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「江戸の繁盛しぐさ-イキな暮らしの知恵袋(越川禮子)」という本はとてもオススメ!

2018年06月22日 01時00分00秒 | 
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 「江戸しぐさ」とは、元々は将軍家御用達の大手商人たちを筆頭に、商人達が一流の商人を目指すための心得で、江戸時代には江戸の住民のリーダーの心がけや身のこなしとして定着したようです♪

 「江戸しぐさ」がきちんとこなせれば人間関係が円滑にいき、商売が繁盛することは間違いなく、「江戸しぐさ」が「商人しぐさ」とも「繁盛しぐさ」とも言われたのはこのためのようです。

 進取の気性に富み、とても合理的でしかも実際的なのが「江戸しぐさ」の特長で、しかも「江戸しぐさ」は人を評価するポイントが880項目(一説には8800項目)もあったようです♪ 

 しかしこの「江戸しぐさ」は「文章化すると俗化する」として文書に残すことが禁じられ、また密かに講を通して伝承された「江戸しぐさ」は長い間、非公開だったため絶滅寸前だったようです。
特に以下の3つで「江戸しぐさ」は雲散霧消してしまったようです。

(1)明治維新(1868年)で廃仏毀釈とともに旧来の陋習として切り捨てられ、この時町衆自身も自戒焚書として貴重な古文書を焼いた
(2)国家総動員法(1938年)で全ての集会が禁じられたため、かろうじて「江戸しぐさ」を伝えてきた江戸の講は解散させられた
(3)欧米に追いつき、追い越せという1960年から始まった高度成長政策によって「江戸しぐさ」は雲散霧消

 そこで、「江戸しぐさ」伝承のため力を尽くしてきた師匠「芝 三光」氏に許しを得て、著者はきれぎれの会の活動記録や新聞論評などと直接の話を張り合わせ何とか「江戸しぐさ」を本書にまとめたようです♪

本書は「江戸しぐさ」の全貌の200分の1くらいを取り上げたに過ぎないようですが、どれも素晴らしいと思います♪
なおアメリカは江戸を徹底的に調査、分析、研究して知恵のエキスを厚め、特に「江戸しぐさ」の販売戦略、考え方、方法などをヒントとして対日戦略をたてていたとは知りませんでしたね♪
たとえば江戸の商家が小僧でも能力のある者は抜擢していたことをヒントに適材適所主義をとっていたようです♪

以下はその本書で紹介された「江戸しぐさ」等です♪
どれも素晴らしいと思います♪

とてもオススメな本です♪

・参考までに画家で蘭学者の渡辺崋山(1793~1841年)が残した「商人八訓」を記しておこう。
 1 まず朝は召使いより早く起きよ
 2 10両の客より100文の客を大切にせよ
 3 買い手が気に入らず返しに来たならば売る時より丁寧にせよ
 4 繁盛するに従って益々倹約をせよ
 5 小遣いは1文よりしるせ
 6 開店の時を忘れるな
 7 同商売が近所に出来たなら懇意を厚くし互いに努めよ
 8 出店を開いたら3年は食料を送れ

・江戸っ子の見分け方の最大公約数は「目の前の人を仏の化身と思える」「時泥棒をしない」「肩書きを気にしない」「遊び心を持っている」の4ついわれてきた。

・江戸っ子は漢字は漢字屋(学者)に任せ、そのひまに己の技を磨いた。書物の漢字にはすべてかなが振ってあり、「いろは48文字」さえ覚えればあとは辞書で調べられるちうしくみだ。いわば「餅は餅屋」。この思考が専門分業、共同作業、大量生産をさらに進展させ、同時に他人様の領分を侵さないという「江戸っ子」独特の気質をつくった。その中で、江戸っ子は、まわりの人々に「江戸人の手本」と言われるような人間になりたい!と皆、心掛けていた。特に言葉は人間関係を円滑にする「道具」や「潤滑油」と考えられ、口から出た言葉は言の端でなく、事(行為・行動)と同じ価値を問われた。

