現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

桑名「六華苑」 (諸戸家邸)

2012-01-14 20:27:38 | 虚無僧日記
三重県桑名市の「六華苑」で「新春の調べ」があり
行ってきた。桑名は、愛知県から木曽、揖斐、長良の
三川を越えた対岸。旧東海道は、熱田神宮の近くの
「宮の渡し」から船で海上を行き、桑名の「七里の
渡し」に着く。その「七里の渡し」のすぐ近く。

また、桑名城も近い。ともに伊勢湾に面した景勝の地。
桑名城の跡は 今「九華園」という公園になっている。
「九華」と書いて「くはな」と読めるからだそうだ。

さて その「九華公園」の近くにある「六華苑」。
なぜ「六華苑」というのかは 聞きもらしてきたが、
大正2年(1913)、「諸戸(もろと)清六」の別宅として
建てられた大邸宅。敷地は 18,000㎡、約6,000坪。

洋館部分は、鹿鳴館の設計者、イギリス人の建築家
ジョサイア・コンドルの設計。

日本家屋や蔵、海津の高須城からの移築建物もあり、
明治・大正期を代表する貴重な文化遺産として、
国の重要文化財に指定されている。

「諸戸」家は、信長の長島一向一揆制圧の頃から、
長島の庄屋だった。幕末、塩の売買に失敗して家
屋敷を失い、桑名に移住してきた。そして2代目
諸戸清作が 米の売買で成功し、酒田の本間家を
抜いて日本一の大地主になったという。

そんな大邸宅。大広間も50畳ほどある。そこで
琴・尺八の演奏。この冬一番の寒さながら、客席も
5~60人ほどだが、結構 満席となった。日本家屋で
畳に障子と襖だから、音は響かない。だが、こういう
シチュエーションの中では、演奏会という気負いも
無く、周囲に溶け込む音で、聴いていても 心地
良かった。


センター試験に「市川房枝」

2012-01-14 19:37:25 | 虚無僧日記
私が学生の頃は「歴史は100年経たないと歴史学の対象には
ならない」などと云われ、日本史は「幕末」までだった。
今日のセンター試験「日本史」では明治、大正、昭和も
戦後まで出題されている。

「市川房枝」も出たようだ。今の高校生が「市川房枝」を
知っているとは思えない。そこまで教科書で覚える事
なのかと驚きである。

私の祖母は、福島県会津若松市の「婦人会会長」を務め、
「市川房枝」に傾倒し、婦人会の大会などで、よく上京し、
東京のわが家に泊まった。それで「市川房江」の話は
よく聞かされていた。


市川 房枝は、1893年〈明治26年〉愛知県中島郡明地村
(現在の 一宮市)に生まれる。愛知県女子師範学校
(現在の愛知教育大学の前身)在学中に、「良妻賢母教育」に
反対して、同級生と授業ボイコットを実施し、後の婦人運動家
としての活動を予感させた。

1917年(大正7年)名古屋新聞(現在の中日新聞)の記者となり。
1919年(大正8年)に平塚雷鳥らと日本初の「婦人団体新婦人協会」を
設立。

戦後、1945年(昭和20年)「新日本婦人同盟」を結成し会長に就任。
12月17日には衆議院議員選挙法改正で 「婦人参政権(男女普通選挙)」が
実現した。

1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に東京地方区から
立候補し当選。通算5期25年務めた。組織に頼らず個人的な支援者が
手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」と
まで言われた。市川は自らの選挙手法を他の候補者にも広めようとして
さまざまな選挙浄化運動に参加した。私の祖母もその支援者の一人
だった。

菅 直人(前首相)が「1974年の参議院選挙で、市川房枝の選挙事務所
代表を務めたことで、政治に関わることとなった」と言っているが、
市川房枝の方は、菅直人のことを 快くは 思っていなかったようだ。