からたち日記karatatinikki

からたちの花のように、ある日白く咲いて、時には痛くて、秋には実って、いつも通る道に咲く……。世の中や心の風景の記録です。

朝日新聞1月22日2面の「リーク擁護の論理」

2010年01月22日 | Weblog
朝日新聞の「物語という手法」、「物語化の氾濫」は、「大きな物語の終焉」と、この「終焉の終焉」を夢見るかのような「新大きな物語」の行方を見る、という点で、関心が切れるということはありませんが、このテーマに劣らないホットな事件が、今、時の政権党との間に起こり始めたので、ちょっと、そちらへ目を向けてみましょう。

本日22日朝刊2面「時時刻刻きょうがわかる」は、「検察・報道批判 危うい民主」の4段見出しで、昨日21日の国会(衆院予算委員会)などの、今にはじまったことでもない民主党の「報道批判」を、同党の「検察批判」といっしょくたにして、「批判」しています。

記事は2本立てで、一つは、検察の情報漏洩の問題、もう一つは、テレビなどの「取材源を明らかにしない報道の問題」。このほかに、「社会エディター梅田正行」の「多角的に取材し吟味」というコメントで、計3本立てとも言えます。(国会は始まったばかりですから、この日の朝刊は、1面から4面の政治面まで、社説2本を含めて、国会がらみで、民主党批判のオンパレードといった観を呈しています。)

釘付けになったのは、2面「時時刻刻きょうがわかる」の、「検察・報道批判 危うい民主」。その中に、こんな文がありました。民主党が、検察の情報リークを批判する動きを、元特捜幹部に反論させて、

「世の中が思い描くようなリークは特捜部にはないと断言する。」と言わせた後、さらに、

「守秘義務と知る権利とのバランスの中で、個人の良心から、表情の変化で感触を与えるくらいはする。だが、それはリークでも何でもない」

と、語らせているところです。

デスクのチェックが入った、いかにもわざとらしい、ステロタイプな新聞記事の匂いプンプンの文ですが、それはそれでいたしかたないとして、

元特捜部の幹部が、記者の執拗で熱心な取材に対して、「表情の変化で感触を与える」ことはあり、それは、リークではない、と発言し、新聞は、この特捜幹部の発言を批判することもなく、むしろ、肯定して、取材者と被取材者の馴れ合い的関係を明らかにしているのです。

知る権利を、読者=国民に代わって行使する新聞ならば、検察権力から情報を引き出すために、必ずしも、口頭での明言ではなくとも、眼球の動きくらいでイエスノーの情報を得ることがあり、そういう取材はよくあることで、リークではない、と元特捜幹部に主張させて、新聞もその主張を自己弁護に使っているわけです。

(つづく)

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