・また江戸っ子は、江戸の講に入れてもらって、江戸の「講中」に、「あの人間は偉い人間だ」と評価されることを何よりも「名誉」と考えていた。880項目もあったという人間チャック・テストに合格しなければ「立派な者」と言われなかったという。


・簡単に言ってしまえば、お客様が見えたら、お客様が見えたと言わないでまずあいさつをする。「気付き」、「気働き」の行動が、「江戸しぐさ」の基本であるという。

・第一に「見て分かることは言わない」。汗を流している人が見えたら、「汗かいてますね」とは言わないで、すぐ冷たいおしぼりや水を一杯さしあげよという即実行のすすめなのだ。その人の健康状態は会って見れば分かるのに、ことさらお元気ですかとは聞かないのが「江戸しぐさ」なのだそうだ。その代わり、稚児には思ったこと、見たことをどんどん言わせる。これがトレーニングになる。ある時から稚児たちは、見て分かることを口に出さないで実行するようになる。見様見真似で大人のしぐさが出来るようになれば「江戸しぐさ」が身に付いたということになる。

・第二に「結界覚え」。これは大事なことで「覚え」は稚児言葉で、成人は「結界わきまえ」という。辞書には結界は、本来は①仏語で、仏道修行の妨げにならないように、一定の場所に僧や民衆の出入りを制限すること②寺院の内陣と外陣、外陣の中で僧と俗との席を区別するための柵③禁制-などと出ている。結界をわきまえるとは、自分の存在場所、あるいは在り方(位置づけ)がきちんと客観的に把握できること。起きて半畳、寝て一畳の人間としての最低基本線は平等であるが、自ら自分の身のほど、立場をわきまえることが出来ることを言う。武士ならば、己の分際を知れということになる。たとえば落語家は扇子を一本膝の前に置くことによって、客と噺し家の結界を明らかにしている。おはじき遊びでも、おはじきとおはじきの間に指で一本線を入れるなど、稚児の生活にまで「しぐさ」として定着していたという。

・第三に「人のしぐさを見て決めよ」。仕事に就く時、そこで働く人のしぐさを見て決める。職場を変える時、現代の価値観である収入などトラバーユの外見的条件だけでなく、必ずそこで働いている人のしぐさを見て変えること。そうしないと同じ苦労を繰り返す。結婚もそうだ。離婚の原因もよく性格の不一致などと言われるが、あれはしぐさの不一致と思った方が良い。家柄、学歴、ルックスでなく、しぐさを見に行きなさい、自分自身の目で良く確かめなさい。これは良縁の鍵にもなる。

・「江戸しぐさ」では神経を「気」と呼び、気を使うのが一番「体にさわる」と恐れられていた。「気」が減った時は、一に眠り、二に眠り、三、四がなくて五に赤ナス、と聞かされたそうだ。睡眠をたっぷりとればたいがいの疲れはとれる。それでも良くならなければ栄養のバランスが悪いと考えたのである。

