ニュースでも報道された東京港区の高輪築堤跡をいくつかの学会・団体と共に昨日2月26日に見学してきた。
正直に言うと、保存状態が素晴らしく良い遺跡で鳥肌が立った。しかも大規模。
明治5年、日本、いやアジアではじめて新橋-横浜間に蒸気機関車が走る。明治2年から始まった約29キロの工事のうち、最後の難所が芝から高輪を経て品川までの約2.7キロであった。問題はその間、海の上に機関車を走らせることになったこと。
現在の第一京浜国道は、箱根大学駅伝でも八ッ山橋から品川駅前、高輪を走って日本橋から大手町を目指すが。この道はまさに江戸時代の東海道だ。幹線道路に鉄道を走らせるのは当時としてはなかなか理解が得られなかった。
東北新幹線が日暮里あたりから地下に入り上野の地下駅を過ぎてから秋葉原あたりで地上出て東京駅に入るのと同じで、密集した地域の生活と道路事情は、新幹線の高架を拒んだ。
高輪も、街道筋で暮らす住民の生活、漁師たちの漁業、また東京の国防など、諸般の事情から新橋から品川までは海上に線路を敷設することになった。
明治5年5月に品川-横浜間が先に開通したものの、少し遅れて9月に新橋-横浜間が正式開業する。
その後、明治から昭和にかけて海側は埋め立てられ鉄道輸送の巨大な車輌基地となって日本の近代化や経済成長期の物質輸送を支えてきた。
近年の車社会の発達から鉄道輸送は減少。ここも再開発が進められ高輪ゲートウェイ駅を中心に品川の新たなまちづくりのど真ん中の近代遺跡である。
きれいに残る築堤は鉄道の歴史のみならず、当時の土木技術を知る貴重な資料でもある。山手線も京浜東北線もここを通る時、アップダウンがあったのを覚えているだろうか?
その2つの路線も実は150年ほど前に作られた堤の上を走っていたことがわかった。しかもその堤をほとんど壊すことなく埋め殺しにするようにして、山手線と京浜東北線を走らせてきたのだという。
説明によると「明治の築堤は壊さず後世に残す」ことが国鉄時代から長く受け継がれていたとか。
プロジェクトxと思うばかりの鉄道マンたちのロマンがそこにある。しっかりした基礎工事をした土台の上に線路を走らせようという現実的な選択だったのだろう。その証拠に、発掘された堤の石組はほとんど崩壊していない。関東大震災や台風や高潮などにも耐えてきた築堤は、日本の建築土木の高度な技と粋が見事に示されたことになる。
問題は、こうした歴史的な遺構をどう残すかである。今のところまだ計画変更はJR側からは示されていない。むしろ変更は莫大な費用もかかり、厳しいのかも知れないが、これらをうまく残して活用するような方向で調整して欲しいものだ。そのためにも多くのか方に知ってもらい、保存のための知恵を出していきたい。手始めに下のテレビ企画はどうか。
新・プロジェクトx
(海の上に機関車を走らせろ!)
ぶらタモリ
お題「日本の外灘(上海の湾曲した場所に古い建築がならぶあれ) 高輪の魅力」
(新橋スタート・ 高輪 大木戸・泉岳寺・高輪の月見・海の上の線路、高輪ゲートウェイ・品川駅終点)
ファミリーヒストリー
初代鉄道頭の井上勝のご子孫は・・・
何とか保存を。
写真は自分でもたくさん撮りましたが、今回は出せませんので、ネットニュースで各自ご覧ください。