よく誤解されるキリスト教の教えの一つに、「(クリスチャンの)二人または三人が、集まるなら、キリストもその中にいる(そこが教会となる)」という考えがありますが、それは聖書的(に正しい教え)ではありません。
マタイ18:20「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」の、「わたし(イエス)の名によって集まっている所」は、「事実として、イエス様の名(権威)によって集まっている所」という意味であって、「ただ自己申告で、イエス様の名(権威)によって集まっている所」と言う意味ではありません。
「権威」というものは、自分で「自分には権威がある」と主張すれば、自動的に得られるものではありません。「権威」はその「権威者」から、頂くものです。
ですから、「教会」も、クリスチャンの二人または三人が、集まって、「今日から私たちは『教会』になりました」と言ってもそれは、自称の「教会」でしかありません。
聖書的に正しく、「教会」を設立するには、すでにある「教会」から「教会の設立」(「教会」を名乗ること)を許してもらわなくてはなりません。
自分達は(キリストを心に受け入れた)クリスチャンだから、「自分達のうちにキリストがいて、キリストから直接、教会として認められたのだ」と主張してもそれは詭弁です。
キリストから「直接、教会として認められた(設立された)」のは、「初代教会(イエスの弟子団=エルサレム教会)」だけだからです。

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マタイ18:20「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」の、「わたし(イエス)の名によって集まっている所」は、「事実として、イエス様の名(権威)によって集まっている所」という意味であって、「ただ自己申告で、イエス様の名(権威)によって集まっている所」と言う意味ではありません。
「権威」というものは、自分で「自分には権威がある」と主張すれば、自動的に得られるものではありません。「権威」はその「権威者」から、頂くものです。
ですから、「教会」も、クリスチャンの二人または三人が、集まって、「今日から私たちは『教会』になりました」と言ってもそれは、自称の「教会」でしかありません。
聖書的に正しく、「教会」を設立するには、すでにある「教会」から「教会の設立」(「教会」を名乗ること)を許してもらわなくてはなりません。
自分達は(キリストを心に受け入れた)クリスチャンだから、「自分達のうちにキリストがいて、キリストから直接、教会として認められたのだ」と主張してもそれは詭弁です。
キリストから「直接、教会として認められた(設立された)」のは、「初代教会(イエスの弟子団=エルサレム教会)」だけだからです。

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「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(マタイ16:18)
上記の「この岩(ペトラ;女性名詞、「大岩盤」を意味する)」は、「イエス・キリスト」ご自身であり、主は「動かされることのない岩」なる「イエス・キリスト」ご自身の上に、主の「教会」を建てられたのです。
一方、ペテロ(男性名詞)は、「小岩、石」であり、その信仰は、主イエス様に対し「あなたこそ生ける神の子キリストです(16節)」とすばらしい信仰告白をし、主から「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。 (17節)」とほめられた直後に、キリストの十字架の贖い(あがない)を否定し、いさめる発言をしたので、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(21-23節)と主から厳しく叱責されたように、「小岩、石」のように「揺れ動く信仰(頼りない信仰)」でした。
よく、マタイ16:18の解釈として、「教会」は「使徒ペテロ」の上に建てられた(カトリック教会の見解)とか、「ペテロの信仰告白」の上に建てられた(一般的プロテスタント教会の見解)とか言われますが、「揺れ動く信仰(頼りない信仰)」のペテロ(小岩、石)や、「ペテロの信仰告白」の上に「教会」が建てられるなら、たまったものではありません。
主の「教会」は、「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。(18節)」のですから・・・・。
もし「ペテロ」や「ペテロの信仰告白」の上に、「教会」が建てられたのなら、早速、教会は「黄泉の力(サタンの力)」に打ち負けてしまったということになります。なぜなら、この時、ペテロは主イエス様から「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。」と言われたのですから。
しかしながら、聖書において、「岩」は、「神御自身」を表すものであり、イエス様はこの マタイ16:18において、「あなたは『ペテロ(揺れ動く石)』であるが、私は『(動かされることのない)この岩(イエス様御自身)』の上に私の『教会』を建てよう。」と言っておられるのです。
「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」(詩篇18:2)
「主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。」(詩篇18:31)
「主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。」(詩篇18:46)
「とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。」(イザヤ26:4)
「恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。」(イザヤ44:8)
「みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。」(1コリント10:4)


