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野球は人生そのものだ(長嶋茂雄)

2010年01月08日 01時00分00秒 | 
<金曜は本の紹介>

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この本は、あのプロ野球の栄光の背番号「3」の長嶋茂雄さんの自伝です。

天才と言われた長嶋さんですが、やはり真夜中にバットを振ったり等、人並み以上に努力をしていたということが分かりました。

また、就寝前には九回裏ツーアウト満塁の場面で打つ等のイメージトレーニングをしていたようです。そういうイメージトレーニングをすると現実にそうなるんだなぁと改めて認識しました。

特に、長嶋さんの選手時代や監督時代をよく知っている方にとっては、その頃の記憶も思い出せて良いかと思います。

とてもオススメです!!

以下はこの本のポイント等です。

・昭和11年(1936年)2月20日、現在の千葉県佐倉市で農家の二男二女の末っ子として生まれた。2600グラムという小さな赤ちゃんだった。母ちよ35歳の子で、父利は臼井町の収入役を務め、田畑の大部分は近所の人に貸し、比較的に暮らしは裕福だったようだ。父は、東銀座の歌舞伎座によく通うような趣味人であった。大柄な美男子で祭りでは女形を演じたりした。母は対照的に明治女の気骨というか、「五黄の寅」で気が強い反面、情にもろいその典型だったようだ。背筋もピンと伸びて体格もがっちりしていた。

・小六になっても一番のチビ。母も小さく兄弟はふつう。あとで僕だけが人一倍大きくなったのは突然変異だったかもしれない。そのころはあだ名も「チビ」だった。しかし、運動神経抜群で、運動会はいつも一等賞。投げること、走ることはもう抜群で、競争したら近所の「ポチ」にも負けないので「ポチ」というニックネームもあったほどだ。やがて「大将」と呼ばれるようになる。

・このころ食べるのは人の倍、さらに身長がすさまじい勢いで伸びる。背が伸びる病気かと不安になって保健室に行くと校医に「百万人に一人だよ。ばかだっぺ」とあきれられた。高校2年生では170センチ、3年では180センチを突破するような勢いだった。

・夕暮れまで練習し、やっと合宿所へたどりつくと、飯を詰め込む暇もなく「長嶋、いるか、これから夜間練習をやる」と特訓が待っていた。暗くて互いの顔すら見えない。伝説となった月夜のノックだが、伝説というものでなく本当にやったのだ。ボールに石灰をぬって、グラブを脱いで一歩間違うと指を骨折してしまう。それくらい追い込まれた練習だった。だが、素手で捕ると球際が強くなって変化に対応できるようになる。一番やさしいところでバウンド処理するのがフィールディングの極意だ。真剣に球と勝負していくと、それが分かってくるから不思議だった。

・若い頃から一度は野球の聖地へ行って思う存分プレーをしてみたいという夢があった。「プロ入りしたときから、私の目は大リーグに向いていました。日本のプロ野球なんてメじゃない。大リーガーとしてプレーしたいって・・・・・。そんなことを口にしたら大変なことになるんで、だれにもいいませんでしたが、腹の中ではいつもそう思っていたんです」私が「東京読売巨人軍50年史」に書いたことだからウソはない。

・立教時代の、特に砂押監督に指導を受けた短い期間だが、この1年半の練習は忘れられない。野球人として将来プロに身を投じる者をあれだけ心技両面で鍛えてくれた。感謝の気持ちでいっぱいだ。技術、体力、精神力のすべてを学んだ。プロとしての骨格もできたし、基礎ももちろんできた。一番大事な技を発揮するその技術、そこにメジャーのアメリカ的な指導法を用いてくれた。これが僕の最大の財産だ。

・実際、巨人の契約金は1800万円で一番低かった。中日ドラゴンズはたしか2350万円。契約金のほか映画館を1館提供という大映の提案もあったし、大洋は全球団が提示した契約金の最高額プラス1000万円。西鉄の稲尾和久さんは前年50万円だったという。

・私は背番号3は永久欠番ではなく、できたら千葉さんからバトンタッチされたように他の選手に引き継いで欲しいと思う。僕もまた次の人に手渡ししたい。

・4打席連続4三振の痛恨のデビュー。私に投じた19球のうち10球スイングしたが、バットにかすったのは1球だけ。それも内角に食い込む直球にのけぞってよけたバットにあたったもの。空振り9、見逃しストライクが2(ボール7)。惨たんたる結末だった。金田さんは「三振をとるというよりも、こいつだけは脅かしてやろうと思った」という。強烈なプロの洗礼を受けて、二ヶ月間は打率1割台と低迷を続け、3番の座から水原監督は降ろした。