・「江戸しぐさ」の良さの一つは、今も昔も一つの約束やルールに従えばお互いに行動が楽になり、神経も使わなくてすむ点にある。しかし、仲間うち、お客様相手、不特定多数と相手に応じて臨機応変に変わる。つまり、仲間内のものは暗号的なもの、符牒が発達したし、お客様相手のものはおあいそが肝心だった。不特定多数の人に対しては敵対行為をしないという戒めが前提になった。そしてひとつの型が完成する。たとえば仲間うちでは、「手は口ほどにものを言い」とばかり、同じ女性でも人妻か娘かなど指ひとつで表現したり、上客だと二の腕をさすり、一見のお客様だと座布団を素早くひっくり返して仲間に知らせたりする。お客様には「おあいそ目付き」、「おあいにく目付き」などで、「目は口ほどにものを言う」表現をし、親切な対応をした。あるいは不特定の人々には「肩ひき」や「傘かしげ」などをして、どんな人でも仏の化身と考え、敵愾心のないことを示す通行儀礼としたのである。
・商人は物を仕入れ、それを売る。その行為を通じて広くは江戸のため、お客様のためになり、お互いに気持ちよく、しかも適正な利潤を最も合理的にあげていく、そのための「江戸しぐさ」なのだそうだ。有能な勘の良い番頭は顧客のニーズを数でなく質でとらえ商品を仕入れたという。つまり意見の違いを大切にした。「尊異論」である。たとえば「これが売れている」と小僧たちの10人中9人が賛成しても、ユニークな小僧1人が「これが売れる」と言った品に共感すれば、番頭はそちらをとった。織田信長が豊臣秀吉をサルと呼んでも、発言にアイデアがあると思ったら用いたように、多数派というだけでは動かない。

・「江戸しぐさ」の最初の目安として次のことがいわれてきた。「江戸しぐさ」が出来るための「踏み絵」とも考えられる。
1 初物を愛で、ご祝儀相場をつける。
2 (調子に)乗りすぎても声援する。
3 新人、新顔を歓迎する。
4 新しい物に好奇の目を向け、真っ先に取り込む。
5 ものごとを陽に解釈する。

・付き合いについては、江戸では人に限らず、全てのものに付き合うという感覚があった。たとえば習字の「筆付き合い」、お月見の「満月付き合い」など。もっとも重視するのが「異国さん付き合い」「一見付き合い」。これは文字通りの外交で全くの赤の他人同士がいかにうまく付き合うかが問われた。明治になって江戸の「お付き合い講」が禁止された時、古老たちは「異国付き合いの方法を知らんような連中が、天下国家を取ってうまくやっていかれるんでしょうかね」「これでは三代目にはイギリスやアメリカとケンカして、シャッポを脱ぐようなことになりませんかね」と言って嘆いたという話が伝わっている。

・「江戸しぐさ」は互助の精神から生まれたともいわれる。この世に生きている人間は、皆、仏様やご先祖様に見取られながら生きている。だから、お互いに教え合い助け合って、顔をあからめたりしないですむように、楽しく、明るく、いたわり合って暮らしていこうという考え方だ。つまり共倒れしない共生の生き方だ。戦争や事故、不幸などが起きないように注意し合って働き、もし不幸にも起きたら気の毒な人を一人でも少なくしようという江戸っ子の精神だ。「江戸しぐさ」は各地から集まった風俗、習慣の異なる人たち皆が、共に生き、共倒れをしないでうまくやっていけるように考案された「人間関係」改善の知恵だった。そのため法を守り、悪を徹底的に罵り、取り締まる-それが江戸っ子の良さ、江戸の良さだった。このことは頭でなく、体で伝えられてきたことなのだ。「江戸しぐさ」は「肩ひき」とか「こぶし腰浮かせ」といった型で伝承される一方で、歴史や時代背景、衛生思想などを含めて、社会をマクロに見る森羅万象からミクロの生活全般の問題に及んでいる。1年365日、稚児から死ぬまで「江戸しぐさ」は延々と続いていく。

・全ての人間は下品から出発する。これが「江戸しぐさ」の基本的な考え方なのだ。赤ん坊は丸裸で仏様から「上品に育てよ」と世の人の子の親に授け賜うたものだとした。「人間はスタートラインはみんな同じなのだ。仏様は人の子を皆、公平、平等に情けをかけてくださる。お前も早く下品を脱し、寺子に参じて中品になり、お講師様のような上品な人間になれ」こう言ってすべての江戸講中たちは己の子に諭したものだという。下品のままで一生終わるのも人の子。中品で終わるのも人の子。同様に上品まで進むことの出来るのも人の子だった。

