現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

ねがい

2018-08-06 14:55:40 | 地球人類の問題

『ねがい』 広島市立大洲中学校3年有志(2002年)作詞 
      山ノ木竹志編詞 たがだりゅうじ作曲

 
1.もしも この頭上に 落とされたものが
 ミサイルではなくて 本やノートで あったなら
 無知や 偏見から 解き放たれて 
 君は 戦うことを やめるだろう

2.もしも この地上に 響きあうものが
 爆音ではなくて 歌の調べで あったなら
 恐怖や 憎しみに とらわれないで
 人は 自由の歌を 歌うだろう

3.もしも この足元に 植えられたものが
 地雷ではなくて 小麦の種で あったなら
 飢えや 争いに 苦しまないで
 共に分かあって 暮らすだろう

4.もしも ひとつだけ 願い叶うならば
 戦争捨てて 世界に 愛と平和を
 この願い 叶うまで 私たちは
 歩み続けることを やめないだろう


 この願い 叶うまで 私たちは
 歩み続けることを やめないだろう




あの日の授業

2018-08-06 14:54:58 | 地球人類の問題

『あの日の授業-新しい憲法の話』笠木透作詞 安川誠作曲

新しい憲法とは、現在の憲法が生まれた時の喜びと感動を歌った
ものだ。今一度あの時の感動を呼び起こしたい。

1.あの日の先生は 輝いて見えた
 大きな声で 教科書を 読んでくださった。
 ほとんど何も わからなかったけれど
 心に刻まれた あの日の授業

  (詩の朗読)
  そこで今度の憲法では、日本の国が決して二度と戦争を
  しないように、二つのことを決めました。
  その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をする
  ためのものは、いっさい持たないということです。
  これから先、日本には、陸軍も海軍も空軍も無いのです。
  これを戦争の放棄といいます。「放棄」とは「捨ててしまう」
  ということです。しかし、皆さんは、決して心細く思う
  ことはありません。日本は正しいことを、他の国より先に
  行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものは
  ありません。

2.あの日の先生は 熱っぽかった
 これだけは 決して 忘れてはいかんぞ
 泡を吹いて 吼えたり 叫んだり
 心に刻まれた あの日の授業

  (詩の朗読)
  もう一つは、よその国と争いごとが起こった時、決して
  戦争によって、相手を負かして、自分の言い分を通そうと
  しない、ということを決めたのです。
  穏やかに相談をして、決まりをつけようというのです。
  なぜならば、戦をしかけることは、結局自分の国を滅ぼす
  ような羽目になるからです。
  また、戦争とまで行かずとも、国の力で相手を脅すような
  ことは、いっさいしないことに決めたのです。そうして、
  よその国と仲良くして、世界中の国が良い友達になって
  くれるようにすれば、日本の国は栄えてゆけるのです。

3.あの日の先生は 涙ぐんでいた
 教え子を戦場へ 送ってしまった
 自らを責めて おられたのだろう
 今ごろ分かった あの日の授業

4. (1番をくり返す)  

あの日の先生は 輝いて見えた
 大きな声で 教科書を 読んでくださった。
 ほとんど何も わからなかったけれど
 心に刻まれた あの日の授業
心に刻まれた あの日の授業






   


死んだ男の残したものは

2018-08-06 14:54:17 | 地球人類の問題

『死んだ男の残したものは』

1.死んだ男の残したもものは 一人の妻と一人の子供
 他には何も残さなかった  墓石ひとつ残さなかった


2.死んだ女の残したもものは しおれた花と一人の子供
 他には何も残さなかった  着物一枚残さなかった


3.死んだ兵士の残したもものは こわれた銃とゆがんだ地球
 他には何も残せなかった   平和ひとつ残さなかった


4.死んだ彼らの残したもものは 生きてる私 生きてる貴方
 他には誰も残っていない   他には誰も残っていない


5.死んだ歴史の残したもものは 輝く今日と また来る明日
 他には何も残っていない   他には何も残っていない



戦争があって、多くの人が死に、そして今日の自分が生きて
あることに、深い感慨と使命を呼び起こす詩だ。じんとくる。


「名古屋叢書」第3巻 法制編(2) 