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上記の「この岩(ペトラ;女性名詞、「大岩盤」を意味する)」は、「イエス・キリスト」ご自身であり、主は「動かされることのない岩」なる「イエス・キリスト」ご自身の上に、主の「教会」を建てられたのです。
一方、ペテロ(男性名詞)は、「小岩、石」であり、その信仰は、主イエス様に対し「あなたこそ生ける神の子キリストです(16節)」とすばらしい信仰告白をし、主から「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。 (17節)」とほめられた直後に、キリストの十字架の贖い(あがない)を否定し、いさめる発言をしたので、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(21-23節)と主から厳しく叱責されたように、「小岩、石」のように「揺れ動く信仰(頼りない信仰)」でした。
よく、マタイ16:18の解釈として、「教会」は「使徒ペテロ」の上に建てられた(カトリック教会の見解)とか、「ペテロの信仰告白」の上に建てられた(一般的プロテスタント教会の見解)とか言われますが、「揺れ動く信仰(頼りない信仰)」のペテロ(小岩、石)や、「ペテロの信仰告白」の上に「教会」が建てられるなら、たまったものではありません。
主の「教会」は、「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。(18節)」のですから・・・・。
もし「ペテロ」や「ペテロの信仰告白」の上に、「教会」が建てられたのなら、早速、教会は「黄泉の力(サタンの力)」に打ち負けてしまったということになります。なぜなら、この時、ペテロは主イエス様から「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。」と言われたのですから。
しかしながら、聖書において、「岩」は、「神御自身」を表すものであり、イエス様はこの マタイ16:18において、「あなたは『ペテロ(揺れ動く石)』であるが、私は『(動かされることのない)この岩(イエス様御自身)』の上に私の『教会』を建てよう。」と言っておられるのです。
「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」(詩篇18:2)
「主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。」(詩篇18:31)
「主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。」(詩篇18:46)
「とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。」(イザヤ26:4)
「恐れてはならない、またおののいてはならない。わたしはこの事を昔から、あなたがたに聞かせなかったか、また告げなかったか。あなたがたはわが証人である。わたしのほかに神があるか。わたしのほかに岩はない。わたしはそのあることを知らない」。」(イザヤ44:8)
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バプテスマは、救われた(霊的新生を体験した)人が、その証し(信仰告白)、また従順のテスト(教会の入り口)として受けるべきものですから、「キリストの救いを実感していない」というのが、「本当に救いを経験していない」という意味ならば、もちろん、その受けたバプテスマは無効であり、本当に救われてから、もう一度あらためて、受けなおす必要があります。
しかし、救いは「感情」ではなく、「イエスキリストの救いを信じる」という「意思」の問題であり、しばしば、「感情」は伴わないこともあります。ですので、「キリストの救いを実感していない」というのがその意味ならば(実際は救われているが、期待していたほどの感激が無かった等)、その受けたバプテスマは有効ということになります。
いずれにしても、「バプテスマ」自体には、「霊的意味(目で見る信仰告白等の)」はあっても、「神秘的意味(それによって救われる等)」はありません。

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しかし、救いは「感情」ではなく、「イエスキリストの救いを信じる」という「意思」の問題であり、しばしば、「感情」は伴わないこともあります。ですので、「キリストの救いを実感していない」というのがその意味ならば(実際は救われているが、期待していたほどの感激が無かった等)、その受けたバプテスマは有効ということになります。
いずれにしても、「バプテスマ」自体には、「霊的意味(目で見る信仰告白等の)」はあっても、「神秘的意味(それによって救われる等)」はありません。

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「バプテスマ」は原語のギリシャ語では「浸すこと、沈め」以外の意味が無く、「バプテスマ」を「洗礼」と訳すことは、明らかに「意図的誤訳」です。
それまでの聖書の翻訳では、神のことばを意図的に原語と異なる翻訳にするのは、黙示22:18-19で主から厳しく警告されている「聖書に書き加えたり、取り除いたりする行為」と恐れ、決して、「洗礼」と訳しませんでした。
一方、「浸礼」を行わず、「洗礼」を行っている教会では、原語のギリシャ語に忠実に「浸礼or沈め」と翻訳すると、自分たちが「聖書と異なるバプテスマ(誤ったバプテスマ)」を行っていることが、信者に明らかになることを恐れて、妥協策として原語のギリシャ語の「βάπτισμα」をそのまま、音訳して、「バプテスマ」としました。
これは英語聖書においても、同じ事情で、そのまま音訳して「baptisma」とされています。
新共同訳聖書を、正当な翻訳聖書として認め難いのは、聖書外典を旧約聖書続編として取り入れたことに加えて、初めて、「バプテスマ」を「洗礼」と「意図的に誤訳」した、この点が大きなことですね。

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それまでの聖書の翻訳では、神のことばを意図的に原語と異なる翻訳にするのは、黙示22:18-19で主から厳しく警告されている「聖書に書き加えたり、取り除いたりする行為」と恐れ、決して、「洗礼」と訳しませんでした。
一方、「浸礼」を行わず、「洗礼」を行っている教会では、原語のギリシャ語に忠実に「浸礼or沈め」と翻訳すると、自分たちが「聖書と異なるバプテスマ(誤ったバプテスマ)」を行っていることが、信者に明らかになることを恐れて、妥協策として原語のギリシャ語の「βάπτισμα」をそのまま、音訳して、「バプテスマ」としました。
これは英語聖書においても、同じ事情で、そのまま音訳して「baptisma」とされています。
新共同訳聖書を、正当な翻訳聖書として認め難いのは、聖書外典を旧約聖書続編として取り入れたことに加えて、初めて、「バプテスマ」を「洗礼」と「意図的に誤訳」した、この点が大きなことですね。