・「江戸しぐさ」では人間の心身もそれぞれ3つに分け、上、中、下品とする。心について言えば「うまい物が食べたい」という気の働きを下品とする。「歌を詠いたい」を中品。「人を助けたり、人の子を養育(教える)したいという心」を上品の心と言う。次に体。真っ裸で平気なのを下品。赤ん坊はこれに該当するが、母親が衣でやさしく包んであげるので、下品の恥をさらさないですむ。物を食べながら歩くのを中品。大人がそれをしたら1ランク下がって下品と呼ばれる。

・「江戸しぐさ」は、「書くと俗化するので書くべからず」と代々申し送られてきた。そのために多くの「江戸しぐさ」が消えてしまったという。江戸が続いている間は親から子へ、子から孫へと口伝え、目伝えに受け継がれ、また講では先輩から後輩へ、あるいはお互いに切磋琢磨し合ったのだが、中には家訓として今日まで伝承されたものもある。長男に要点だけを利き書きさせた例はあるが、口伝が主流で、大量に書物化、文章化することはなかったのである。

・人と接する時は、一期一会で相手の話に傾倒し、仕事を覚える時には他人の所作を真剣に見取る。ここから俗に言う「コツを盗む」といわれた自立心も育ち、同時に人を見る目も養われたようだ。普通の人間ならば礼儀作法を知っている。しかしそれが本当に自然に、自分自身の「くせ」のようにしてしまう。つまり食事の前に手を洗うということは誰でも知っていることだが、手を洗わないと気持ちが悪いので洗わずにいられない。

・「酒癖の悪い奴は直らない」「あいつの言いぐさが気に入らない」などの言葉は、しぐさが「悪いくせ」になっていることを示している。悪いクセは矯め、良いクセはもっと伸ばす。人の上に立つ者にふさわしいくせに昇華させた美しいくせ。美しい良いしぐさがより磨かれて、初めて粋なアクションの傑作といわれる「江戸しぐさ」となったようだ。なにごとも一日にしてはならず、というところだろうか。「江戸は一夕にしてはならず」寺小屋で、稚児たちに耳にタコができるほど師匠が教えた言葉だという。

・江戸の稚児(子供)たちの養育は主として寺小屋で行われた。寺の子という名称の示すように、仏教の影響を強く受けていたようだ。江戸の町人はほとんどが商人であったため、親には絶対的に子供に教える時間がない。親たちは共同でお金を出し合い、寺小屋の師匠に子供たちを預けた。中には商売が不景気な親もあったが、それは師匠が面倒を見たそうだ。親たちも自分たちが出した束脩(寺子屋の入門料のようなもの)をその子につぎこんだなどとは決していわなかったという。子供のない人も、どの子供も悪くなっては江戸の町のためにならないといくばくかのお金を出したという。勉学環境にも識見を持ち、寺子屋の周囲にはぐるりと生け垣をめぐらし、青(今日の緑、つまり樹木のこと)に包まれた中で勉強すると、目も疲れず、頭も良くなるといわれた。

・寺小屋の師匠は40歳以上が原則で、男性ばかりでなく女性もいた。助手には子供たちの中で最優秀者などを選んだ。人の子を導くのに老人に偏っても若いリーダーに偏ってもいけないと年齢のバランスも考えられていた。

・寺子屋で学ぶ内容は実学が中心になった。まず必要最小限の「読み、書き、算盤」をマスターしたあとは、「見る、聞く、話す」に重点を置いた。各地の寺小屋が「読み、書き、算盤」だけに力点を置いたのと大きな違いである。寺子屋に入るまでに、かなを7文字、つまり「いろはにほへと」を書けなければならなかったが、これはひとつの目安に過ぎなかったという。ものの考え方と実学とのバランス重視は見事なもので、たとえば習字にしても働くという字は人が動くから働くとなる。基本は、はたを楽にすること、はたは自分以外の人たちで、他の人たちのためになるよう励めと教えた。「けんすみをまし、すみひとをます」とも言い聞かせた。「硯墨を増し、墨人を増す」と書く。硯があるから墨をすることが出来るし、墨があるから人間は文字を書くことができる。三者一体、どれかひとつ強いだけではなく、3つが一体となって良いことが大切ということである。また、ご老体や目の悪い人の前では常に大きな字を書くようにさせた。「おみなえとほうかく」。女江戸方角。女子のための習字教本で江戸案内絵図。江戸八百八町、町名、橋、屋敷名などが全部書いてある。開設や注意なども書いてあったから地理感覚が習字と一緒に身に付いた。書家の町春草氏はこの「おみなえとほうかく」を評価、持ち前の達筆で再現しているほどである。