2018-08-05 23:58:19 | 虚無僧日記

「名古屋叢書」第3巻 法制編(2)

p.505 「覚」 元文4年(1739)  

一 町人共之儀、諸事簡略致し、常々身代相応より事軽く暮らし、

  栄耀がましき儀 堅く仕らず、家職を専らに相励むべき事

 

一 町人共の衣類の儀、往々仰せ出だされ候趣、弥々(いよいよ)

    堅く相守り、男女ともに美麗を好むべからず候。尤も、古きを

  厭(いと)わず、専ら鹿服(あらたえ=織布)を着るべき事

 

一 他国より来たり候 座頭、瞽女(ごぜ)、比丘尼、薬売術放下、

   総じて奇異之所行を致す類、奉行所の指図無くして、宿借りる

   べからず。 且つ又、何者によらず、毒薬種買い候者 之れ

   有らば、竊(ひそか)に、送り人を付け、早速 奉行所へ可相達事


虚無僧と敵討ち 2

2018-08-05 10:18:49 | 虚無僧って?

追う者も虚無僧に

仇を追う側も虚無僧となった話が『続近世奇人伝』にあります。                                   この話も、奇しくも会津藩主加藤家に関係があります。

加藤嘉明の子明成は横暴で、民は疲弊し、家臣の争い事が絶えず、家老堀主水が                           会津を出奔して幕府に明成の罪状を訴え出る事件があり、1643年改易となります。                           代わって会津藩主となったのが家光の異母弟保科正之です。                                    尚加藤明成の正室は保科正之の叔母です。

その明成の姉の婿が松下重綱。その兄弟と思われる松下源太左衛門忠綱が、主家の改易のため                              浪人して江戸に行った時に、同じく加藤明成の家臣だった早川八之丞に討たれた。

殺害された理由は、早川八之丞が、藪久太郎の倅八助をめぐって大崎長三郎と争い、                         これを殺害して 出奔した。こちらも男色がらみの殺生。江戸時代の初めまでは男色は公然の慣習でした。

藩主の加藤明成は、早川八之丞の父四郎兵衛に切腹を命じた。これを知った八之丞は、父が切腹となったのは               大崎長三郎の縁戚である重臣の松下忠綱が殿に、四郎兵衛の処罰を進言したからと思い込んで恨みだった。                加藤家は改易となり、松下忠綱も浪人していて、再仕官の途を求めて江戸に赴いた際に殺害したものである。               時に寛文9年(1669)3月21日。

松下忠綱には二人の子がいた。長男「助三郎豊長」は12歳。次男の「南谷」は7歳。                         松下家は元は加藤家の重臣であっただけに、二人の家来もいた。

早川八之丞が京都明暗寺に入り虚無僧になっているとの情報を得た松下助三郎豊長は、                        従者二人を伴って京都に行き、浪人宮原伝蔵に剣術を習う。宮原伝蔵もまた親を討たれ、                        その仇が病死して本意を遂げられずにいたことから、早川助三郎に同情し、みずから                          明暗寺に入って虚無僧となり、早川八之丞とも親しく言葉を交わす仲となった。

そして八之丞に「難波に行こう」と誘い、助三郎にも連絡して、芥川宿(現高槻市)で                          助三郎と家来二人と合流し、八之丞を討ち果たした。時に1671年。助三郎は14歳。

この話も芝居や小説になり、いろいろ粉飾されています。直木三十五も「芥川虚無僧敵討」として                    発表しています。高槻市の芥川町には「敵討ちの場所」として説明看板がありますが、そこには                     虚無僧になった話しは書かれていません。また、「助三郎が虚無僧になって」という話しも                           あるようですが、13、4歳では、虚無僧にはなれないでしょう。

以上2件とも事実とすれば、江戸時代の初期でしたので、虚無僧になりやすかったのでしょう。

江戸時代の後半となると、虚無僧寺ごとの縄張りがあり、虚無僧の通行を禁止する藩もあり、                       虚無僧姿での敵探しは難しくなったようです。

1824年に父の敵を討った小田原藩足軽浅田鉄蔵、そして1863年に敵を討った土佐藩の徒士(かち)                    広井磐之助の二人は、「当初虚無僧となったが、諸制約があって虚無僧姿では回れず、脱宗した」と                   供述しています。というわけで、虚無僧の敵討の話はあるようで無い。以上の4件が確認されただけです。