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「この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」(1ペテロ3:21)
「この水はバブテスマを象徴するものであって 」の「水」は直前の節3:20を見ると、「ノアの洪水」の「水」のことを示しています。
つまり、『バプテスマ』を表すノアの洪水の『水』により、暴虐に満ちた(罪に満ちた)古い世界が「死に(裁かれ)」、水のお墓に「埋葬され(全地が完全に水没した;創世記7:19-24)」、救いの箱舟(イエス様の救いを表す)に乗った義人ノアから始まる新しい世界に「復活された」ということです。
バプテスマは「キリストの死と埋葬と復活」を象徴する(ローマ6:3-13)、「目に見える福音であり、信仰告白である(ガラテヤ3:1)」ことを考える時に、見事な一致をなしています。
この意味でも、やはり、「バプテスマ」は「浸礼」でなければ、「意味を成さない」ということになりますね。

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「この水はバブテスマを象徴するものであって 」の「水」は直前の節3:20を見ると、「ノアの洪水」の「水」のことを示しています。
つまり、『バプテスマ』を表すノアの洪水の『水』により、暴虐に満ちた(罪に満ちた)古い世界が「死に(裁かれ)」、水のお墓に「埋葬され(全地が完全に水没した;創世記7:19-24)」、救いの箱舟(イエス様の救いを表す)に乗った義人ノアから始まる新しい世界に「復活された」ということです。
バプテスマは「キリストの死と埋葬と復活」を象徴する(ローマ6:3-13)、「目に見える福音であり、信仰告白である(ガラテヤ3:1)」ことを考える時に、見事な一致をなしています。
この意味でも、やはり、「バプテスマ」は「浸礼」でなければ、「意味を成さない」ということになりますね。

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「水によるバプテスマ」は、そのバプテスマの媒体が「水」であると言うことです。
そして、「聖霊のバプテスマ」は、その媒体が聖霊です。
一方、「御父、御子、聖霊の名によるバプテスマ」は、その「水によるバプテスマ」が「御父、御子、聖霊の名(権威)によって、行われるバプテスマ」であることを、意味しています。
「聖霊のバプテスマ」は、一方的にイエス様がある目的を持って(「教会に対するバプテスマ」や、「聖書がまだ完成していないので、『しるし』が必要な時」に)、授けるものなので、特には、「誰の権威(名)によるバプテスマ」なのかは、聖書には記述が無いのでしょう。
つまり、私たちが、「個人として受けるバプテスマ」は、「水によるバプテスマ」のみであり、そしてそれは「誰の権威(名)によるバプテスマなのか」が、重要であるので、「御父、御子、聖霊の名によるバプテスマ」を施しなさいと、聖書に記述があるのだと思います(マタイ28:18-19)。

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そして、「聖霊のバプテスマ」は、その媒体が聖霊です。
一方、「御父、御子、聖霊の名によるバプテスマ」は、その「水によるバプテスマ」が「御父、御子、聖霊の名(権威)によって、行われるバプテスマ」であることを、意味しています。
「聖霊のバプテスマ」は、一方的にイエス様がある目的を持って(「教会に対するバプテスマ」や、「聖書がまだ完成していないので、『しるし』が必要な時」に)、授けるものなので、特には、「誰の権威(名)によるバプテスマ」なのかは、聖書には記述が無いのでしょう。
つまり、私たちが、「個人として受けるバプテスマ」は、「水によるバプテスマ」のみであり、そしてそれは「誰の権威(名)によるバプテスマなのか」が、重要であるので、「御父、御子、聖霊の名によるバプテスマ」を施しなさいと、聖書に記述があるのだと思います(マタイ28:18-19)。