・「さようでございます」「お暑うございます」などの大人言葉は9歳前後までの必須だったそうだ。12歳までには両親の代筆ができることが課題だった。たどたどしくても書くことが大切で、まわりは上達を励ました。江戸の時代、最新の自然科学を教えるのは15歳がめどだった。子供たちは身体の構造図を描いた一種の曼荼羅を見ながら、脳みそと各器官を結ぶ糸のようなものを心と考え、その重要性をカラクリになぞらえて学んだ。

・その頃の江戸の教育は世界にも例のないほど、進んでいたようで、オープンスクール方式であったし、今日やっと一般的になったブレーンストーミング(他人の発言は批判しないで自由奔放なアイデアを積極的に出し合う)やロールプレイング(各自、役割を仮定して実態に違い劇を行いトレーニングする)も200年前の江戸の寺子屋ではすでに行われていたという。

・ブレーンストーミングは現代の江戸講でもよく行われている。テーマは今でいえば魚の名前や草木の名前をどれだけ言えるとか、俳句の季語を競い合うとか、バラエティーに富んでいる。ともあれ、江戸における寺子屋の発達は、量、質ともに全国でも群を抜いていた。明治に入って学制が敷かれたにも関わらず、官制の学校を嫌い、寺子屋の伝統をつぐ私立学校が次々とつくられる有様だった。江戸だけは特別だったということが分かる。また、こうした寺子屋の存在が、日本人の識字率を高めるとともに、様々な柔軟な考え方を生み、知識水準の拡大につながった。明治になって欧米人が驚嘆するほどの欧米化、産業化を進める原動力にもなった。

・江戸の町屋講システムについて触れたい。今の人々は講というと、頼母子講とか富士登山講を連想するが、これはほんの一部にすぎない。講の由来は仏教に求められるが、江戸期になると、ある特定の目的ごとに集まるグループ、いわば選ばれた会員制のクラブを言うようになる。江戸の町衆はこの講をお互いに知恵を出し合い、助け合う相互扶助システムにしたのである。

・浮世絵などにも見られるが、「講」は本来、「構」と書くのだそうで、つくり、組み立て作ったものを言い、結構とは建築用語で、建物について全体の構成をどうするか、どこをどのように木と木を結ぶかなどの意味だそうだ。「日光を見ないうちは結構と言えない」というのはここからきているという。寺子屋では「講」のことを「講とは世の中のこと」で、「漢字では世間と書く」と教えていたそうだ。つまりこんな具合だ。「私たちが生まれ、育ち、住まわせて頂いているこの大江戸は日本一の町です。何が日本一かというと、講がしっかりしているからです。お講は人と人がしっかり手を取り合うところです。そういうところでは人間は安心して住むことができます。お講はお付き合いの場です。人間がお付き合いをしている世の中をこの世とか世間とかいいます。だからお講は世間ということができましょう。皆さんも、この寺子屋で、人と人がしっかり手と手を取り合ったお付き合いができるようにしっかり勉強してください。そして日本一のお江戸にいつまでもいつまでも安心して住めるようにお付き合いをしていってください。

