つれづれの記

日々の生活での印象

いろはかるた  アラカルト

2018年07月06日 17時59分17秒 | 日記

2018年7月6日(金) いろはかるた アラカルト 

 

 先日は、当ブログに、

      いろはかるた  (2018/7/1)

を投稿したが、今回は、江戸いろはかるたの中で、内容が意味することに関して、幾つかの話題をとりあげている。

本文中の図は、以下のサイトから引用 (みんな知ってる? 「いろはかるた(江戸かるた)」の意味分かるかな? - NAVER まとめ

 

◇意味のよく分からぬ かるた 

 幼いころ、かるたで遊びながらも、子供心に、意味の良く解らぬ札があった。 江戸かるたが生まれた、生活環境などの時代背景が異なることが、大きな理由だろうか。

 ●月夜に釜を抜かれる 

 街灯などが無かった昔は、月明かりが重要だった。 辺りが良く見通せる月夜なのに、泥棒に家の中に入られ、釜を抜かれたと言う。泥棒は、鍵の掛かっていない裏口の木戸から入り、竈(かまど)から釜を盗んだのだろう。竈に据えてご飯を炊く大きな釜は、これが無ければ、家族の飯が作れないという、極めて重要な道具なのだ。

この諺は、加害者の泥棒側からは、明るくて最も侵入しくい状況だけに、このような事態を招いたことは、不注意極まりなく、大変な油断があったということで、これを戒めているようだ。

 筆者の育った田舎では、土間に置かれた竈でご飯を炊く光景は、そんなに珍しくはなく、いまでも思い浮かぶのだが、釜を抜かれる、というかるたの句の意味が、いまいち、よく解らなかったことだ。

     

 「盗人の昼寝」とセットで見ると面白く、この泥棒は、昼間は寝ているだろうか。 また、「油断大敵」という諺もある。 

 

●割れ鍋にとじ蓋  

 壊れた鍋でもなんとか閉まる蓋がある、と言う事で、子供心にも、状況は明白なのだが、一体、何ういう意味なのか、解せなかった。

 どんな人にも、相応しい配偶者が居るものだ、という喩という。あまりにも酷い喩で、当事者たちは満足している似合いの夫婦を、見下し、嘲っているようだ。筆者としては、あまり言いたくないセリフである。

また、夫婦だけでなく、何に置いても、似通った程度の者同志がよい、という喩ともあり、分相応ということだろう。

    

また、「臭いものに蓋」という諺は、一時しのぎに不都合ごとを隠す意だが、蓋の役目はやや異なるようだ。

この所の世の中の話題は、あふれ出している臭いものに蓋をするものが多く、うんざりである。

 

  ●総領の甚六

 総領という言い方は余り使われなくなり、又、甚六という言葉の意味だが、長男なのに、なぜ六か、実在した人の名か、など余り解らず、すっきりしなかった。

落語では、うす馬鹿のことを,“与太郎”と言うが、甚六は、あれと同じような意味だろうか。現在では、与太郎は、差別用語とされている。

     

●粋が身を食う

江戸の粋(いき)の精神は、大人になっても理解が容易ではないが、子供にとっては尚更だ。花柳界での遊び等で、カッコよく見せる、(金持ちではないのに)金持ちとして振る舞う、のが「粋」と言うようだがーー。

身を“食う”という言い方も、粋を擬人化していて、極めて難解だ。 依存症のように、粋に嵌ってしまって、ついには身を滅ぼすことになる、という戒めという。

     

●かったいのかさうらみ

子供心に、最も解らなかったのがこれだ。

「かったい」とは、以前は、癩病(らいびょう)と呼ばれた病気と患者で、現在は、ハンセン病と言い換えている。 

ハンセン病は、らい菌による、伝染性の弱い感染症で、ノルウエーの医師、ハンセンによる研究で、明治期に、病原が突きとめられ、現在は、治療法が確立し、日本では、発病率はきわめて低くなっているようだ。