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「ヨハネのバプテスマ」については、以前、「バプテスマのヨハネのバプテスマの正当性」というタイトルの箇所で、説明させていただいたので、再度の記述となりますが、
「ヨハネのバプテスマ」には、「ヨハネが授けていたバプテスマ」と、「ヨハネの名によって(勝手に)行われていたバプテスマ=ヨハネの名によるバプテスマ」との二種類があり、使徒19:3の「ヨハネのバプテスマ」は、その後者です。
使徒19:3において、新共同訳で「ヨハネの洗礼」、新改訳で「ヨハネのバプテスマ」と訳されているものは、口語訳聖書では、「ヨハネの名によるバプテスマ」となっています。
「ヨハネの名によるバプテスマ」とは、「ヨハネの権威によるバプテスマ」と言う意味です。
しかしながら、「バプテスマ」は、「神であるイエス様の権威においてなすべきもの」です。
それで、「誤った権威の下によるバプテスマ」を受けていた12人の弟子(信者)たちは、「正しい権威であるイエス様の名によるバプテスマ」を<受けなおし>しました。
それでは、「バプテスマのヨハネ」は、「自分の権威によって、正しくないバプテスマ」を授けていたのでしょうか?
そうではないことを、イエス様ご自身が証明して下さいました。マタイ3:13-15で、イエス様は「このように、すべての<正しいこと>を成就するのは、われわれにふさわしいことである 」と言われて、ヨハネからバプテスマを受けられたからです。
もし、「バプテスマのヨハネ」の授ける「バプテスマ」が「正しいバプテスマでなかった」としたら、イエス様は<ヨハネからバプテスマをお受けにならなかった>でありましょう。
また、ヨハネ1:33で、ヨハネは、「・・・しかし、水でバプテスマを授けるようにと、<私をおつかわしになったその方>が、私に言われた・・・」とありますので、ヨハネを<水でバプテスマを授けるように>、この世に使わされたのは、<神(イエス様)>であり、ヨハネは、<神(イエス様)の権威によって=神(イエス様)から許可を得て>、「バプテスマ」を授けていたのは明白です。
では、使徒19:3の「ヨハネの(名による)バプテスマ」とは何かというと、ヨハネからバプテスマを受けたある弟子(おそらく、アポロ)が、「ヨハネの名によって」、<勝手に始めたバプテスマ(イエス様の名(権威)によらないバプテスマ)>だったのです。
神(イエス様)からバプテスマを授けるようにと言われないのに、勝手にバプテスマ(イエス様の名(権威)によらないバプテスマ)を始めるのは、例えれば、日本国の権威によらない「パスポート」や「運転免許証」、「お金」を自分で勝手に作るようなものです。そんなものは無効ですし、法律違反なので、捕まってしまいますよね。
個人的に、神(イエス様)からバプテスマを授けるようにと言われたのは、「バプテスマのヨハネ」ただ一人です。ヨハネの後は、バプテスマを授ける権威は、イエス様の設立された「教会」に移りました(イエス様自身はバプテスマを授けることはしなかった)(ヨハネ4:1-2、マタイ28:18-20)。
ですから、誰も「バプテスマ」を<勝手に始めること>は許されません。イエス様の設立された「教会」から権威を引き継ぎ、正しく続いて来た「教会」以外、正しく、バプテスマを行うことはできません。
使徒19:1-7で、勝手に、「ヨハネの名(権威)によるバプテスマ」を12人に施したのは、おそらく使徒18:24-28に出てくるアポロであると思いますが、彼は「『ヨハネのバプテスマ』しか、知らなかった」とあります。すなわち彼は、ヨハネからバプテスマを授けてもらった「経験」はありましたが、そのあと、バプテスマを授ける役割が、ヨハネから「教会」へ移ったことを知らなかったと言うことです。アポロの説教を聴いていて、そのことに気づいたプリスキラとアクラがそのことを詳しくアポロに教えました(使徒18:24-26)。
しかしながら、アポロ自身はヨハネから「正しいバプテスマ」、すなわち、「イエスの名(権威)によるバプテスマ」を受けていたので、バプテスマを改めてやり直すことなく、次の宣教活動を続けることができたのでした(使徒18:27-28)。
キリストの12弟子達も皆、同じく、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けていたと考えられますが(ヨハネ1:35-40、使徒1:22-26)、彼らも誰一人、バプテスマの受けなおしはしていません。バプテスマのヨハネの授けたバプテスマは、「正しい、イエスの名によるバプテスマ」だったので、やり直す必要が無かったのですね。