・江戸の町衆は「講」を手だてといい、それぞれの出番と役割を分かち合う講を生んだ。自分たちの意思と力で講座を組み、講師を招いて一座を用意し、生活の手だてをたて、暮らしをエンジョイしていたのだ。メンバーを講中と呼び、会議を「講習会」と言った。会議をするところは「講堂」、小さな会議室は「講室」と言った。

・江戸の講の講集会は全員が座席指定だった。つまりメンバーの一人一人が各自の座を持ち、そこに敷くものを座布団と読んだ。講中全員が座布団に座った状態が講の座、講座だ。講座は「全座」が揃って、初めて「講」の意義である「講義」が始まる。そのため、時刻に遅れては他人に申し訳ないので、休むときは代役を立てた。つなみに欠座を許されるのは、子供の急病と天変地異の折だけだったという。またタバコは吸えない掟だった。

・江戸の講は原則として1ヶ月に2回開いた。その日は商売はしない。準備は明け六つ(午前六時)、茶碗を熱湯でグラグラ四半刻(約30分)煮ることから始まった。今でいえば熱湯消毒して風邪などがうつらないようにした。江戸を良い都にするために今、何が問題か、何をしなければならないかなど、その時々でいちばん重要な問題を取り上げ、その手だてをした。ちなみに良い都とは、安穏無事(いくさのないこと)、まめ息災(まめのようにころころしてまめまめしく働く)、しあわせずくめのこと(揃わないと役に立たないものが揃うことを幸せという)だそうだ。

・江戸講中は手取り、足取り、口移しで「江戸しぐさ」を教えた。知識を頭で理解させるのではなく、体で真似をし、覚えさせていくのだ。江戸の養育はすべて稚児も大人も実学本位で究極の目的は人を見分けられることとしていた。たとえば、稚児たちは、茶碗の洗い方やしまい方、箸の持ち方や畳の掃き方、雑巾の絞り方、廊下の掃き方などをこういう機会に大人たちから見様見真似で学習した。

・江戸の講の座は「車座」形式だった。縦、横だけでなく、講師を中心に無数の心の糸が張りめぐらされたように、座中の皆が「楽しくおおらかに」話し合う。ここから奥ゆかしい「江戸しぐさ」が生まれてきたようだ。座中同士、講師と座中が心の糸でしっかり結ばれていた。

・江戸の講では、武士の悪口であろうが、役人の批判であろうが、「講の集会場」の中では何でも自由に言えたそうで、それが江戸っ子の批判精神を醸成していったのだそうだ。講師への質問は、バラバラにするのではなく、皆で話し合い、考え合って、どうしても分からないことだけを講師に尋ねるのだ。そうすることによって、お互いに助け合いの心も生まれ、個々が同じような質問をすることによる時間の無駄を省くことができた。

・「なまず講」と言って地震の時は、今で言うボランティアで水や食糧の補給で大活躍したり、また「宿がえ講」と言って、そこの講中になると、同じ家賃で子供の数によって広い家に入居でき、子供が成人して独立すると、狭い家に宿替えする、今の住み替えシステム(といっても営利でない相互扶助システム)が確立していた。すでに触れた「付き合い講」も交渉術を身につける貴重な機能を果たした。

・円熟期の大江戸は人間の「心の糸」で美しく織り上げられた地上の楽園であったと言っても過言ではないようである。

・【ありがたい】
ありがたいとは、有り難いと書き、よくあることではないということ。買い物はどこでしても良いのに、わざわざ当店ごときで買ってくださるとは有り難いこと。そこで、その行為に感謝して「お礼」申し上げる。ありがたいは略式表現。「ありがたくおん礼申し上げます」と続けるのが本当だった。今日の「ありがとうございます」という表現はこの変化形。外国人によると日本語の中で最も美しい言葉のひとつが「ありがとう」だという。心が伝わるからだろう。