「かさ」とは、梅毒患者の皮膚の病痕の「瘡」のことで、うらみは、怨みではなく、羨みが変化したものと言う。

 顔面の表情がすっかり変わってしまった癩病患者が、己よりはやや軽い、梅毒患者の瘡を羨むということで、少しの違いをとりたてて喜ぶということだ。目くそ鼻くそを嗤う、も同類だろう。

終戦間近だが、筆者が生まれ育った田舎では、近くに癩病患者が住んでいて、周囲から近づかないよう敬遠されていた記憶がある。

この句では、二つの病の罹患者を嘲笑しているのだが、それだけ、周囲から恐れられた、大変な病気だった、という証でもある。当事者の苦しみは、計り知れないものだったろう。かったいは、現在は差別用語になっているようだが、江戸かるたからは無くしたい札だ。

    

10年程前に、筆者が、隔離されたハンセン病患者の施設を、何度か慰問に訪れている。

このハンセン病だが、一昔前のことと思っていたら、戦後間もなく(1948年)に制定された優性保護法の下で、平成8年(1996年)に法律が廃止されるまでの何と、約50年間、多くの男女に対し、建前は同意を得ているというものの、半ば強制的に断種手術が行われたようだ。最近になって、このことが明るみに出て、人権を無視した行為として社会問題となっている。 

 

 ◇ 当たり前のことなのに、意味深で理解が難しいもの

●犬も歩けば棒に当たる

 この句が最初にくることから、江戸かるたは、犬棒かるたとも呼ばれ、人口に膾炙している。

読んで字の通り、当たり前のことを言っているのだが、子供心には、意味することがよく分からなかった。改めて解説をみると、以下の二つの意味が込められているという。

 ・出しゃばると、思わぬ災難にあう、という戒め

 ・やってみれば、思わぬ幸運に会ったり、発見があることのたとえ

前者はいかにも日本的でつまらない。ウオーキングブームの昨今、好奇心をそそる、後者で願いたいものだ。

     

●頭隠して尻隠さず 

 これは、頭を隠せば、尻が出るのは当然のことで、國鳥である「雉」が、草むらに首を突っ込んで避難する習性からきているようだ。 

意味するところは、不都合ごとや欠点が表面化しそうになった事態で、本人は上手く隠しおおせたつもりでも、周囲から見れば、隠しているのは一部だけで、大部分は見え見えだ、と言う時に冷やかすことば。「犬が西向きゃ尾は東」という言葉もある。

     

●瑠璃も玻璃も照らせば光る  

 瑠璃は、宝石のラピスラズリのことで、玻璃は水晶のことという。

どちらも貴重な宝石で、光を当てれば輝くということだが、二通りの意味があるという。

意味するところは、

・どこに在っても優れたものは、光を当てれば光るという喩

・すぐれたものでも、磨いて初めて光るという喩(磨かないと光らない)

という。

    

子供の頃は、玻璃とは、縫物に欠かせない「針」のことで、使っていれば、錆びずに光ると理解していた。玻璃が水晶の事と知ったのは、比較的最近のことだ。

瑠璃色は、やや紫を帯びた青色のようだが、薄桃色の可憐な花を付ける「ルリフタ

ジ」は、我家の好きな草花の一つである。

 

●喉元過ぎれば熱さ忘れる

 字義通り、当たり前のことで、苦しかったことも過ぎてしまえば忘れてしまうものだ、ということ。苦難にあった時は、一時の我慢だと耐える生き方もあるだろうか。

これを拡大解釈して、熱さだけでなく、苦しい時に助けて貰った、恩も忘れてしまう事を戒めている、とも言う。 

    

●三べん廻って煙草にしよう 

夜廻りなどで、入念にチェックをした後に、休憩をしようということで、今はやりの、働き方改革でのワークライフバランスだろうか。

日本に煙草が入ってきた時期は未調査だが、昔は、休憩時に煙草を吸うことを、如何に楽しみにしていたかが解る句だ(今は、コーヒー?)。

歴史を経て、当今は、煙草の身体への害毒が喧伝され、吸う本人はおろか、周囲の人間も迷惑するという「受動喫煙」をどう防ぐかが、喫緊の課題となっている。

   

かるたには、酒・博打・女の話が殆ど無いのは、なぜだろうか?

 

 

 


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