・プロとしての売り物は三塁打と考えていた。というのはつねに全力疾走でようやく達成できるもの。クロスプレーが一番観客をはらはらどきどき楽しませる。打った瞬間からサードまで滑り込むつもりで1、2塁を一気にダダアーッと駆け抜けた。その時、藤井一塁手の「あっ」と言う声が聞こえた。踏み忘れたのをバッチリ見つけられた。だが、そんなもの、格好悪くて戻るわけにいかない。打球はロケットみたいに吹っ飛んで左中間スタンドに到達していた。ホームインすると、広島側から1塁ベースを踏んでいないとの猛攻、哀れ、私の28号は「ピッチャーゴロ」と書き換えられたのだった。

・チームはリーグ4連覇を達成。私のプロ1年目の打率は阪神の田宮謙次郎さんの3割2分に次ぐ3割5厘の2位だが、92打点、29本塁打の二冠。盗塁でも2位の37盗塁をマーク、懸命に走ったおかげで併殺打は3つだけ。満票でセの新人王に選ばれた。パは27勝を上げた南海の杉浦だった。三冠王を逃したことよりも、かえすがえすも残念なのが、あの幻の本塁打である。トリプルスリーといわれる打率3割、30盗塁、30本塁打という記録はパワーと俊足巧打の一流選手の証明である。もし一塁をちゃんと踏んでいれば、新人で昭和33年に背番号3番の3塁手が・・・・と、実に美しい三並びの記録が野球史に残ったはずだった。

・サードからロイヤルボックスはすぐ目に入った。守備についていてちょっと余裕があると、陛下と皇后さまの顔を見ていた。1年坊主だった王さんは、時々そおっとファーストから見ていたという。9回裏、先頭打者として打席に立った私は「打ちたい。必ず打てる」。いつもの自己暗示をかけた。2-2からの5球目だった。運命の1球はインコースの高めにきたストレート。振り抜くとボールは左翼上段に消えていった。プロ入り初のサヨナラ本塁打だ。2塁、3塁を触塁して本塁に向かうと、拍手をおくられながら陛下は身を乗り出しておられた。皇后さまも半立ちの姿勢。「ああ、野球をやっていてよかった」としみじみ思った。あの光景は忘れられない。来た球を無心に打ったというのが本当の心境。だから世に言われている狙って打ったとか、そんな余裕はない。

・私の本質というのは、天才肌でもなんでもない、夜中の1時、2時に苦闘してバットを振っている。人がいなくなったところでは、自分との技への血みどろの格闘を一人で必死にやっていた。通常の1日は睡眠6時間、朝7時に起床。布団の中でうじうじしているのが嫌いだ。後楽園で試合が終わったら40分後にはもう自宅にいた。そのまま庭の人工芝で振りまくる。1時間はその日の復習と翌日のゲームの予習をした。それから風呂に入り、夜食。明日に備え早めに就寝という日課だった。

・打撃の神様・川上さんに代わって初めて4番を打ったのはプロ入りした年の8月6日のこと。この巨人の「4番の座」を守るために朝から晩まで命懸けの練習をやり抜いた。一切、表には見せず、世間にはいつも笑みを絶やすことがない。これは結構苦しい。納得のいくまで悩み、振るしかない。大打者、名打者には直接体当たり取材した。巨人の名二塁手の千葉茂さんおファウル打ち、右打ちをはじめ一流打者の所へは片っ端から教えを請いに出掛けて行った。意外に秘伝を伝授してくれたものだ。

・バッティングは生き物。毎日毎日、同じように振っていても何かは違う。好調ももって10日ぐらいか。長い人で二週間。すぐ下降期に入るが、これがやっかいなことに長い。

・絶好調の時は、怖いものなし。どんな球でもいらっしゃい。インコースだろうがアウトコースだろうが、この状態になると、「来た球を打つ」だけ。私が「来た」と思えば、それは私のストライクゾーンとなる。悪球打ちというが、敬遠ボールやウエストボールをホームランしたり、逆転打にしたのも、マイゾーンに入って来るからだ。そんな時、投げた球がソフトボールくらいに見え、打てない気がしなかった。調子がいいときはボールの縫い目が見えた。人によるが、川上さんはボールが止まって見えたと言い、王さんは、ボールそのものではなく中の芯棒を打つ感じだったという。

