たんぽぽ

日々是好日の精神で歩いて行こうとは思っているのですが・・・さてさて

回想録  No.63  止血バンド

2007-03-30 17:00:06 | 回想(母)

 このところ安定している母にまたもや問題が発生した。

私の顔を見るなり母が「左手が浮腫んでぶよぶよになっちゃったんだ」と言う。
確かにかなり浮腫んでいる、それも左手だけ。
左手は透析の為のシャントが
ある手だ。
「おかしいねぇ」と言いながら、服の袖をめくっていったら、浮腫みは肘のところまで繋がっていた。
しばらくさすってから、何の気なしに肘の上をさわったら、かたいものにさわった。

何だろうと思って、袖をめくってみたら、何と止血バンドだった。
肘と肩の付け根のちょうど真ん中くらいにあった。
びっくりしてはずしたら、そこだけくっきり2㎝くらいへこんでしまって、あとはボンレスハム状態。
透析が月曜できょうは水曜だ。
まる2日間、止血バンドが・・・
そして、きょう私が行かなかったらと思うとぞっとした。
もう施設のほうのナースは帰ってしまっていたので、私は廊下続きの病院の方へ急いだ。
病院のナースに止血バンドを持っていって事情を説明した。
ナースは顔色を変えて、走って母のところへ行ってくれた。

次の日の朝、私は相談員のWさんに電話をして、ことの顛末を伝えた。
朝の申し送りで今聞いたところだと言う。
今後このようなことがないようにチェック態勢を強化します、との返事だった。

透析室のナースが、施設担当のワーカーの人たちが、止血バンドの回収まで責任を持ってくれないと言っていたのを、私は耳にしていた。
透析の針をはずしたあと、止血バンドで処理をするのだが、それがなかなか戻ってこないらしかった。
また、新人のワーカーさんが透析患者を施設に連れて行くのに、シャント部分を握ってしまい、
エレバーターの中で、大出血してしまったところにも、私は居合わせたことがあった。
私はそれらのことをWさんに話し、不安な気持ちを訴えた。

その後、透析後の止血バンドのチェックが、3回の過程で行われることになった、と報告を受けた。


 

 

 


回想録  No.62  楽しい会話    

2007-03-29 13:39:45 | 回想(母)

 母のにこやかな、穏やかな顔を見ることができてほっとした。
しかし、その日から私は風邪を引いてしまった。
咳のひどい状態が続き、とても母のところへは行けなかった。
風邪が治るのに20日近くかかってしまった。

またしばらく母のところへ行けない日が続いた。

多少咳が治まってきたので、私は母のところへマスクをして行くことにした。

私がエレベーターから降りて歩いて行くとすぐに、むこうのほうで手を振っている母の姿が目に入った。
母は待ちかねていたように、満面に笑みを浮かべた。

ワーカーさんが寄ってきて、「○○さん、娘さん?良かったねぇ」と声をかけてくれた。

母は私に自慢げにこう言った。
「アタシ、人気があるんだよ。みんなが声をかけてくれるんだ」
私は、母がニコニコして、反応がおもしろいからだろうなと思った。

うれしいことだった。

そこで「誰か友達できた?」と聞いてみた。
母は「出来ないよ、あとは年寄りばかりなんだもん」
私は思わず吹き出してしまった。

 

 

 

 

 

 


回想録  No.61  母の言葉に

2007-03-28 12:00:11 | 回想(母)

 母を施設に送り届けてから、私はしばらく母の所へ行くことが出来なかった。

体調が悪くなったこともあったが、母に会うのがこわくて行けなかったのだ。

1月12日、会社の帰りに思い切って行ってみた。

3日以来だった。

こんなに長く会わなかったのは初めてのこと。


予想に反して、母はにこやかに迎えてくれた。
お正月にみんなに会えてうれしかったと、母のほうから話してきた。

私は体から力がスーっと抜けた。

 

良かった。

 

楽しかった話をして、さて帰ろうとした。

母が「今度は5月の連休かね、楽しみにしてるよ」と言った。

 

忘れてしまうかもしれないけど、今の私には何よりの言葉だった。

うれしくて涙が出そうになった。

 

私「また、帰るのがつらくなるよ」

母「行けない方がもっとつらい」

 

救われました。

 

 


回想録  No.60  家に着いて・・・

2007-03-27 12:31:48 | 回想(母)

 母を施設に送り届け、家に帰ってきても、私は何もする気が起きなかった。

片付けものは山のようにあった。
でもあしたやろう。

お天気が良かったので、娘たちが布団だけは干しておいてくれた。
私は母のいた形跡を、いつまでも残しておきたくなかった。
目の前から取り除きたかった。
だから、干されていた布団を見て
ほっとした。

早く気持ちを切り替えなくてはいけないと自分に言い聞かせた。

あの死にそうだった母を、我が家に3泊もさせることができたんだ。

私ひとりの思いだけだけでは、とても実現不可能だった外泊。
家族の協力があったからこそ、出来たこと。
それを勧めてくれたKちゃん、快く承諾してくれた義母。
私に押し切られた形だが、我が家に来てくれた兄たち。
みんなの力で母と過ごせたことに感謝しなくてはいけない。

