に(さすがに)英国人だけに、その大砲の鳴る前までは、決して調印が出来たような顔はしていなかった。
碧川企救男は、午後からハイドパークに行ってみた。ハイドパークの広さにも驚いた。茫々たる草原、その中に羊が犬に追われながら、青い芝の中を駆けて行くのは絵のようであった。
そこでは大の字になって芝の上に寝ている男もある。此方では夫婦がピタリと体をくっつけて横になっているのはまだしも、人が見ていてもお構いなしにキッスをして御座るのもある。
日本なら早速風俗壊乱で巡査に「オイ、コラ!」と叱られるところであるが、通る者も一向に構わなければ、やっている者も一向にお構いなし大っぴらである。これが文明国かと碧川企救男は思った。裸体の絵に布切れを巻いたりする日本とは雲泥の差である。
公園の池で子ども達がタモ網で小さな魚を掬っている一群があった。巡査はこれを見ても、決して咎めようとはしなかった。碧川企救男はかって東京不忍池で、小さな子どもがステッキのような棒でつっていた為、巡査に追いかけられていたのを憶えている。よしんば子どもがタモで掬ったところが、メダカの五、六匹くらいではないか。大きな池の魚に何の関係もないではないか。
碧川企救男はこの小さな魚を捕ったからとて、目に角をたてて追い回す巡査こそ、つねに「呑舟の魚を逸する」徒輩だと断じた(引用者注:細かいことを追っかけすぎて、大きな真の悪を逃す例え)。
そのとき緑のしたたる樹間から、かろやかな奏楽の音が聞こえて来た。音のする方へ行ってみると、その場所がいかにも気に入った。大きな樹の青々とした枝が、上から被さるように覆って日光など届かぬ。
日比谷の音楽堂で、真昼に奏楽をやったら、聴衆はみなたちまち霍乱(引用者注:日射病)にかからねばならぬ。日本には緑がないと痛感した。
碧川企救男は、午後からトラフワルガル・スクエヤー(トラファルガー広場)の人出を見物に行った。午後3時になると、ネルソン像の下の少し高くなった段々の上で演説が始まった。一人の赤髯の生えた四十格好の職工長らしき労働者である。
彼の演説はイギリスは露西亜から撤兵しろというのであった。(引用者注;これは1917年のロシア革命に対する干渉戦争としてのシベリア出兵のことである。
群衆はたちまちその演説に聞き惚れることになった。そしてこのヒゲヅラの男の演説が済むと、つぎに女が現れた。これがまた滔々と弁ずるところ、毫も男子に異ならぬ。
このように英国では、人々が自由に自らの意見を堂々と公の場で披露することが当然の如くに認められている。それに引きかえ我が日本では?
(以下今回)
狂犬病というものは、野蛮国に限る。それはその国の恥辱であると言われている。倫敦でも或いは米国でもであるが、犬を愛すること日本人以上である。ところが犬には悉く鉄製の口輪をはめて、決して犬同士が互いに咬むことが出来ないようになっている。勿論人間も咬まれずにすむ。
彼らは犬を家の中に置くか、庭に置いている。それで倫敦の片田舎であっても決して犬が町の真ん中を走っているのを見たことがない。
そして犬を決して虐待しない。つい4~5日前の新聞に、ある貴族がゴルフに行って、ゴルフ中に連れてきた犬が邪魔になるのか、ステッキで殴った。ところがこれを見ていた者があって、これを裁判所に告発した。
その貴族は法廷でしきりに、自分は日頃犬を可愛がっている。そして余りに犬がじゃれつくから懲らしめのために殴る真似をしただけだと言い逃れようとした。ところが証人は反駁して、犬が鳴いて逃げ回るのを更に蹴倒して殴ったと言ったので罰金五ポンドを言い渡されたという。今の値打ちで7~8万円くらいであろうか。
もう一つ新聞記事から話題を。それは離婚裁判である。これはある軍人の女房の離婚劇。女房の離婚要求理由は、亭主が虐待したからだという。数え上げた二つは、何年何月何日に亭主は自分を突き倒した。何年何月何日に亭主が自分を殴ったという。
亭主の方では、自分は決して女房を虐待なんかしていない。今もなお愛していると主張する。裁判官は同居している女房を召喚して「暴力はあったか?」と聞く。女房は「たしかにありました」と証言。即女房の勝訴である。
離婚はことに近来多くなってきたという。というのは、戦争中(引用者注:第一次世界大戦)に何でもかでも結婚しらしい。女の方では、亭主が死んだら、しこたま金が貰えるから、これを狙ったらしい。
英国では結婚というものは、双方意思があえば教会に行って、牧師を頼んでチョットお祈りをして貰い、教会の帳面に新夫婦が名前さえ記入すればそれで結婚は成立する。どこかの国のようにやれ、戸籍謄本だ、親の承諾だなんて七面倒なことはないから誠に便利である。
便利であるだけにまた別れ話しも早い。しかし双方が合意であればともかく、一方が不承知ならどうしても裁判のやっかいになる。
神の許しを得て結婚し、人の許しを得て離婚するなど、矛盾も甚だしいと言わざるを得ない。法律には情状を酌量して「どうだ、思い直してもう一度仲良く暮らしてみたら」などとはかいてないからな・・・。そう碧川企救男は思った。