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「ヨハネのバプテスマ」には、「ヨハネが授けていたバプテスマ」と、「ヨハネの名によって(勝手に)行われていたバプテスマ=ヨハネの名によるバプテスマ」との二種類があり、使徒19:3の「ヨハネのバプテスマ」は、その後者です。
使徒19:3において、新共同訳で「ヨハネの洗礼」、新改訳で「ヨハネのバプテスマ」と訳されているものは、口語訳聖書では、「ヨハネの名によるバプテスマ」となっています。
「ヨハネの名によるバプテスマ」とは、「ヨハネの権威によるバプテスマ」と言う意味です。
しかしながら、「バプテスマ」は、「神であるイエス様の権威においてなすべきもの」です。
それで、「誤った権威の下によるバプテスマ」を受けていた12人の弟子(信者)たちは、「正しい権威であるイエス様の名によるバプテスマ」を<受けなおし>しました。
それでは、「バプテスマのヨハネ」は、「自分の権威によって、正しくないバプテスマ」を授けていたのでしょうか?
そうではないことを、イエス様ご自身が証明して下さいました。マタイ3:13-15で、イエス様は「このように、すべての<正しいこと>を成就するのは、われわれにふさわしいことである 」と言われて、ヨハネからバプテスマを受けられたからです。
もし、「バプテスマのヨハネ」の授ける「バプテスマ」が「正しいバプテスマでなかった」としたら、イエス様は<ヨハネからバプテスマをお受けにならなかった>でありましょう。
また、ヨハネ1:33で、ヨハネは、「・・・しかし、水でバプテスマを授けるようにと、<私をおつかわしになったその方>が、私に言われた・・・」とありますので、ヨハネを<水でバプテスマを授けるように>、この世に使わされたのは、<神(イエス様)>であり、ヨハネは、<神(イエス様)の権威によって=神(イエス様)から許可を得て>、「バプテスマ」を授けていたのは明白です。
では、使徒19:3の「ヨハネの(名による)バプテスマ」とは何かというと、ヨハネからバプテスマを受けたある弟子(おそらく、アポロ)が、「ヨハネの名によって」、<勝手に始めたバプテスマ(イエス様の名(権威)によらないバプテスマ)>だったのです。
神(イエス様)からバプテスマを授けるようにと言われないのに、勝手にバプテスマ(イエス様の名(権威)によらないバプテスマ)を始めるのは、例えれば、日本国の権威によらない「パスポート」や「運転免許証」、「お金」を自分で勝手に作るようなものです。そんなものは無効ですし、法律違反なので、捕まってしまいますよね。
個人的に、神(イエス様)からバプテスマを授けるようにと言われたのは、「バプテスマのヨハネ」ただ一人です。ヨハネの後は、バプテスマを授ける権威は、イエス様の設立された「教会」に移りました(イエス様自身はバプテスマを授けることはしなかった)(ヨハネ4:1-2、マタイ28:18-20)。
ですから、誰も「バプテスマ」を<勝手に始めること>は許されません。イエス様の設立された「教会」から権威を引き継ぎ、正しく続いて来た「教会」以外、正しく、バプテスマを行うことはできません。
使徒19:1-7で、勝手に、「ヨハネの名(権威)によるバプテスマ」を12人に施したのは、おそらく使徒18:24-28に出てくるアポロであると思いますが、彼は「『ヨハネのバプテスマ』しか、知らなかった」とあります。すなわち彼は、ヨハネからバプテスマを授けてもらった「経験」はありましたが、そのあと、バプテスマを授ける役割が、ヨハネから「教会」へ移ったことを知らなかったと言うことです。アポロの説教を聴いていて、そのことに気づいたプリスキラとアクラがそのことを詳しくアポロに教えました(使徒18:24-26)。
しかしながら、アポロ自身はヨハネから「正しいバプテスマ」、すなわち、「イエスの名(権威)によるバプテスマ」を受けていたので、バプテスマを改めてやり直すことなく、次の宣教活動を続けることができたのでした(使徒18:27-28)。
キリストの12弟子達も皆、同じく、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けていたと考えられますが(ヨハネ1:35-40、使徒1:22-26)、彼らも誰一人、バプテスマの受けなおしはしていません。バプテスマのヨハネの授けたバプテスマは、「正しい、イエスの名によるバプテスマ」だったので、やり直す必要が無かったのですね。

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「バプテスマ」の意味は、第一に、キリストを信じ救われた者が、キリストに従い、キリストの体である教会の一肢体となって、キリストの福音を伝えるために、その<従順の第一歩>として受けるものです。
いわば、「天国への入り口(扉)」は、「キリストの十字架を信じる、信仰による救い」のみですが(エペソ2:8-9、ルカ23:39-43)、「教会への入り口(扉)」は、「バプテスマ」なのです。
ですから、「教会」の無かった旧約時代には、「バプテスマ」は、必要ありませんでした。
また、「バプテスマ」は、「天国への入り口」ではなく、「救いに関係ありません」から、アブラハムやモーセ、ダビデたち、エノクやヨブ、ダニエルといった義人たちも、いつか来られる「メシア(キリスト)を信じるだけ」で、「天国が約束され、救われた」のでした。
「バプテスマ」の第二の意味は、その「バプテスマの形」において、「キリストの死と埋葬と復活」を表すことです。私たちは、「バプテスマ」の時に、「口で信仰告白」しますが、その「バプテスマの形」において、私たちのために、キリストが「死なれ」、「埋葬され」、「復活した」ことを、いわば「水のお墓」に「死んで、埋葬され、復活させる」ことによって、<目で見る信仰告白>として表すのです。
「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。<十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに>、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」(ガラテヤ3:1)
「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた<福音>、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの<福音>を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この<福音>によって救われるのである。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、<キリスト>が、聖書に書いてあるとおり<わたしたちの罪のために死んだこと>、そして<葬られたこと>、聖書に書いてあるとおり、<三日目によみがえったこと>、」(第1コリント15:1-4)
ですから、「バプテスマ」は、「浸礼」で無ければなりません。なぜなら、「浸礼」以外の「バプテスマ」は、キリストの「福音」である「キリストの死と埋葬と復活」を、「目で見る信仰告白」として<表すことができない>からです。
またさらに第三の意味として、「バプテスマ(浸礼)」は、キリストに従う信仰者達の「古い罪の体に『死んで』、キリスト共に、水の墓に『埋葬され』、キリストと共に、新しく霊の人として、『復活(新生)』することを表します。さらに、いつかキリストの再臨の時には、キリストと同じ体に、『復活』する希望をも、表しています。
「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、<その死にあずかる>バプテスマによって、彼と共に<葬られた>のである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中から<よみがえらされた>ように、わたしたちもまた、<新しいいのちに生きる>ためである。もしわたしたちが、<彼に結びついてその死の様にひとしくなる>なら、さらに、<彼の復活の様にもひとしくなる>であろう。 」(ローマ6:3-5)
私は、バプテスト派の教えを押し付けているのでなく、キリストが「このように、すべての<正しいこと>を成就するのは、<われわれにふさわしい>ことである。(マタイ3:15)」と言って、受けられた「バプテスマ(浸礼)」を紹介しているだけなのです。
この時、キリストは「バプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた」(マタイ3:16)と記されています。イエス様の受けられた「バプテスマ」が、もし、「浸礼」でなければ、わざわざ<水の中に入る必要が無かった>でしょう。
ただ、この点において、以前、「人間的な都合で、水を振り掛けていたり(洗礼:滴礼)、水をかぶせたり(灌水礼)していたのでは、従順にキリストに従っていると言えない」と記したことは、訂正させていただきます。
つまり、(新約時代において)「浸礼のバプテスマを受けていないからといって、必ずしも、キリストに従順でない」とは言えません。
なぜなら、「正しいバプテスマ」のあることを<知らない>場合は、不従順であると言うのは、言い過ぎだからです。
例えば、使徒19:1-7における12人は、「正しい権威のバプテスマ」を受けていないからと言って、<キリストに不従順であるとは言えません>。はっきり言えば、この12人には<何の落ち度もありませんでした>。ただ、そのバプテスマを「施した人」が「正しい権威に基づくバプテスマを授けていなかった」と言うだけです。
一方、だからといって、この「12人が受けたバプテスマ」が、「自動的に正しい権威のバプテスマになる(有効となる)」わけではありません。やはり、この場合、パウロから「正しい権威に基づくバプテスマ」を<受けなおす>必要がありました(この12人が先に受けたバプテスマも、後から受けなおしたバプテスマも、形としては同じ「浸礼」でした。この時、問題とされたのは、バプテスマの「形」でなく、バプテスマの「権威性」でした)。
ですから、この12人がパウロから「正しいバプテスマ」のあることを<聞いた時点>から、もし「正しいバプテスマ」を受けなおすことを、拒否したら、<キリストに不従順>ということになります。
ですから、誰でも、「正しいバプテスマを受けていないから」といって、自動的に「キリストに不従順である」ということではなく、このブログ、あるいは何らかの方法で、「正しいバプテスマ」のあることを知った時点からの行動によって、「キリストに従順であるか、不従順であるか」が決まると言うことになりますね。
このブログは「真理の小道」という名称ですが、「真理を知る」ということは、「責任」もまた「生じる」と言うことだと思います。