・「冗談じゃない」。敬遠はせっかく球場に来てくれたファンの楽しみを奪う背信行為だ。「なぜ勝負しない」カウント0-3になると、バットを持たずに打席に入ったり、0-3からわざと空振りして四球拒否行動に出たこともある。抗議の意味でバットを持たずに無言で構えたことは4回もあった。

・就寝前の儀式があった。イメージトレーニングだ。毎夜、九回二死満塁、バッター長嶋、カウント2-3、夜ごとベッドに入る前にそんな状況を思い浮かべた。子供のころ柿ノ木の下でやったことと全く一緒だ。

・昭和43年(1968年)9月18日の甲子園、同率首位で並んでいた阪神-巨人戦で投手バッキーが王さんに2球続けて死球寸前のボールを投げ、怒った荒川コーチがバッキーに殴りかかり、大乱闘に発展しそうになって両者退場となった。バッキーは殴り合いで小指を骨折した。ランナー1、2塁から試合再開。代わった権藤正利がいきなり王さんの後頭部に死球を与え、タンカで運ばれる。試合は中断、場内は騒然とした。私はその乱闘直後、権藤から35号となる3ランをレフトスタンドにぶち込んだ。ケンカ野球は負けてられない。あの打席だけはどんなことがあっても打ってやる、全身全霊の力をバットにぶつけようという気だけだった。

・周りから茶々も随分入ったが、ONの間にただの一度もトラブルはなかった。技術では擦り切れるほど競い合ったが、二人の間には口げんかすらない。考えてみればそれも奇跡ではないか。右と左で歳が4つ離れ、性格も役割もタイプが全く違っていたことが良かったのだと思う。王さんも大人だし、僕も兄貴分として、互いを知っていたということだろう。

・負けたときは悔しさで目が覚めることがある。夢の中でその日の試合をやってしまう。試合でよくダッグアウトの壁をけ飛ばした。お客さんの見えないところで。年間4、5回は足首をねんざした。負けたときは選手以上に悔しい。監督経験15年からすると、選手の方が数段おもしろい。自分の力によってチームに貢献をもたらし、勝利に直結する。全国津々浦々のファンの皆さんが喜ぶのだから、その喜びの波動が肌にガンガン響いて入ってくる。

・波乱だらけの野球人生だったような気がする。その野球人生の一番骨格になっていたものを挙げろと言われれば、私は子供の頃の母の手作りボールと砂押監督の猛練習と言うだろう。それは野球における勝利以上の大切な何ものかを与えてくれたからである。


<目次>
はじめに
第1章 サード長嶋誕生
 見果てぬ夢
 母がつくってくれた3つのボール
 裏庭の柿の木の下
 父が見守った超特大アーチ
 鬼のスパルタ教育に飛び込む
 月夜のノック
 「富士山のような日本一の男になれ」
 六大学本塁打記録
 砂押監督に叩き込まれたメジャー流
 <インタビュー>立教大での恩師・砂押邦信が語る野球人・長嶋茂雄
第2章 常勝・巨人の燃える男
 栄光の背番号「3」
 4打席4三振
 二冠の新人王
 天覧試合
 好敵手・村山実と杉浦忠
 燃える男の本質
 ON砲
 東京五輪が結んだ恋
 ”哲のカーテン”と奇跡のV9
 引退勧告
 「わが巨人軍は永久に不滅です」
 <解説>創成期の日本プロ野球と巨人軍
第3章 伝統の重みとチーム愛
 史上初の最下位
 起死回生の連覇と「空白の一日」
 伊東前、伊東後
 優勝こそ巨人の使命
 志半ばで「男のけじめ」
 浪人12年
 球界の存亡を賭けて
 ON砲を知らない世代と
 勝つ3連発で遂に日本一
 悔いのない監督委譲
 ファンに忠義、選手に信義
 野球は人生そのものだ
 <インタビュー>巨人軍代表特別補佐・長嶋一茂が語る父・長嶋茂雄
おわりに
栄光の背番号「3」の軌跡

面白かった本まとめ(2009年下半期)


<今日の独り言>
最近、5歳の息子とよく図書館に行くのですが、いつも息子は同じ本を読みます^_^;) 「鉄道ファン」という雑誌と「14ひきのねずみシリーズ」です。たまには違う本を読めばと思いますが・・・^_^;) しかし、「14ひきのねずみシリーズ」は情操教育にも良いかと思います^_^)

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