GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「龍馬暗殺」

2008年11月04日 | Weblog
坂本龍馬は靖国神社に祭られています。

明治政府がお国の為に戦った人たちを祭った神社が靖国神社です。
龍馬は江戸幕府に大政奉還させ、
明治政府樹立に大きな功績があったとして祭られました。

しかし、明治政府は正に薩摩と長州の連合政権でした。
議会制民主主義を目指して作られた政府(龍馬の願い)でしたが、
実際は独裁政治色がはっきりと見えていました。

そんな政府に反乱を起こしたのが 西郷隆盛の西南の役です。
西郷さんは江戸幕府を倒した最大の武倒派実力者ですが、
明治政府樹立後、平和を求める大久保・木戸らと対立。
不満分子を集めて明治政府に対して反乱を起こしました。

しかし、元々温厚な西郷さんは新たな時代の為に
自らの命をかけて不満分子を集めその先頭をきって
向けたくない刃を政府に向け、鎮圧されることによって
明治政府に貢献したと私は解釈しています。

西郷さんは倒幕の最大の実力者ですが、
反乱を起こした為に、靖国神社には祭られていません。

さて、「坂本龍馬の暗殺」の主犯は?

西郷・大久保が率いる薩摩藩の刺客に
倒れたのではないかと私は想像しています。

議会制民主主義を目指し大政奉還という
正に禁じ手のような妙案を出して、日本国内での争いを避けようとした龍馬。

264年続いた幕藩体制を完全に消滅させるには
幕府軍を徹底的に倒すしかないとした西郷と大久保。

この3人は友好関係にあったと思いますが、
龍馬が目指す議会制民主主義は、
西郷さんや大久保・木戸が目論む政府より
もっと純粋で理想主義的要素が高かったように思います。

薩摩有利(島津斉彬) を想う昔ながらの武士だった西郷さんにとって、
龍馬の思想は異宗教のように思えたのではないでしょうか。

危険思想の龍馬を排除する条件がまだまだ乏しいのですが、
西郷、大久保以後、土佐や長州と比べて、
薩摩からの自由民権運動者の排出が少ないのは、
地元・土地を守り、親を想い、君主に仕えるといった
昔ながらの保守的思想が浸透していたからだろうと思います。

しかし、龍馬は薩長連合の立て役者。
薩摩藩が龍馬を討ったと分かっては後々大問題となる。
西郷と大久保の命令は薩摩武士にとって絶対的なもので
その後も、堅固な密議は永遠に漏れなかった。

明治政府になって、引き続き江戸時代の事件を調査したのは
「龍馬暗殺事件」のみだと云われています。
しかし、政府はその犯人を見つけられませんでした。
それは、政府の中に犯人がいたからだと思っています。

京都見見廻組のしわざと云う説が有力ですが、
幕府からは暗殺指令は出してないといわれています。
当然、新撰組も彼を単独で追ったことは一度もない。
暗殺の場に残されていた鞘と草履から新撰組が疑われたが…。

大政奉還後、京都守護職会津藩の指揮能力が落ちてきた京都で
龍馬の存在が周囲からどう見えたのだろうか。

決して幕府側ではない、かといって勤王派とも思えない。
龍馬の真の想いに気づかない血気盛んな幕府側の若者が彼を襲った?

私はそうは思わない。
暗殺者はかなりの手練れの者で、その後一切の公言などはない。
指示したものとの関係も絶対的なものを感じる。
ここにも質実剛健な薩摩の武士魂を感じてしまう。
そして、倒幕後の薩摩主動による明治政府樹立、その後の藩閥政治を考えると
西郷・大久保が黒幕だったという説を私は押したい。

西郷さんは彼の事をこんなふうに評しています。
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、
 龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

西郷さんのいつ頃の言葉かまでは分かりませんが、
この言葉には「本当に惜しい人物をなくした」という気持ちが込められています。


ここからは余談です。

 西郷は単純に征韓論に立脚したものではなく、そもそも征韓論の根底には、西洋諸国に対抗するための『日本・朝鮮・支那三国合縦連衝の思想』(勝海舟)があったと云われています。

 この思想は押し寄せる列強国家(米・英・仏・露)からアジアの三国が合同して身を守もろうとするもので、幕府に対抗して薩長連合を考えた龍馬の案と似ているように思えてなりません。

 一旦決定しかけた征韓の議は、欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らによって翻された。明治4年10月23日の御前会議で近代国家完成のためには内治を治め、不平等条約の改正こそ最優先で、征韓などは問題に非ずと決定した。

 その後、旧士族や新政府への不満分子による反乱が各地で勃発する。その最大のものが西南の役である。戦役と云われたほど大きな内戦となった。明治10年1月、不穏な動きを察知した政府は、鹿児島にあった武器・弾薬を大阪に移転しようとしたが西郷の作った私学校の生徒がこれを奪取、占拠してしまった。明治4年の廃藩置県、明治6年の徴兵令、そして明治9年(1876年)の廃刀令でついに若者たちが爆発した(徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨)。

 そして大久保による西郷暗殺の流言が広がり、大隈高山の別荘にいた西郷の耳に入った。西郷はその顛末を聞き終わると「今更起こったことは致し方あるまい。」と、やおら立ち上がり鹿児島に向かった。明治10年2月15日 13000名の薩摩健児は「政府に尋問の廉これあり」として進撃を開始した。これが西南の役です。
 明治4年の御前会議から5年4ヶ月後のことである。こうして九州の山野に戦うこと7ヶ月、明治10年9月24日、城山にて西郷は自刃、薩摩軍も全滅した。

映画「ラスト・サムライ」は、西郷さんの物語がモチーフだといって過言ではありません。

 西郷が自刃する4ヶ月前の5月26日 木戸孝允が西郷の行く末を案じながら京都で病死した。そして翌明治11年5月14日 大久保利通は宮中に赴く途中、刺客に襲われて死亡した。木戸45歳、西郷51歳、大久保49歳であった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。