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いわば、「天国への入り口(扉)」は、「キリストの十字架を信じる、信仰による救い」のみですが(エペソ2:8-9、ルカ23:39-43)、「教会への入り口(扉)」は、「バプテスマ」なのです。
ですから、「教会」の無かった旧約時代には、「バプテスマ」は、必要ありませんでした。
また、「バプテスマ」は、「天国への入り口」ではなく、「救いに関係ありません」から、アブラハムやモーセ、ダビデたち、エノクやヨブ、ダニエルといった義人たちも、いつか来られる「メシア(キリスト)を信じるだけ」で、「天国が約束され、救われた」のでした。
「バプテスマ」の第二の意味は、その「バプテスマの形」において、「キリストの死と埋葬と復活」を表すことです。私たちは、「バプテスマ」の時に、「口で信仰告白」しますが、その「バプテスマの形」において、私たちのために、キリストが「死なれ」、「埋葬され」、「復活した」ことを、いわば「水のお墓」に「死んで、埋葬され、復活させる」ことによって、<目で見る信仰告白>として表すのです。
「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。<十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに>、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」(ガラテヤ3:1)
「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた<福音>、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの<福音>を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この<福音>によって救われるのである。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、<キリスト>が、聖書に書いてあるとおり<わたしたちの罪のために死んだこと>、そして<葬られたこと>、聖書に書いてあるとおり、<三日目によみがえったこと>、」(第1コリント15:1-4)
ですから、「バプテスマ」は、「浸礼」で無ければなりません。なぜなら、「浸礼」以外の「バプテスマ」は、キリストの「福音」である「キリストの死と埋葬と復活」を、「目で見る信仰告白」として<表すことができない>からです。
またさらに第三の意味として、「バプテスマ(浸礼)」は、キリストに従う信仰者達の「古い罪の体に『死んで』、キリスト共に、水の墓に『埋葬され』、キリストと共に、新しく霊の人として、『復活(新生)』することを表します。さらに、いつかキリストの再臨の時には、キリストと同じ体に、『復活』する希望をも、表しています。
「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、<その死にあずかる>バプテスマによって、彼と共に<葬られた>のである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中から<よみがえらされた>ように、わたしたちもまた、<新しいいのちに生きる>ためである。もしわたしたちが、<彼に結びついてその死の様にひとしくなる>なら、さらに、<彼の復活の様にもひとしくなる>であろう。 」(ローマ6:3-5)
私は、バプテスト派の教えを押し付けているのでなく、キリストが「このように、すべての<正しいこと>を成就するのは、<われわれにふさわしい>ことである。(マタイ3:15)」と言って、受けられた「バプテスマ(浸礼)」を紹介しているだけなのです。
この時、キリストは「バプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた」(マタイ3:16)と記されています。イエス様の受けられた「バプテスマ」が、もし、「浸礼」でなければ、わざわざ<水の中に入る必要が無かった>でしょう。
ただ、この点において、以前、「人間的な都合で、水を振り掛けていたり(洗礼:滴礼)、水をかぶせたり(灌水礼)していたのでは、従順にキリストに従っていると言えない」と記したことは、訂正させていただきます。
つまり、(新約時代において)「浸礼のバプテスマを受けていないからといって、必ずしも、キリストに従順でない」とは言えません。
なぜなら、「正しいバプテスマ」のあることを<知らない>場合は、不従順であると言うのは、言い過ぎだからです。
例えば、使徒19:1-7における12人は、「正しい権威のバプテスマ」を受けていないからと言って、<キリストに不従順であるとは言えません>。はっきり言えば、この12人には<何の落ち度もありませんでした>。ただ、そのバプテスマを「施した人」が「正しい権威に基づくバプテスマを授けていなかった」と言うだけです。
一方、だからといって、この「12人が受けたバプテスマ」が、「自動的に正しい権威のバプテスマになる(有効となる)」わけではありません。やはり、この場合、パウロから「正しい権威に基づくバプテスマ」を<受けなおす>必要がありました(この12人が先に受けたバプテスマも、後から受けなおしたバプテスマも、形としては同じ「浸礼」でした。この時、問題とされたのは、バプテスマの「形」でなく、バプテスマの「権威性」でした)。
ですから、この12人がパウロから「正しいバプテスマ」のあることを<聞いた時点>から、もし「正しいバプテスマ」を受けなおすことを、拒否したら、<キリストに不従順>ということになります。
ですから、誰でも、「正しいバプテスマを受けていないから」といって、自動的に「キリストに不従順である」ということではなく、このブログ、あるいは何らかの方法で、「正しいバプテスマ」のあることを知った時点からの行動によって、「キリストに従順であるか、不従順であるか」が決まると言うことになりますね。
このブログは「真理の小道」という名称ですが、「真理を知る」ということは、「責任」もまた「生じる」と言うことだと思います。

