枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

山茶花満開

2018年11月14日 | Weblog

 剪定をしたので、心配していた山茶花が、それはたくさんの花を咲かせた。枇杷葉の傍で、窮屈そうな場所なので、少し遠慮するように咲く。祖母が好きだった花色は、紅の方であるが、植えてあるのは白だ。尤も、夏椿が元に戻ったもので、山茶花で買ったのではない。夏椿・沙羅双樹。

 何だか、急に寒くなって冷え込む。季節にすればこれが普通で、ここ数日の日中の気温が高過ぎただけで、異常とも言える温かさに、身体が慣れてしまっていた。こういう時の体調管理を怠ると、風邪を引いてしまうので注意。取敢えずは、外出を控えることで、嗽や手洗いをしておこう。

 昨日は、図書館に行ったくらいで、沢田研二さんの映像をあちこちと観ていた。派手な演出をするのは、観客の前だということを知って、そりゃ当然のことだろう。と思ってしまう。まあ、人気の為せる故だが、世間が放っておかないのも、気の毒な気がしてしまい、親しみが湧いてくる。

 タイガースの解散時の、チケット代が¥1600には驚いたが、あの頃のお金の価値から言えば、今の¥8000にはなるのか?東京までの運賃と、宿泊代を入れては、貧乏を恨んだもので、無論一人で行く勇気もなかった。今なら行けるが、復活は、あれが一度きりで、今後は有得ないだろう。

 時間は駆け足で通り過ぎるし、タイムスリップも不可能で、唯一、動画をみるくらいか、DVDを購入かである。それも子ども等にとっては、何の価値もない物で、廃棄処分になるのは間違いないこと。鉄腕アトムも、エイトマンも、わたくしだけの愉しみなのだ。誰に貰ってもらおうかな。

 時間は戻らないし、当時の状態である訳もなく、今更のように懐かしむ。でもそれでいいんだと想えるよ。長髪が悪しざまに言われて、サリーが答えた言葉がよかったね。ロング・グッパイの歌詞にもなっている、僕等はきれいな大人になれたかな。大切なのは、子どもの手本となれること。

 教育とはこうだ。ではなく、人間としての生きざまを学んでいくことだろう。そういう手本になれる自分でありたい。遅まきながら、心に響いた。光と影は対のものだが、得てして、光の部分ばかり追っていく。闇を見つめていくことこそ、光の中に居られることなのに、気づかぬものです。

 あん をプレゼントした方から、3時間で読んで泣けてしまった。と感想をもらった。普段には、活字を見ただけで寝てしまうのに、もう一度読んでみます。とも言われた。ドリアン助川さん、活字になるのに20年かかったけど、こうして読んでもらえてよかったですね。あちこち薦めます。

 松本清張氏の、砂の器は、加藤剛さんの主演が気迫で、泣くよりも、差別への怒りにも無情にも、心が潰れていった。生きていくことの惨さを、少年は誰よりも深く知り、並み居る者の比ではなく、チャンスを見逃さずに来たのだろう。自分がハンセン病であったなら、どうしていたであろう。

 晩夏の空にそびえる、百日紅。今年は、余りにも高くなったので伐った。枯葉が落ちてしまった。


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