私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

人はみな必敗の戦士

2019-07-27 22:28:22 | 日記・エッセイ・コラム
 末期患者としてベッドに寝ている妻のそばに座って、長い時間あれこれの思いに沈むようになってから、頭のどこかに眠っていた「人はみな必敗の戦士」という言葉が心に蘇ってきました。誰の言葉なのか忘れてしまっていたので、ネットで調べてみると、小説家の檀一雄の「埋葬者」(『檀一雄全集 第一巻』 P358-359)の次の文章が出典のようです:
「そうだ。俺の生命に帰結はない。当然のことだ。が、あり能う力をふるって、俺の中の細胞の一片に至るまで、崩壊を防げ。武装せよ。満目荒廃の中に、この帰結のない生命のまばゆいばかりの一瞬の光輝をつくれ。
 それがよし幻影であろうと、虹であろうと、過ぎてゆく長大な時間の中の必敗であれ。
 無限のものが有限のものを翻弄する日の手口に乗るな。必敗の戦士であるからこそ、有限の生命を鍛冶して、この帰結のない戦いをいどめ。」
これが私(藤永)の心中にある「人はみな必敗の戦士」の出所であるとすると、「人はみな」の部分が欠けています。誰かがこの部分を付け足し、私はそれを孫引きして記憶に収めていたのでしょう。
 永六輔さんの著作『普通人名語録』には、 
「私は人生に負け続けているなァとずっと思っていたのよ。そしたら檀一雄さんの言葉で『人はみな必敗の戦士である』っていうのを見つけちゃって・・・。なんだか、ホッとしちゃった」
とあるようですし、
 竹内一郎という方は「檀一雄という小説家は「人みな必敗の戦士である」と言っています。人はいつかはみな必ず負けるのだ、と。全勝で生きる人はいないのですから、「出世競争に勝つのだ」というような勝ち負け意識にとらわれた生き方は肯定できません。」
と書いています。
 私が大正生まれの老人であるからでしょう、私の心中では、この言葉は「人はみな必敗の戦士なり」と響きます。その響きは、檀一雄の作家魂の響きとも、他の二人の方の受け取り方とも違います。それは、鎮魂の手向け言葉のように響くのです。悲壮な響きではなく、慈悲のこもった慰めの言葉のように、私には聞こえるのです。私が三途の川の岸辺にたどり着き、罪業の故に渡りなずむと、どこからか地蔵菩薩が現れて、この言葉を口にしながら、私を助けてくれるのでは、と思ったりもします。滑稽珍妙な幻想ですが。
 妻は点滴と胃瘻の両方で必要な栄養と薬の投与を受けています。殆どの時間、目を閉じて無言です。私はそのそばに座って、妻の一生、私の一生のこと、それから、父や母の一生、姉や兄の一生、さらには、すでに鬼籍に入った知人親友たちの一生についての私の記憶をゆっくりと辿る毎日を送っています。
 不真面目に生きている人間など一人もいない、誰もが必死で生きているのだ、と私はつくづく思います。悪人も救われてよいという宗教的思想が出てくるのは当然です。檀一雄の言葉も、運命に戦闘的に立ち向かう雄叫びではなく、檀一雄という大きく優しい心が産んだ人間愛の言葉ではありますまいか?
  