この3日間、義母は毎日何かしら料理を作って持ってきてくれた。
食事にも誘ったのだが、兄たちもいたのできっと遠慮したのだろう。
1回だけ一緒に食事をしただけになってしまった。
お正月だというのに、私は義母のことはほったらかしだった。

きょうは家族でゆっくり食事をしようと思った。
だが、料理をする気力はなかった。

夕食はみんなで外で食べることになった。


 


回想録  No.59  施設へ帰る

2007-03-26 14:16:05 | 回想(母)

 1月3日午後から透析がある為、午前中に母をSの杜に送って行った。

母は施設へ戻らなくてはいけないことは分かっていたようだ。
いざ、出発となると重苦しい空気が流れた。

私たちは来たときと同じように車2台を連ねて施設へ向かった。

施設に着き、報告を済ませて、母を部屋へ連れて行った。
みんなで行かなければ良かった。
次兄、三兄、私、Kちゃんで母の部屋から出て行くことになってしまった。

母は不安がった。

そしてこう言った。

母「Mちゃんが会社を辞めてアタシの面倒をみればいいじゃない」
次兄が言ってくれた「お母さん、そういうわけにもいかないんだよ」
母はすぐに「そうだよね」と言った。

そして「アタシは置いて行かれるんだね」
と言った。
「また、来るからね」それしか言いようがなかった。

帰りの車の中、私は口を聞く事も出来ないくらい疲れ果てていた。






回想録  No.58  我が家へ

2007-03-24 20:42:00 | 回想(母)

 その年の大晦日、母は3泊4日の予定で我が家にやってきた。
兄たちも日中は家に帰ったりしながら、夜には戻ってきてうちに泊まってくれた。

元日には兄3人とその家族も揃った。
そして、家族と過ごす穏やかな母の姿を見ることができた。

でも、それはしあわせな時間ばかりではなかった。

母には、食事制限、水分制限がある。
お正月ということもあり、食卓の上には一応ごちそうが並んでいた。
母は以前は食の細い人だった。
それが、病気になってから別人のように食欲旺盛になってしまった。
そして、今食べたことを忘れてしまう。
食卓に出されたものを、次々手でつまんでいく。
母のそばに誰かが付いていないと、どうにもならない状態だった。
食べ物は母の手の届かないところに並べるしかなかった。

いざ食事となっても、母のお皿に取り分けたものも、食べてしまえばすぐに忘れた。
空っぽになったお皿を見て、食べてないと言い張る。
すぐに飲み物をほしがった。
兄たちとかわるがわるそんなに飲めないことを言い聞かせるが、すぐにまたほしがる。
今話して聞かせたことはすぐに忘れた。
挙句の果て、私たちがいじわるしているかのように怒り出した。
しまいには、腹を立ててもう寝るという。

いつでも横になれるように、リビングの続きにある部屋に母の布団を敷いておいた。
車椅子から布団に移すのも、慣れない私たちには力の入れどころが分からなかった。

結局、ふたりがかりで母を布団に寝かせた。
寝かせたと思うと、今度は「トイレに行きたい」という。
ポータブルトイレを準備しておかなかったのが、失敗だった。
導尿していたので、安易に考えていたが、便がしばらく出ていなかったのだ。
施設の広いトイレとは違い、車いすからトイレの便座に座らせるのはひと苦労だった。
便座に座るとすぐに、「出ない」と言う。
便意をもよおすのだが、簡単には出ない状態だった。
また、寝かせる。今度はすぐ「起きる」と言う。

しばらくみんなで知らん振りしていると、子供たちの名前をひとりひとり呼んだ。
それは就寝してからも続いた。
私が母の隣で寝たが、30分くらい眠ったかと思うと、
「喉が渇いた」
「トイレに行きたい」
「もう起きる」
ほとんど2,3分おきくらいにそれを繰り返した。
そしてまた30分くらい寝て、またさっきの繰り返しだった。
やさしくなだめていた私も、
何度も何度も繰り返される母の要求に、けんか腰になってしまった。

そして、私は2晩で参ってしまった。
3日目、見かねた次兄が代わってくれた。
私は自分の寝室で眠った。


回想録  No.57  次なる願いは

2007-03-23 16:07:09 | 回想(母)

 今回母は危ない状態に陥り、全く睡眠薬等を使わなかった期間が20日ほど続いた。
皮肉なことにその結果として、私の願いが叶えられたわけだ。
命も救ってもらい、母の笑顔も取り戻した。

不思議な思いがした。

あんなに待ち望んでいたことがえられた。
私が来るのを待ちこがれている母に、再び会うことが出来た。
今は素直に、そのことに感謝しようと思った。

思い返せば、あの絶望的な日々、心も体もズタズタだった。
その中でほんの些細なことに光を見出し、ほんのちょっとしたことで深く傷ついた。
そして、現実をなかなか受け止めることが出来ないでいる自分の弱さも思い知った。

では、この先どうするのか。
母を家に連れて帰り介護をすることが、果たして私に出来るだろうか。
夫は母を引き取っても良いと言った。
しかし、現実はそんなに甘いものではない。
下手をすると、共倒れにもなりかねない。
すぐに答えが出せることではなかった。

