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朝日記130706 something strange 「人間理性B」 と今日の絵

2013-07-06 10:49:42 | 絵画と哲学

 

朝日記130706 something strange  「人間理性B」 と今日の絵 

朝日記210702  Essay collectives "Something Stranges"  (2013)

 おはようございます。
 今朝はつよい風ですね。湿度はたいへん高いですね。
 昨夜は南から雨が差し込み 西の明かり窓を開けましが
 フックのステイが切れるのではないかとおもうほどに
 ばたばたしていました。
 また、少し 長めになります。 徒然ごとです。どうかTake it easy!でお願いします。
  今回のstrangeはホッブスからカントに話をつなげようとするkeywordとして「理性B」に関するものです。題して「人間理性B」です。 
 
徒然こと

<人間理性とは>
*神学的な切り口からはいります。
*神(超越者)が人間への意志の伝達の仕方は、ホッブスからの引用をすれば、は次の三つ 「啓示」、「理性」、と「予言」となります。(ホッブスの引用ですが所在をいまさがしています)
*そして「理性」はつぎの理由で、(キリスト教徒#)万人にあたえられた才能として位置づけます。これらは ホッブス自身が旧約聖書の知識の負うところは確実であります。

(#「なぜなら、それらは、われわれの祝福された救世主の再来まで、われわれがなんとかきりぬけていくようにと、かれがわれわれの手中にあたえた才能であり・・」(リバイアサン3-32))


*これを頭の隅において、つぎにカントのいう理性をみます。
彼の仮説は 神の属性である「理性」(「理性A」とします)と 人間がそれをうけた「理性」(「理性B)とします)が 数学の集合論的な意味で 写像的に、まったくかさなる(全部受け継いだ)ものであるのか あるいは BがAの部分集合(一部を受け継いだ)なのか わかりません。(興味あるところですが 一般には一部であろうと受け止めていると思いますが)
*しかし、これは それを考える人間からの 自己言及として、客観的判断することは、不可能です。 
(ゲーデルの不完全性定理の意味をおもいおこします)

 

*一方 仮想的な前提だけで 特定の結論をめざして 思惟的に論理を展開して対象の構成することはできます。カントは このような独断論は、客観的な認識を経ない形而上学問題として棚上げし、 認識哲学の境界(boundary)として一線を画しました。「理性A]との重なり度合はわからないが、「人間理性(Menschlich Vernuft)」(つまり「理性B」です)があると設定したと考えます。( これも蛇足ですが、微分方程式の境界条件とおなじで、これを一旦設定しないと「閉じた問題(closed form)にならず 論理的取扱い不能になります) つまり「理性B」が有効に働くための条件設定です。

<われわれはなにを知りうるか>
*カントは「理性B」によって われわれは 物事をすべて、ただしく知り(認識)うるであろうか。
そしてまた、「すべて」ではないとすると、ただしく知るに至る場合と、至らない場合とあるとなるから、それを区分けすることをしなければなりません。 これをする仕事「理性の自己認識の仕事」という一大事業を「純粋理性批判」の哲学によって行ったといいます。 「理性の法廷」ということばがあります。(ここについては 私はまだ勉強不足です。「理性B」の現状を精査する意味かもしれません)
 

 

 
*結果的には、物事をただしく知ることは 不可能ではないが 究極的にただしく知る(認識)道程はながい。だからといって放棄すべきでなく、確かさの水準を上げていく過程(プロセス)があると考えます。
*かれは 「理性B」は たとえば数学や物理の法則など「自然」を知る心的能力の属性としますが、同時に 外界からのセンサーである「感性」、またこれを 図化したりしたり、言語や数式で記号化したりして、論理対象化する認識能力として「悟性」を 取り上げました。この三つの 属性の連関作動関係として認識の「構造」を考えました。(物理学でいう「力学場」をおもわせます)
*そして もうひとつ 人間の意識が 事物(対象)に作用(作業)をおよぼす能力としての 判断力(価値、目的に基づきこれを遂行する力である「技巧」)を導入して、これを第4の属性としておきます。 カント自身の表現ではありませんが、いわば物理学でいう「場のポテンシャル」の構成能力として 組み込ませます。 時間や空間のなかの「場」のなかでのエネルギー(あるいは情報)の分布が不均一になることをみとめます。つまり「作用」です。(後世、「メンタル・ポテンシャル」 や「メンタル・エントロピ」へと発想誘導するヒントの芽がここにありそうです)
*ここまでくると「理性B」の認識レベルというは 法則という普遍的な(「上級認識」と言っているようです)ものを意味していることを 感じとります。
*しかし、われわれをそのような「上級認識」に至らしめるのは、上の三つの人間属性による「場」と意識の作用(業)力の「判断力」の活動が常に必要であるとします。 そのような形での場を「実践理性」として定義して、 「自然」だけでなく「人倫」を含めた人間の活動の最上級の認識とし、それにもとづく行動が 究極認識への過程としました。 これが カントの「実践道徳」として、やがて後世「世界道徳」という概念にまでいたります。
*さて、「理性B」は 神から人間への授かりものとはいえ、西洋の学問全般は神学からはじまり、哲学は神学そのものという歴史があります。 (蛇足ながら、ロンドンにある公開講座で17世紀?にGreshamの基金によってはじまり いまも第一級のopen collegeがあります。  最近、ネットで配信してもらっていますが、ここでの哲学部門はいまでも、神学Divinityです。)
*そのながれからは、「理性x」は神の意志の人間に伝える媒体機能ですが、そこには 一神教の旧約以来の 主権者である神との契約にもとづく 使命(ミッション)つまり道徳規範への服従が前提になっています。
*上の説明で 「理性B」はもっぱら数学や物理学など自然の法則を知る能力としてされてきましたが、背景はむしろ神の意志を成す法則を知る能力という比重が圧倒していたと考えます。 カントが生きていた社会背景からも 「理性B」にその影響をみます。 真理をうる能力として それを実際に獲得する実践的な道徳(「最高善」)を知る能力として 特に「実践理性」を「純粋理性」より上位に位置付けました。
*カントは科学者でもあったので、あえて「理性A」と「理性B」の差異の思考は、形而上学問題として、これを 「信仰」の世界に託し、認識の哲学の枠からはずしたと みずから宣言しています。
*これによって、カントは 科学主義の先駆的な功績者となり、現在でも強い影響を与えています。
*一方 「理性B」を 人間精神の自由の武器とした歴史がはじまったのですが その存在の根拠は 上の境界条件で 神の贈り物に乗っておることを留意しなければ なりません。
*無神論では どうでしょうか。「神からの贈与」以外の境界条件が「理性」にたいして 必要であったのですが歴史では なにかあったようにおもいますね。(これもまだ勉強していません)

 

考にした文献
 トーマ・ホッブス レヴァイアサン 第三部 岩波文庫
 エマヌエル・カント 付録 判断力批判『第一序論』XI、「判断力批判」 岩波文庫
 岩波 哲学・思想辞典 「理性」項 岩波書店
徒然ことおわり

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