 私の出身校、九大理学部の物理教室の先輩に、松倉保夫という方がいます。私より7歳年上の1919年東京品川生まれ、2002年10月に亡くなりました。私が松倉さんを初めて知った頃、彼は高性能の遠心分離機の設計製作に従事していましたが、「面白いものを見せてやる」と言って研究室のファイル・キャビネットの引き出しから取り出したのはニジンスキーというバレエダンサーの写真でした。私は全く知りませんでしたが、ヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1950)、バレー『牧神の午後』の演技で世界を震撼させた伝説のダンサーです。写真はその牧神の姿でした。しかし、私の心をしたたかに打ったのは、ニジンスキーについて、ダンス(舞踊)芸術について語る松倉さんの異様なほどの熱っぽさでした。おかげで、まず古典バレーの、ヌレエフ、フォンテーンの、カナダではカレン・ケインの舞踏に魅せられ、ポール・ヴァレリーの『ドガ・ダンス・デッサン』を読み、やがては、武原はんの『雪』に心を奪われ、最近ではDVDで観世寿夫の『猩々乱』の舞を楽しむところまで行き着きました。それに加えて、別の親切な方の導きもあって、マイケル・ジャクソンの芸のすごさも少し分かるようになってさえいます。これすべて、元を辿れば、松倉保夫さんのニジンスキーのおかげです。 
 カタロニアの建築家アントニオ・ガウディを語る日本人で、もし松倉保夫の名前を知らなかったら、それは偽者です。松倉さんの後半生でのガウディへの傾倒ぶり、それは大変な見事なものでした。遺著『ガウディの装飾論』に含まれる長文(28頁)の解題の中で、神子久忠氏は「松倉氏は九大で超遠心分離機の研究を行っていた頃、フランスの美術誌『L’oeil』(1955年2月)に掲載されていたガウディ作品に惹かれる。ガウディとの初めての出会いである。・・・ 将来を嘱望された物理学者が、なぜそれに強い衝撃を受けたかはわからない。」と書いていますが、当時の松倉さんを知る私には何の不思議もありません。松倉さんはそういう人だったのです。40歳近くなってから、カタロニア語の勉強を始め、バルセロナ大学のガウディ講座での研修に参加しました。その松倉さんのフィーバーが私に伝染しないはずはありませんでした。その上、私の理論化学の分野で、たまたま、カタロニア人の親友が出来て、私も、サグラダ・ファミリアやグエル公園をはじめとするガウディ“名所”の数々を幾度も訪れることになりました。
 1981年のことだったと思います。バルセロナ滞在中の松倉さんから『La Folia de la Spagna』と題する一風変わった音楽CDが送られてきました。松倉さんには自分が好きになったものをすぐに私にも味合わせてやろうという、私にとって、大変有難い癖がありました。『スペインのフォリア』、フォリアとは古く中世末期にポルトガルに発し、イベリア半島に広まった三拍子のダンス、舞曲の名で、言葉の原義には「気のふれること(狂気)、馬鹿げたこと」が含まれます。旋律は単純ですが、心に染み入る不思議な魅力があり、多くの作曲家がこのテーマを使って変奏曲を残しています。コレッリやマレーのものが有名で、これらを含む8つの作品のとても良い音楽CDにJordi Savall の『LA FOLIA 1490-1701』があります。ジョルディ・サバールもカタロニア出身の優れた芸術家の一人です。松倉さんがくれたCD の音楽もこの長い伝統に属しますが、それが含む変奏曲的音楽はGregorio Paniagua という人が編曲指揮したもので、大変独創的です。一聴の価値があります。CDジャケットの絵はゴヤの有名な『砂に埋もれる犬』です。私も何度か訪れたマドリッドのプラド美術館に所蔵されています。ゴヤ晩年の作品で題名はつけませんでした。ご存知ない方はインターネットで見てください。流れ来る砂に首まで埋もれた犬は懸命に上を見ています。永遠の時という流沙に、やがて犬は埋没して行くのでしょう。私の想いはこの絵の前で『人はみな必敗の戦士なり』という言葉に戻って行きます。フォリアの調べは、私の心の耳には、まるでこの言葉へのこよなき伴奏音楽のように聞こえてきます。松倉保夫さんも必敗の戦士の一人、あくまでも心優しく、そして、竹を割ったようなチャキチャキの江戸っ子でした。R.I.P.

藤永茂(2019年7月27日)
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土より出でし土へと帰る、地に呪われたる者たちへ (海坊主)
2019-07-28 13:33:03
久しぶりにコメントを書きます。藤永先生、心に深く染み入る記事をありがとうございました。

人生を振り返ると「あの時こうしていれば良かった」「その人のあの態度はそういう意味だったのか」「何故、あのとき気付かなかったのだろう」と悔いが残ることばかりです。「悔いの無い人生を送りたい」と強く願うものの、その様に生きることはおそらく不可能なことでしょう。「悔い」や「無念」の積み重ねもその人の人生の一部であって、「生きている」ことをその人に実感させる苦いスパイスなのかも知れません。

誰一人の例外もなく私たちは有限な命を有する者です。平知盛が入水前に発した『見るべき程の事をば見つ』という言葉に、私は『人はみな必敗の戦士』に近い印象を受けています。上手く行った事や良い面だけでなく上手く行かなかった事や悪い面も一切合切ひっくるめてのその者の「人生」であって、程度の違いはあれ私たちはその両方を一生の間に見聞き体験して土へと還る存在だと思うのです。

