現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『般若心経』の賛否

2018-11-12 19:14:26 | 虚無僧日記

「質問コーナー」に「『般若心経』を写経して
お寺に納めに行ったら“受取れません”と言われました。
どうしてですか?」というのがありました。

同じ仏教で、『般若心経』を否定する宗派があります。
日蓮宗と浄土真宗でしょう。。

浄土真宗の勅使(てし)講師は、明解に話された。
「『般若心経』は、あなたが浄土真宗の門徒である
なら必要ありません。捨てなさい」とバッサリ。

「医者が、患者に その人の病気に合った処方箋を
下すように、親鸞聖人は、数ある経典の中から、
みなさんの悩み事に応えるお経は、『浄土三部経』
(無量寿経、観無量寿経、観音経)が いいと決めて
くださったのです。他の薬を飲む必要はありません」と。

日蓮宗各派にいたっては、『法華経』を奉じ、日蓮聖人を
唯一無二の聖人として崇め奉り、日蓮に帰依せよと説く。

同じ「仏教」でありながら、拠り所とする「経典」が
宗派によって違う。そしてお互いに相手を非難し合う。
そのような「仏教各宗派」のありように 私は懐疑的です。

あらゆる経典は「釈迦」の没後 500年、1,000年を経て、
後世の人によって書かれたものであって、「釈迦が語った」
として、自分たちの都合のよいように解釈して創ったものです。

釈迦は一文字も残さなかった。釈迦の時代には一冊も
経典は無かったのです。虚無僧は、唱える「経」も無く、
寺も家も持たず、ただひたすら歩いて、尺八で衆生を
感化する。釈迦の原典に回帰する修行なのです。






虚無僧に袈裟は必要か

2018-11-11 22:15:27 | 虚無僧日記

「虚無僧」は、「得度受戒」していない「在家」であり、
江戸時代の初めは、「袈裟」は 付けていなかった。

私も、旅する時は、袈裟はつけないことにした。特に夏は
暑いし邪魔。逆に寒い冬は、風除けになるので、マントの
代わりになるので付ける。結構、袈裟一枚で暖かい。

「袈裟」が無ければ、「インチキ坊主」などと云いがかりを
付けられた時、「袈裟 も 数珠も『お経』も持ってません」 と
いう逃げ口上になる。

「あなたが、勝手に『坊さん』と思っただけです。私は、
この通り 『坊主頭』 じゃ ありません」と。

では「なぜ、布施を得るか」と訊かれたら、

「私からは要求してません。勝手に入れてくださる」(最近は稀ですが)。

「これは日本人の宗教心。昔から『乞食の行』を『聖(ひじり)』 として
尊敬し、『施し』 をすることで、『徳積み』ができるという
信仰があったではないですか」と 答えたい。

「あなたの心の中にも、困っている人、修行をしている人に
『施し』を しようという 『慈悲』 の心は ありませんか」と。

「虚無僧」は、あなたの心の中にある「仏心」を呼び起こさせる
存在なのです。

もっとも以前「職務質問」を受けた時、若いお巡りさんは、
「虚無僧」を全くご存知なく、いちいち説明するのも面倒なので
「明暗教会・会員証」を見せたら、それを書き写して、了解。

「以前、虚無僧が来て『布施が少ない』とそこの店の人と
トラブルがあったので、通報を受けた。その時は、こういう
免許を持ってなく、寺の名前も云わなかったので」と。
「で、尺八は吹いていましたか?」と聞くと、「いや尺八は
吹いていなかった」と。なんだ、それこそ、いかがわしい
「托鉢坊主」じゃ。最近は減ったが、迷惑な話。

警察に通報したそのお店、その後火事で全焼しました。