・【いただきます】
食前の感謝の言葉。「大江戸のお陰様で、今日も一日心と体にぬくもりの糧のいただけることをありがたく思い、よくかみしめて頂きます」。戦乱に終止符が打たれ、江戸時代が安定するにつれ、こうした表現になったことは無理もない。しかし本来は五穀豊穣の神と農民や漁民など海山の幸を実際に食卓に届けてくれた人々への感謝を意味した。

・【お心肥】
江戸の町衆の言葉で「おしんこやし」と読む。頭の中を豊かにすること。教養をつけること。人間はおいしいものを食べて体を肥やすことばかりを優先しがちだが、それだけではいけない。立派な商人として大成するためには人格を磨くこと。教養を身につけることにいそしむべきだとお互いに言い聞かせた。

・【打てば響く】
太鼓や鐘をたたくとすぐ音が出る、つまりすぐ反応があることから江戸っ子の対応の素早さをこう表現した。明治になって、外国人たちがどっと子安(横浜)に上がって来た時、彼らが驚いたのは、江戸の車屋など職人たちの、外国語をマスターする素早さだった。気配りの見事さ、手配りの良さ、頭の回転の速さ、いずれも江戸の人々にとっては自慢のタネだった。
・【稚児問答】
寺子屋の卒業試験のようなもの。二人向き合い、師が客になって無理難題をふっかけたり、こんにゃく問答で弟子をへこませる。これは商いの一種のシミュレーションモデルのようなもので、頃合いを見て取り巻き連中が助太刀をする。この稚児問答に受かれば、5~9歳と幼くてもそのまま社会で青年の資格を与えられる。江戸の人口の半分近くは商人。父親がいつ死んでも跡取りができるように、長男、長女を養育した。末っ子でも稚児問答をクリアすれば長男扱いになる。この試験は大変難しく、実子が稚児問答に受からなければ、養子をしても優秀な跡継ぎを選んだ。稚児問答は商家が永続するかどうかを判断する重要なチェックポイントでもあった。

・【時泥棒】
江戸城の大名時計は1分刻みの精巧なものだったので仕えていた武士はもちろん、将軍家御用達である商人たちも時間に正確にならざるを得なかった。日の出、日の入りを基準に、現代でいえば夏時間を採用していたため、一刻は2時間6分から1時間37分と幅があったという。複雑なこの時間に合わせて商人は行動していたから、突然、押しかけて相手の都合に関わりなく勝手に時間を奪う行為は「時泥棒」と厳しく禁じられていた。1年は365日、8760時間、52万5600分、限りがある時間をお互いに大事に使おうと戒め合う言葉が時泥棒でもあった。もし、会いたい時は事前に手紙を届けさせるなど、アポイントメント(約束)が常識になっていた。お金は借りても後で返せるが、過ぎた時間は取り返しがつかないところから時泥棒は、弁済不能の10両の罪といわれた。

・ご承知の通り、江戸時代は士農工商文化でございましたけれども、江戸に関しては農はもちろんございませんね、田畑がないんですから。工というのは制限されていますね、刀鍛冶も平和ですから。それに今のようにインダストリーがありませんから、工はほとんどありません。士農工商の士というのは侍ですが、案外忘れられているのは、彼らは1年間の集団旅行をしているに過ぎないということです。江戸では、たいてい春5月ごろ、参勤交代が来て交代しますから。江戸に住んでないんですね。長くて2年です。成績のよほど良いのは3年以上いますが、平均ほとんど1年半です。それで江戸にいない、安住していないわけです。士がないとなると、あとは商だけですね。商がどのくらいいるかと言うと、推定で約50万人。正確には40万という学者もいますが50万です。あと残りの4、50万というのは参勤交代で年中フラフラしているわけですから、今なら東京駅の雑踏みたいで、いちいち聞いてみると結局分からなくなっちゃうんですね。ですから江戸の人じゃないんですね。従って、町方の50万人を対象に今のこのお話、「江戸しぐさ」は出てるんですね。そのへんを明確にしておく必要がある。

良かった本まとめ(2017年下半期)

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