「土より出でし土へと還る」。うつろいゆく存在の私たちは『必敗の戦士』そのものであると言えるでしょう。ですから皆そういうものだと諭されたいのですね、誰しもが。そして安らぎたいのでしょう。

「フォリア」についての文章からフランツ・ファノンの『地に呪われたる者』を想起しました。フォリアという言葉の原義に、宗主国によって強く抑圧されていた植民地住民の緊張が一気に弾けとんで大饗宴へと転じてゆく「踊り」と「憑依」がイメージされたのです。彼らは『地に呪われたる者』ですがそれは私たちも同じです。いずれは土へと還る存在。それまでは地上を彷徨い、戸惑い、苦しみ、喜び、怒り、叫び、慈しみ、悲しみ、そして嘆くのです。

ゴヤの『砂に埋もれる犬』はそんな私たちそのものの姿です。砂は我々の還るべき土と時のうねりを想起します。その時代に爪痕を残した者たちもいずれ土へと還るときがやってきます。その者を知る者たちもいずれ地上から去り、残されるは人間の物語としての『歴史』。その歴史ですらどのように作られて変容してゆくのか私たちは知っています。後世に紡いでゆく者たちがあってこその『歴史』です。

『人はみな必敗の戦士』であることが私たちにもたらすもの。どのように生きるのかは各人の自由、自由であるからこそ自身がしたいことすべきことを為すべきではないかと私は思います。自らの不完全さ、世の無常さ、不公平・不公正さを知りつつ前向きに強く生きていく。悔いと無念さを抱えつつ強く生きてゆくのが人間なのだろうと思います。

アントニオ・グラムシの言葉に『理性は悲観的に。しかしながら、行動(意志)は楽観的に』があります。まさにそう思います。この言葉に通底するのがエルネスト・ゲバラのあの言葉、『もし私たちが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、出来もしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう。「その通りだ」と』。

いずれも私の愛する言葉です。『必敗の戦士』に勇気を与える言葉です。
Unknown (FP eKiesu)
2019-07-29 00:19:48
私もまた、人の生死について考えさせられることが多くなってきています。

人は必ず死ぬのであるから、「人はみな必敗の戦士」であるのでしょうか。もしくは間違いは避けられないから必敗の戦士なのか。

間違いのない完璧な存在にはなれない、つまりはそういう存在には勝てないから必敗の戦士か。

そういうことを考えさせられました。

そして、人のなす事の美しさに心震えるという体験のありがたさについても再認識させられています。
人間存在とは (一読者)
2019-08-05 12:40:50
時々、先生の深遠で博学な思想と御知識を、爪の垢として煎じて飲みたいような気持で拝見している田舎者です。そして、過去の御記述「オバマは、稀代の con man」との手厳しい御批難などの文章により、米国の強硬な世界覇権争いに眼が見開かされました。先生の御著書の1つ『アメリカン・ドリームという悪夢』も、私も確かに購入致しております。すみません、まだ読んでおりませんが。

ベッドに寝ておられる奥様のおそばで、思いに沈むようになられた中、「人はみな必敗の戦士」との言葉、お察しします。また、奥様の一生、先生の一生、それから御尊父や御兄弟、すでに鬼籍に入られた知人・親友の皆様のことで記憶を辿られる日々も、いまだ還暦を過ぎた鼻タレ小僧程度の年齢の私も、少しは理解できる気が致します。

ただし恐縮ですが、人は皆 泌敗の戦士の言葉に対して、私は意義を申し上げたく思います。他人と自分を比較し、他との相対の視点の中では、一面、その通りでありましょう。御承知の通り、今年も高校野球大会が、華々しく報じられますが、あの甲子園に出る50程のチームは、各県で勝ち上がり甲子園で最終決着で勝者を決めるのですが、その勝った1チームに属する者以外、全員が負けた野球高校生です。野球以外で世間を見渡してみても、どの分野ででも、敗者の方が圧倒的に多いのが事実です。人間はどうせ敗者だ、それは真実です、しかしだからと言って、人生に意義がないとか、ど~せ人間は死ぬんだから、と打ち沈む理由があるでしょうか。

