尺八古典本曲に「転菅垣(ころすががき)」という曲がある。
「転(ころ)びという手が用いられているから」とか、
「曲調が回転するように展開するから」とか、また「仙石騒動の
神谷転(うたた)が吹いていた曲なので転(うたた)菅垣」
という説もある。それで以前から神谷転に関心を持っていた。
このたびネットで調べていて、東京中目黒の永隆寺に
神谷転の墓があると知ってびっくり。私の叔母の家のすぐ真下。
何度か前を通っていた。
この寺は、元は港区三田小山町にあり、仙石家とその藩士の
菩提寺だったそうな。明治35年この地に移転。その際、
仙石家の墓はすべて出石に移されて、今はない。
なぜか神谷転の墓だけが移されたという。神谷は藩に復帰したのだ
ろうか。否である。
神谷転は事件の後、船橋清山寺の看主となり、天保14年に亡くなり、
清山寺にも墓がある。
神谷転は仙石騒動の裁きで一躍忠臣になったのだから、出石藩には
復帰できたであろう。親戚筋の旗本から復職の話もあったようだが、
神谷は「お家の内紛を明るみにしたことで、出石藩は五万石から
二万石取り上げられ、三万石になった。家臣も三分の一減らさなければ
ならない折、復帰はできない」と虚無僧に留まった。また体調も優れな
かったという。そして天保14年、船橋清山寺で亡くなったという。
ということは、目黒永隆寺の墓は?
神谷転の墓には側面に妻の法名も刻まれている。そして隣には兄夫婦の墓。
兄嫁は仙石左京によって殺された河野瀬兵衛の姉妹とのこと。
そもそも騒動の発端は、河野瀬兵衛が脱藩し、天領の生野銀山で
捕らえられたことからだった。身内の死が神谷転をして仙石左京への
恨みを増したのであろう。