詩篇18篇を読んでいると、こんな聖句がありました。
私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。
あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。
あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。
神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
神様に与えると神様は、豊かな恵みをお返しくださいます。
聖書には、「恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」とあります。
私たちの生活も、与えたものが返ってきます。毎朝ゆとりの一万歩を歩き、今日で8年半になります。
出会う方に、おはようございます!99パーセント、おはようございます!の声が返ってきます。笑顔で声を出すと笑顔で声が返ってきます。
挨拶でもそうですが、喜びを与えると喜びが返ってきます。幸せを与えると幸せが返ってきます。
逆に、怒りを与えると怒りが、憎しみを与えると憎しみが、心で思っただけでもそれらのマイナス感情が返って来て、いつも不平不満、イライラの毎日です。
自分が喜んでいないのに、喜びを与えるのは偽善だという人もいます。幸せでないのに、人の幸せを願ったり与えたりするのはムリです。と言われそうです。
イエス様は、「受けるよりは与える方が幸いです」(使徒20:35)
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」
(マタイ7:12)
[与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」(ルカ6:38)
一般的には、鏡の法則と言ってもよいでしょうね。人生は合わせ鏡とも言われます。鏡に映る自分をきれいに見るためには、自分を美しくする以外にありません。
今日、イライラする出会いがあれば、自分のイライラが映っていると思うと、相手に対するイライラは消えるかもしれません。
怒りで頭にきているなら、怒りを静めてゆとりの気持ちを持ってみましょう。相手も落ち着いて対応してくれること必然です。
そのためにはまず心が平安になっていることです。
そして口に出して、私の心は穏やかで平安です!今日もまた天国の一日です!感謝します。
と声に出して告白しましょう。
聖霊の助けが豊かな与えられます。アーメン信じますと、イエス・キリストを心に迎えると、不思議な静けさが心を満たしてくれます。
今日一日を天国の一日として、愛を与えつつ過ごして見ましょう。
コリント人への第一の手紙
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
私は主の前に全く、私の罪から身を守る。
主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされます。
あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。
あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。
神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
神様に与えると神様は、豊かな恵みをお返しくださいます。
聖書には、「恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」とあります。
私たちの生活も、与えたものが返ってきます。毎朝ゆとりの一万歩を歩き、今日で8年半になります。
出会う方に、おはようございます!99パーセント、おはようございます!の声が返ってきます。笑顔で声を出すと笑顔で声が返ってきます。
挨拶でもそうですが、喜びを与えると喜びが返ってきます。幸せを与えると幸せが返ってきます。
逆に、怒りを与えると怒りが、憎しみを与えると憎しみが、心で思っただけでもそれらのマイナス感情が返って来て、いつも不平不満、イライラの毎日です。
自分が喜んでいないのに、喜びを与えるのは偽善だという人もいます。幸せでないのに、人の幸せを願ったり与えたりするのはムリです。と言われそうです。
イエス様は、「受けるよりは与える方が幸いです」(使徒20:35)
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」
(マタイ7:12)
[与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」(ルカ6:38)
一般的には、鏡の法則と言ってもよいでしょうね。人生は合わせ鏡とも言われます。鏡に映る自分をきれいに見るためには、自分を美しくする以外にありません。
今日、イライラする出会いがあれば、自分のイライラが映っていると思うと、相手に対するイライラは消えるかもしれません。
怒りで頭にきているなら、怒りを静めてゆとりの気持ちを持ってみましょう。相手も落ち着いて対応してくれること必然です。
そのためにはまず心が平安になっていることです。
そして口に出して、私の心は穏やかで平安です!今日もまた天国の一日です!感謝します。
と声に出して告白しましょう。
聖霊の助けが豊かな与えられます。アーメン信じますと、イエス・キリストを心に迎えると、不思議な静けさが心を満たしてくれます。
今日一日を天国の一日として、愛を与えつつ過ごして見ましょう。
コリント人への第一の手紙
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
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