機械でもそうです。どんな精巧な最新型の機械でも、やがて老朽化します。そうだからと言って、「機械は皆 故障し廃棄される運命の道具」などと、あたりまえのことを言って、それを取り立てて問題にする必要があるのでしょうか。その性能を最高に発揮させるように、工夫し整備し動かすことで、人々の幸福に役に立ってきたはずです。役目を終えるその時期は、機械によって、また使用する人の扱い方によって異なりますが。

奥様は、そうして先生がおそばにいらっしゃるだけで、先生の存在を感じておられるでしょうし、私には、奥様は幸福なお方だと思えます。いつの日か、やがて、現世でのお役目を終える時がこられる際にも、最後まで、先生がおそばにいらっしゃったことが、奥様にはおわかりでしょう。人間は、断じて自殺してはなりません。しかし、その日が来るまでは、静かに、生き続けること、それ自体に意味があると思います。

申し上げたいのは、人間存在は、この肉体だけではないということです。20歳代で異常な体調不良のため学問を断念し、人生で挫折し、時に辛酸をなめて生きてきた私が、1つだけ確信をもって申せるのは、人間は、墓場の向こうにも人生があるという事実です。御承知の、「エネルギー保存則」は、人間存在でも該当します。熱を持ち、活動し、思案するエネルギー体は、肉体が崩壊しても、その後も別の形態となって、依然として個性を持って存在し続けるのです。たとえば私共が現世で、過去、心温まる親交を結び、相手に善意で接した友人は、その後、数十年後に出会えば、先方からの心温まる親近感で接してくれるものです。逆に、もし今生で、自己中心的な生活をし、他に迷惑をかけ続けた者は、先に申した、墓場の向こうの世界で、それ相応の境遇に自分の身を置くことになります。

私は、特定の宗教を推薦するつもりは毛頭ありません。しかし、上記の人間存在の真実は、身を持って体験したことです。生きるものは知らず、死せるものは語らず、です。
人はみな泌敗の戦士などと言う言葉は、人間存在には無意味です!


悲しみがあって喜びがある (山椒魚)
2019-08-05 19:25:08
今、先生の「トーマスクーン解体新書」のブログで、「自然法則」の存在の必然性が語られていますが、この「必敗の法則」も
大きく言えば自然法則の一部でしょうか。しかし、この必敗の法則がなく、人の命が永遠であったなら、人は子供を必要としなくなるでしょう。人間の命に限りがあるから愛し合う喜びがあり、憎しみ合う悲しみもあります。私の父が癌になり、病院に見舞いに行って帰るとき、振り返ると窓のそばに立ってずーっと私を見ている姿がありました。又、私が人生航路に迷ったとき、何も言わずに支えてくれた母がいました。又、貧しく生活が苦しいときにもそばで支えてくれた妻がいましたし、子供が生まれたときの大きな感動を持ちました。又、高校時代や大学時代の苦しいときに暖かく交誼を結んでくれた友がいました。
 喜びと悲しみのまだら模様の中で人は生きてゆくもだと思います。功なり名遂げた豊か人生もあるかとは思いますが、市井の片隅で人生の敗残者と生きてきた私にとって、死がたとえ必然のものであり、必敗が人生の法則であったとしても、人生の敗者にも喜びがあり、その喜びをかみしめて進んでゆきたいと思うこの頃です。
 個人的なつまらない感想文でした。
 
奥様の想い (私は黙らない 改め セコイアの娘)
2019-08-06 03:59:03
私が奥様だったら、最愛の人がベッドわきにいてくれるだけでありがたいです。それで十分です。勝ちとか負けとか、関係ありません。(そもそも勝ち負けって何だろう。)
私も最後の時には、共に人生を戦った戦友(連れ合い)に黙って隣にいてほしいです。
余談ですが、ハンドルネームを改名しました。インディアン悲史の中で、唯一といってよい心温まる逸話から拝借させていただきました。
人間存在とは_追伸 (一読者)
2019-08-09 10:30:24
前回投稿させて頂いた私の文章に、日本語使用法として不備な点・誤字など散見しますが、御容赦頂くとして、本日は、性懲りもなく追加投稿を書かせて頂きます。人間存在の本質は、誰にとっても重大問題でから。