敵討のために虚無僧となった話は大かたが小説や芝居の類です。その代表格が歌舞伎の「助六」と                         「仮名手本忠臣蔵」でしょう。また吉川英治の「鳴門秘帖」などが虚無僧を隠密にしてしまったのです。

 


虚無僧と敵討ち 1

2018-08-05 00:03:10 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」に毎月「虚無僧曼荼羅」と題して、虚無僧のあれこれを                             寄稿しています。9月号は「虚無僧の敵討(かたきうち)」

「慶長の掟書」には「虚無僧は勇者浪士の一時の隠れ家。敵(かたき)を                              探し求めている者もいるので無礼な振る舞いをしてはならない」とか                                「敵討(かたきうち)を望む者は本寺へ届け出よ」と書かれています。                               敵討をするには、虚無僧は恰好の手段のようですが、実際に「虚無僧の敵討」の                            事例は探しましたが、数件しかみつかりませんでした。

 福島県会津地方の昔話を集めた『老媼茶話(ろうおうさわ)』という                                和本をネットで入手しました。「時に寛保2年(1742)に筆記した」とあります。                              その中に「虚無僧の敵討」の話がありました。

伊予(愛媛県)の松山に宮崎喜勇路という美男の小姓がいた。その喜勇路に恋慕した                         十時辰之助という者が艶書を送ったが、つれなく断られたため、喜勇路を殺して                           出奔する。やはり喜勇路に惚れていた沖波與蔵という者が喜勇路の仇を討たんと                               虚無僧となって会津まで追っていく。伊佐須美神社の花見の宴で尺八を吹いていると、                              そこへ現れたのが仇と狙う辰之助。與蔵は辰之助の後をつけ、夜中に忍び込んで本懐を遂げる。                     

会津は「保科正之(後に松平)」が入封する前の領主は加藤嘉明。賎が岳七本槍の一人です。                     加藤清正とは同姓ですが違います。徳川家光によって会津の蒲生と入れ替わりに                           伊予(愛媛県)松山から会津に転封してきます。ですから、伊予松山から多くの家臣団が                       会津に移り住みました。辰之助は、会津に行った縁者を頼って会津に逃げたものと思われます。                     與蔵は、それを見越して、会津まで辰之助を追っていったのでしょう。                                と考えると、この話は、加藤嘉明(在任 1627-1631)か、その子の明成(1631-1643)の                                                            時代のことと思われます。

原文は和紙10ページにも及び、実に詳細に書かれていて、とても老婆の昔話とは思えない内容です。                    たとえば、

伊佐須美神社の文殊堂の前で恋慕(れんぼ)、透垣(すががき)、子を思う鶴の巣籠りという                     大森宗勲が初めて吹き出しける尺八の秘曲を鳴らせば、料亭の亭主が出てきて「高瀬備前守、                         安田城長、是斎(ぜさい)、宜竹(ぎちく)、指田(さしだ)、一音、これ皆名人也。                        然れども貴殿には及ぶまい。音色は笙、筒音は黄鐘調なり。近代の上手なり」と褒めています。

「高瀬備前守、安田城長・・・」は、1664年に刊行された『糸竹初心集』に書かれている                       一節切(ひとよぎり)の名手です。尺八も「筒音は黄鐘調」というのですから、長さ一尺二寸前後の                          短い一節切になります。虚無僧が一節切を吹いていたことを示す貴重な史料かと思いましたが、                      よく考えてみれば、虚無僧が一節切を吹いていたとは考えられません。

虚無僧も一節切も知らない人が『糸竹初心集』を読んで文飾したのでしょう。あるいは                        この話自体が創作話(フィクション)ではないかとも疑えます。

最後、敵討ちを果たした與蔵は辰之助の首を塩漬けにして、巡礼姿で松山まで帰り、                         喜勇路の墓前に供えて自害して果てた」とあります。

敵討ちは直系尊属の子か孫に限られますから、與蔵のように第三者の敵討ちは                             認められません。殺人罪として処刑されます。それで與蔵は自ら命を断ったのでしょう。                        それにしても松山での與蔵の最後まで、会津の老婆がどうやって知り得たたのでしょうか。                       やはり創作話(フィクション)臭いです。