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老いの生き方

2018年09月01日 06時20分08秒 | ハチパパのひとり言

                箱根 長安寺 五百羅漢 

高齢化社会と言われてずいぶん経つ。テレビや新聞・雑誌なども、高齢化問題をたくさん取り上げ、書店でも高齢者対象の書籍が数多く出回っている。

昭和22年から25年に生まれた「団塊の世代」が、70歳前後となり高齢化率を押し上げているわけだが、私もいま74歳でとっくに高齢者の一人となっている。しかし、身体も精神も衰えているにもかかわらず、頭の中ではあまり老人という認識がない。

今の生活が続く保証は何もないことはわかっていても、メリハリのない日々を送っている体たらくで、これではいけないと整理整頓など一念発起するもののやり切るまでに至らない。

過日、故郷の菩提寺でいただいた小冊子「仏教的老いの生き方」を読んでいると、様々なヒントが書かれていた。まさに仏教的生き方所以である。

お釈迦さまは、

頭(こうべ)白しとして このことよりてのみ

枯れ木長老(おさ)たらず 彼の齢(よわい)

よし熟したりとも これ空しく

老いたる人とのみ よばれん。

愚かなるものは牛の如く老ゆ

かれの肉は増せども かれの智は増すことなし

といいます。

ただ年齢が多いとか頭が白いとかだけで長老とはいわない。智慧がなければ長老ではないというわけです。

『瑜伽師地論(ゆがしちろん)』には「老いの五種相」が説かれています。

①盛色衰退(体力の衰退)                                                  ②気力衰退

③諸根衰退(目や耳などの衰退

④境界衰退(仕事や配偶者の喪失などの環境が欠如する)

⑤寿量衰退

という五つを挙げています。

孔子の『論語・学而篇』には、「亡き人を鏡にする」子どもの立場があります。

父、在るときはその志を観(子供として親に、親は子供にどう対するかを学び)

父、没するときはその行いを観る(父親の生き方を鏡として、自分の生き方を考える)

三年、父の道を改むる無きは、孝と謂う可し(亡き親を偲ぶ慎みは三年も行えばやすらかになろう。親を懐かしむことは孝というのだ)

子供が「父、没する時はその行いを観る」ということは、さきにあの世に行く父としては、子供や孫に「人はこのように生きてほしい」という目標を残しなさいということであります。

私たちは、あの世から子供や孫に、人間らしく生きなさいよ、とあちらの世界から祈りつづけることが出来るという意味にもなります。

今、多くの問題が「家族」のゆがみから発生しています。家族の意味は「命と心の連続観」にあります。あの世の父・母が後の家族に祈りを残し、後の家族がその祈りに照らされて、それを支えに生きることの節目に高齢者がいるのです。

この小冊子の末文にはこう書かれています。

道元禅師は「喜心・老心・大心」の三心を説きます。「喜」は嫌なことを捨てる力です。「老心」は相手をいたわる心ですし、自分は無心になる柔らかい心です。「大心」はこだわらず許す心です。

自分が受けた恩みを振り返ったら、人生の様々なことを許せるようになるのです。人生の「自分史」を振り返ることで、人は感謝で老いを飾ることができます。そこには仏教的な「無心」の美が熟成されていくのでしょう。

 

 

                                                  

 

 



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