ある意味、真実を述べている書物を一つ推薦させてください。
それは、『バガヴァッド・ギーター』です。私、特に、ヒンドゥー教を好きではありませんが、本書は、人が何歳になっても、どう生きるかを諭してくれる書物と確信します。
この日本語訳は、古くは中央公論社から宇野惇 氏の訳本が出ておりました。また近年、田中嫺玉 氏の訳本が出され好評のようです。
Unknown (近藤英一郎)
2019-08-09 18:09:22
今回の 深く心に沁み入る記事、大変有り難く拝読致しました。ありがとうございました。
人はみな必敗の戦士。そうであるならば、私が去る時にも 救いは来るのでしょうか。
久しぶりで フォリアを聞きました。有り難うございました。
語源まで知りませんでした。似たようなスペインの舞踊 シャコンヌの語源も、
バスク語で<ひどい>だそうです。
以前、このゴヤの犬とそっくりの黒犬と暮らしておりました。
シッポを振って、迎えに来てくれるのでしょうか。
次の世でも、またボール遊びに付き合えと言うのでしょうか。。
埒もあかぬ事を書きまして、申し訳ございませんでした。
暑さ厳しきおり、お身体 おいといくださいませ。
必敗の戦士たることを問うもの。 ( 眠る葦 )
2019-08-10 17:46:14
  ちょっと必要があって、「意味」とは、と検索をしていたところ、出てきた Wikipedia「人生の意義」にフランクルの言葉が牽かれていて目を惹かれました。

 「・・・人間は人生から問われている存在である。人間は生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。・・・」(『死と愛』みすず書房、1961年)

 藤永先生、人はみな必敗の戦士、ではないだろうと思います。檀一雄の言う、「無限が翻弄しようとする有限」という事態に立ち向かう者のみが必敗の戦士たり得るのではないでしょうか。
 人生、世界、存在からの問いに真っ直ぐに答えようとする者だけが、無限に対する、その限りでは勝ち目のない戦いに赴くように思えます。

 それ以外の人は、いわば有限に翻弄される有限という、スノビッシュな戦いに終始します。それが世界ないし世間であると思い込んで。局面ごとに見れば、勝つことさえできます。
 ちなみに私は職業人として、負けることは許されませんでした。すなわち、勝つ戦いだけをする、どのようなかたちであれ、勝つように戦う、それがあたえられたシゴトでした。そのじつすべては、持てる他人のための戦い。結局は投げ降りたにせよ、屈辱的な、恥ずべき職業でした。
 ですから私は、自分の人生を持つことができませんでした。いま、気の遠くなるようなハンディを負って歩いています。
 
 藤永先生がそのお一人である必敗の戦士が、すすんで人生からの問いに答え、帰結を計算することができない戦いに気負いなく身を置いてこられたことに心から敬意を表します。
 そうであったことが、有限から無限への旅のなかで深い鎮魂の響きと化すでしょう。
敬意はむろん。 ( 眠る葦 )
2019-08-10 19:24:51
 奥さまに。

真火 (田布施 蟻巣)
2019-08-15 08:41:25
真火

「妙法蓮華経」(法華経)には、「南無妙法蓮華経」と「唱えれば」功徳がある、或いは救われる、或いは仏へとなれる、或いは御利益がある、などというような事は「一切書かれていない。」
「南無」とは頼みます、帰依しますという意味であり、南無妙法蓮華経とは妙法蓮華経の教えに帰依しますという意味だそうですが、その「妙法蓮華経」自体には「唱えろ」と書かれていないような事ばかりを唱えていて、果たして何処が「妙法蓮華経」の教えに帰依しているのか、という話である。創価学会をはじめとした日蓮系の宗教では「南無妙法蓮華経」と只管に唱えるべきだとされていますが、しかし妙法蓮華経の教えに従いますと言っておきながら、実際には全く妙法蓮華経の教えとは異なる事ばかりを行っているのですから、「南無妙法蓮華経」と唱えるべきだという日蓮の教えは、全く以って支離滅裂な、中身のない口先だけの教えであると言えます。創価学会をはじめとした日蓮系統の宗教団体では、仏や神や祖霊などではなく「南無妙法蓮華経」という「文字」を拝む。これは例えば妙法蓮華経の教えを司る、或いは教えを守る仏や神や霊などではなく、正真正銘その「文字自体」を拝んでいる。何故ならば日蓮が仏や神や霊を拝む事を禁じたからであり、そもそも彼らが仏や神ではなく南無妙法蓮華経という文字を拝んでいるのもこの日蓮の教えの為である。先に書いたように妙法蓮華経には南無妙法蓮華経と唱えろとは一切書かれていない事と同様、「南無妙法蓮華経」という文字を拝めというような事も一切書かれてはいない。彼らは南無妙法蓮華経という文字に拝む事で妙法蓮華経の教えに帰依出来ているとでも思っているようだが、やはり妙法蓮華経に書かれていない事ばかりを行っていて何処が帰依出来ていると言えるのかという話である。仏や神を拝まなくても妙法蓮華経の教えに従っていれば仏や神は勝手に助けてくれると日蓮はほざいていたそうだが、その日蓮の教えの通りならば妙法蓮華経の教えに従っていない彼らは仏にも神にも助けて貰えないという事になる。

