現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津と長州の友好 その2

2015-08-22 23:09:18 | 会津藩のこと

禁門の変で長州が京から追い落とされてから4年後の慶応4年
(= 明治元年)、形勢逆転。薩長土肥を中心とする西軍が会津を
攻めた。その時、長州の村田蔵六(改名して大村益次郎)は、
「仙台・米沢など周辺の藩を落とせば会津は降伏するであろう」
と、会津への直接攻撃は避けるよう進言していた。会津を
攻めるよう決めたのは、土佐の板垣退助と薩摩の伊地治正治
である。

一ヶ月の籠城戦の末、会津は降伏し、藩士は猪苗代に監禁された。
その中に漢学者として知られた秋月梯次郎もいた。その秋月に
思いがけなくも、越後口の参謀だった長州藩奥平謙輔から一通の
私信が届けられた。秋月梯次郎は、以前萩に旅行し、萩の藩校
明倫館で、長州藩士を前に漢学の講義を行ったことがあった。
このときの聴講生の一人が奥平だった。その講義に感激したと
いう奥平謙輔は、猪苗代に幽閉されている秋月の心中を慮り、
一書をしたためた。しかし西軍参謀とはいえ、私信を会津藩士に
届ける自由はなかったのであろう。さてどうしたものかと思って
いる矢先、河井善順の名が出た。禁門の変の際に長州兵を救った
僧であるという。

そこで、奥平は善順に手紙を託した。厳しい検問をどうすり抜けた
のか、善順は秋月に面会して奥平謙輔からの一書を手渡した。
この手紙に感動した秋月梯次郎は「奥平に会いたい」と、善順の
下僕に変装して謹慎所を抜け出し、新潟まで逃走するのである。
脱走は、見つかれば即死刑である。無事秋月は新潟で奥平に面談
できた。そして「会津の将来を担う少年の面倒を見てもらいたい」
と頼みこむ。
善順は再び猪苗代に戻り、藩の重役と諮り、山川健次郎と小川享の
2人の少年を従僕として連れ出した。他に2人が別行動で脱出
したが、この2人は捕らえられ斬首されている。山川健次郎が
厳しい検問を潜り抜けて新潟まで脱出できたのは、まこと善順の
大胆剛毅な性格と幸運だったのだ。

そして明治4年、山川健次郎は岩倉使節団に随行して海を渡る
のである。妹の捨松も同船していた。


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