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神様がこの世界を言葉で創られた時の言葉ですが、はっきりと誰も断定できないと思いますが、いくつか可能性はあると思います。
一つは、バベルの塔事件で、言葉が乱される前の言葉、すなわち全地が一つの言葉であった、その「言葉」の可能性があります。
また一つは、ダニエル5:5-9、24-28において、神の前から出た手によって書かれた文字(メネ、メネ、テケル、ウパルシン等)の「言葉」の可能性。
もちろん、聖書(旧約聖書)の言葉であり、神の民の言葉である「ヘブル語」もその可能性があると思います。
また、パウロが第三の天(天国)で聞いたと記されている(第2コリント12:1-4)、「口に言い表わせない、人間が語ってはならない『言葉』」の可能性は大きいですね。
あるいは、これら以外の、我々に何らのヒントさえも与えられていない「神のことば」かも知れません。
しかし、いずれにしても、わけもわからない、何の意味も表さない(意味不明の)言葉ではないことは、明白です。
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」(創世記1:3)と聖書には記されているわけですから、この時、それは『光あれ』という意味を持つ『神の言葉』でありました。

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一つは、バベルの塔事件で、言葉が乱される前の言葉、すなわち全地が一つの言葉であった、その「言葉」の可能性があります。
また一つは、ダニエル5:5-9、24-28において、神の前から出た手によって書かれた文字(メネ、メネ、テケル、ウパルシン等)の「言葉」の可能性。
もちろん、聖書(旧約聖書)の言葉であり、神の民の言葉である「ヘブル語」もその可能性があると思います。
また、パウロが第三の天(天国)で聞いたと記されている(第2コリント12:1-4)、「口に言い表わせない、人間が語ってはならない『言葉』」の可能性は大きいですね。
あるいは、これら以外の、我々に何らのヒントさえも与えられていない「神のことば」かも知れません。
しかし、いずれにしても、わけもわからない、何の意味も表さない(意味不明の)言葉ではないことは、明白です。
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」(創世記1:3)と聖書には記されているわけですから、この時、それは『光あれ』という意味を持つ『神の言葉』でありました。