とりあえず、今私が出来ることを考えることにした。


母が施設に戻ったのが、12月26日。
そして、31日から1月3日までの外泊許可が出た。
私は自分の家に母を連れてこようと思った。
そして、兄達にも来てもらいみんなでお正月を迎えることにしよう。
それが、今の母にとって一番の喜びであるに違いない。





 

 

 


回想録  No.56  施設の様子

2007-03-22 16:16:47 | 回想(母)

 母が施設の2階に移動した次の日がちょうど土曜日だった。
私はどんな様子か気になり、お昼にかけて母の所へ行った。 
母はまだ道尿の袋を、車いすにぶら下げている状態だった。

たまたま、私のいる時にレクレーションの時間になった。
ホールのテーブルを端に寄せて、広くなった所に入居者の人たちが集められた。
『ご家族の方も一緒にどうぞ』と言われた。

私は何が始まるのか、見学がてら参加することにした。
母も車いすで、その輪の中に入ることになった。
若い男性の職員が、輪の中心に入り、レクは始まった。
歌を歌ったり、手足の体操をしたり、ビーチボールで遊んだりした。
およそ1時間、レクは行われた。

驚いた
ことに、無表情だったお年寄りが、うれしそうにそのレクに参加していた。

刺激のない日常で、こういう時間はやはり貴重なのだと思う。
体験した私は、頻繁にこういう時間を作ってほしいなと思った。

結構楽しい時間だったが、母はあまり気乗りがしない様子だった。


さて、母はこの2階ではひとり部屋ではあるが、洗面トイレは付いていない為、
今までのような個室扱いではなくなり、月々施設に支払う料金も約10万円少なくなった。

それまでは部屋の使用料、食事代、医療費、日用品費等含めて月額約24万円だった。
これは、利用者にとって、かなりの負担になる。
それが一挙に13万円ちょっとになったわけだ。
そして、三兄が管理している、母の年金等から支払われることになった。

母の場合、自分が将来どうなるかわからないから、
その時の為に使えるようにと、僅かばかりの貯蓄があった。
私たちは、それを使わせてもらうことにした。

このことに関しては、私たちは恵まれたケースなんだろうと思わざるを得なかった。

たとえ、母のような状況の親を抱えていたとしても、
受け入れてくれる施設がない
あったとしても順番待ちの状態
毎月13万というお金はとても支払えない

こういう方々が日本全国にどのくらいいるのだろうか。
この国の抱えている重大な問題の1つがまさに、ここにあるのだと思った。
















 


回想録  No.55  施設へ戻る

2007-03-20 17:01:38 | 回想(母)

 3日後、母は病院から、施設のほうへ移動した。
母は2週間で驚異的な復活を果たしたわけだ。

母はそれまで居た2階の一般棟ではなく、3階になった。
3階は2階と違って、いろいろな面で介助を必要とするたちが入居していた。
お世話してくれる職員の数も2階より多かった。
母にとってもその方が良いのだろうと私は思うことにした。

3階のエレベーターは、入居者が勝手に乗ることができないように、
暗証番号を押さないと、乗ることが出来なかった。
反対にエレベーターで上がって来たときは、降りてからエレベーターの扉が閉まることを確認する。

3階の雰囲気は2階とは随分違っていた。
フロアでは、お年寄りたちが丸いテーブルに、それぞれ3~4人づつ座っていた。
そこまでは2階と変わらない。
だが、そこにいるお年寄りは、ほとんどが自分の世界に入っていた。
2階では、隣同士話をしたり笑い声がしたりしていたが、ここは違った。

その中で、ナースステーションから一番遠いところにいるグループだけは、ちょっと違った。
食事の時使うお手拭きのタオルを丸めたり、広告を広げて見ていたりした。
全体を見回すと、ほとんどの人が無表情だった。あるいはテーブルにうつぶせになっていた。
でも中には、ニコニコしながら民謡のようなものを歌っている人もいれば、怒って文句を言い続けている人もいた。
母はこの中ではダントツに表情が豊かだった。




 

 

 


回想録  No.54  待ちかねた言葉

2007-03-19 18:41:25 | 回想(母)

 手術の2日後、再建したシャントから透析が再開された。
翌日の天皇誕生日だったので、私は昼間母のところへ行った。

私の顔を見るなり
「アンタ会いたかったよ」
「アンタずっと来ないんだもん」とうれしそうに母は言った。

私はどんなにこの言葉を待ち焦がれていたか・・・

骨折のため入院したS病院からO病院への転院後、
もう私の知っている母ではなくなってしまっていた。

あれから何ヶ月経ったのだろう。
私はSの杜の入所に際して、「もう一度母の笑顔が見たい」と言ったことを思い出していた。
今、正に私のことを待ち焦がれていてくれる母がここにいた。

私の願いは叶えられた。

あすはクリスマスイブ。
私は、イチゴのショトケーキを2つ持ってきていた。


母と一緒にケーキをほおばりながら、私はうれし涙で目が潤んできた。