虚無僧はあくまで受身だ。ただ立って尺八を吹くだけで、
喜捨してくださる方を待つ。待つ身だが、これにも要領
がある。「お金お金、ちょうだいよ」と、あからさまでは
敬遠される。かといって、「全く、要りません、欲しがり
ません」の無欲では、相手も素通りする。ほどほどの“欲”
をどのように“気”で表すかなのだ。
これは、物を売ることと同じだ。お店に入って、全然売る
気の無い店員を見ると、「買ってやるもんか」となる。
逆に「買って、買って、これもあれも」としつこく迫られる
と、嫌気がさす。「買って欲しい」という気を発しつつ、
上手に商品の説明をして、顧客のニーズ喚起をし、自発的
に“買わせる”のがベテラン販売員だ。お客は“買わされた”
ではなく“自分で欲しい物を買った”という満足を得る。
「全く無心で吹いてます」と言うと嘘になる。無心ならば
山中で独り吹けばいい。人前で吹くこと事態、“欲”あって
のことだ。聞いて欲しい。気づいて欲しい。感動して欲しい。
だが、もっともっとの貪(むさぼ)りの心と、不足の心。どう
して入れてくれないの!これっぽっち?というような不満の
心を静めるのが修行かと、最近ようやく見えてきた。
喜捨してくださる方を待つ。待つ身だが、これにも要領
がある。「お金お金、ちょうだいよ」と、あからさまでは
敬遠される。かといって、「全く、要りません、欲しがり
ません」の無欲では、相手も素通りする。ほどほどの“欲”
をどのように“気”で表すかなのだ。
これは、物を売ることと同じだ。お店に入って、全然売る
気の無い店員を見ると、「買ってやるもんか」となる。
逆に「買って、買って、これもあれも」としつこく迫られる
と、嫌気がさす。「買って欲しい」という気を発しつつ、
上手に商品の説明をして、顧客のニーズ喚起をし、自発的
に“買わせる”のがベテラン販売員だ。お客は“買わされた”
ではなく“自分で欲しい物を買った”という満足を得る。
「全く無心で吹いてます」と言うと嘘になる。無心ならば
山中で独り吹けばいい。人前で吹くこと事態、“欲”あって
のことだ。聞いて欲しい。気づいて欲しい。感動して欲しい。
だが、もっともっとの貪(むさぼ)りの心と、不足の心。どう
して入れてくれないの!これっぽっち?というような不満の
心を静めるのが修行かと、最近ようやく見えてきた。