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>第一コリント14:2 「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」
上記の「それはだれにも分かりません」の意味は、「<通訳する者(解く者・解釈する者)がいなければ>、それはだれにも分かりません」という意味です。なぜなら、同じ第一コリント14:27-28に「もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解く(通訳)べきである。もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。 」とあるからです。
また、14:9-13で、「それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない(はっきり理解できない;外国語を知らない者にとっては理解できない)言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。 世には多種多様の言葉があるだろうが、<意味のないものは一つもない>。もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは<異国人>であり、語っている人も、わたしにとっては<異国人>である。だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。 このようなわけであるから、<異言を語る者は、自分でそれを解くこと>ができるように祈りなさい。」とあり、
14:20-22で、「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。律法にこう書いてある、「わたしは、<異国の舌と異国のくちびる>とで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる」。 このように、<異言>は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。」とあります。
ですから、「異言」は、「他国の言葉」、「異国の言語」、「異なる言語」であって、決してわけのわからない(意味不明の)言葉(現在の「異言」と称されているようなもの)ではありません。
また、黙示22:18-19で、聖書の最後に、「これ以上、付け加えてはならない」とある以上、神からの「預言であれ、異言であれ」、もうこれ以上、「新たには、人間には与えられない」ということです。もし今も、神からの言葉が直接、人間にある(聞こえる)ならば、それは「聖書」にしなければ(書き加えなければ)ならないということになります。
>使徒言行録10:46 「異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。」
上記の聖書箇所に関して、「驚いた」のは、ペテロではなく、「ペテロについて来た人たち(ペトロと一緒に来た人)」でした。
そして、彼らが驚いたのは、異邦人が単に(普通に)外国語(異言)を話していたからではなく、「聖霊の賜物(聖霊のバプテスマのしるし)」としての「異言(その異邦人の通常語る国語でない、<他の外国語>)」を、(おそらく)恍惚とした状態で語るのを見たからです。
使徒2:1-4の「聖霊のバプテスマ」の「しるし」としての、「いろいろな他国の言葉で語りだした」現象の<再現>に、使徒10:44-47の「ペテロについて来た人たちが驚いたわけですから、使徒10:46の「異言」も「外国語(その人たちが通常語る言葉でない、その人たちにとっても外国語であるもの)」でなければならないでしょう。
使徒2:1-4で「「他国の言葉」として記されており、「異言」という言葉で示されてはいない」からといって、「使徒2:1-4の「他国の言葉」は「異言」ではない」というのは、本末転倒、自己矛盾の論法であり、使徒10:44-48の出来事の根拠を失うものです。ぺテロは「この人たちが<わたしたちと同じように>聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか(使徒10:47)」と言ったわけですから・・・。
ですから、使徒2:14の「他国の言葉」=「異言」=使徒10:46の「異言(他国の言葉・異なる言語)」ということになりますね。


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上記の「それはだれにも分かりません」の意味は、「<通訳する者(解く者・解釈する者)がいなければ>、それはだれにも分かりません」という意味です。なぜなら、同じ第一コリント14:27-28に「もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解く(通訳)べきである。もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。 」とあるからです。
また、14:9-13で、「それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない(はっきり理解できない;外国語を知らない者にとっては理解できない)言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。 世には多種多様の言葉があるだろうが、<意味のないものは一つもない>。もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは<異国人>であり、語っている人も、わたしにとっては<異国人>である。だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。 このようなわけであるから、<異言を語る者は、自分でそれを解くこと>ができるように祈りなさい。」とあり、
14:20-22で、「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。律法にこう書いてある、「わたしは、<異国の舌と異国のくちびる>とで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる」。 このように、<異言>は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。」とあります。
ですから、「異言」は、「他国の言葉」、「異国の言語」、「異なる言語」であって、決してわけのわからない(意味不明の)言葉(現在の「異言」と称されているようなもの)ではありません。
また、黙示22:18-19で、聖書の最後に、「これ以上、付け加えてはならない」とある以上、神からの「預言であれ、異言であれ」、もうこれ以上、「新たには、人間には与えられない」ということです。もし今も、神からの言葉が直接、人間にある(聞こえる)ならば、それは「聖書」にしなければ(書き加えなければ)ならないということになります。
>使徒言行録10:46 「異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。」
上記の聖書箇所に関して、「驚いた」のは、ペテロではなく、「ペテロについて来た人たち(ペトロと一緒に来た人)」でした。
そして、彼らが驚いたのは、異邦人が単に(普通に)外国語(異言)を話していたからではなく、「聖霊の賜物(聖霊のバプテスマのしるし)」としての「異言(その異邦人の通常語る国語でない、<他の外国語>)」を、(おそらく)恍惚とした状態で語るのを見たからです。
使徒2:1-4の「聖霊のバプテスマ」の「しるし」としての、「いろいろな他国の言葉で語りだした」現象の<再現>に、使徒10:44-47の「ペテロについて来た人たちが驚いたわけですから、使徒10:46の「異言」も「外国語(その人たちが通常語る言葉でない、その人たちにとっても外国語であるもの)」でなければならないでしょう。
使徒2:1-4で「「他国の言葉」として記されており、「異言」という言葉で示されてはいない」からといって、「使徒2:1-4の「他国の言葉」は「異言」ではない」というのは、本末転倒、自己矛盾の論法であり、使徒10:44-48の出来事の根拠を失うものです。ぺテロは「この人たちが<わたしたちと同じように>聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか(使徒10:47)」と言ったわけですから・・・。
ですから、使徒2:14の「他国の言葉」=「異言」=使徒10:46の「異言(他国の言葉・異なる言語)」ということになりますね。

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