しかも妙法蓮華経自体には如来神力第二十一などで仏や菩薩に拝めとしっかりと書かれており、仏に拝むなという日蓮の教えは妙法蓮華経に反した全くのデタラメである。また他にも数多の仏に「会い」、数多の仏を「供養」して仏となる(覚りを得る)とも頻繁に書かれており、これは創価をはじめ日蓮系宗教の信者達がいかに妙法蓮華経の教えに従いますと口先で言っておきながら全くその中身を知らない事の良い証左である。文字自体を拝んでいるというその間抜けさの通りに、また先に書いたように妙法蓮華経自体に仏や菩薩に拝めと書いている通りに、神仏に拝まずに教えにのみ従っていればいいという日蓮の教え自体が間違いである。そんな事は妙法蓮華経にも書かれてはいない。こんな支離滅裂で矛盾に満ちた日蓮の教えに従って南無妙法蓮華経と唱え、またこの文字に拝み続けた所で、助けてくれるとしてもそれは悪霊や悪魔の類ぐらいである。日蓮がどういう意図の下で仏や神に拝む事を禁じさせたのか、その事についてよく考えられた方がいいだろう。南無妙法蓮華経という言葉自体に力があるなどという事を創価などは言っているが、噴飯ものの苦しい言い訳である。そんな事を言うなら元々のサンスクリッド語や中国語で唱えたらどうなのかという話になるが、それについても妙法蓮華経に帰依しますという意味であるならどんな言語で言ってもいいと言い出すのだろうが、先に書いたようにその妙法蓮華経にはそもそもそんな事は書いていない。創価学会員などが只管何時間も南無妙法蓮華経と唱え続けている通り、彼らは只管喧しく題目やら経典やらを唱え続ける事が良いと思っているようだが、妙法蓮華経には「瞑想」によって悟りへの道を開く、などの旨の事も書かれており、実際に釈迦が悟ったのは瞑想中の事であり、彼らの如くに口喧しく何時間も何かを唱え続ける事は「瞑想」とは全く程遠い行為であると言えるだろう。まして彼らが唱えているのは仏典には全く「唱えよ」と書かれていないような意味の無い言葉なのだから。尚、これは仏典などを声を出して説く事や読む事自体を否定している訳ではない。妙法蓮華経には確かに(あくまで仏典において)最高の教えであると書かれていますが、日蓮が言うような他の仏典の教えは知らなくてもいいという事や誤りであるというような事は何処にも書かれていません。
創価などの日蓮系統では日蓮の教えと妙法蓮華経の教え以外は「謗法」と言って邪教の教えだとしていますが、妙法蓮華経に帰依すると言っておきながら全くそれに反している日蓮の教えこそが「謗法」であり、また妙法蓮華経には自らを悟ったと思い込み誤った教えを説く「高慢自惚れの僧」の事が書かれていますが、全くこんな支離滅裂で中身の無い教えを只管に広めようとする程に自らの正しさを信じて疑わない日蓮とその教えに従う信者達はまさしくこの「高慢自惚れの僧」である。創価などは僧ですらないが、僧籍にすら入らずに自らを正しいと信じ込んでいる分だけ僧よりも彼らの方が自惚れが強いと言えるだろう。有名な創価学会の池田大作は名前も知らないような外国の大学などからやたらと賞を送られているそうだが、全く以ってその思想や活動などの有益性について語られる事が創価学会以外の世間一般において皆無である通りに、その溜め込んだ莫大な資産の額と愛人の数に比してもその思想や活動には語れる程に中身がなく、まさに「有名無実」、形ばかりで中身の無い日蓮の教えの象徴とも言えるだろう。私は「妙法蓮華経」自体を否定するつもりはありません。ただ「南無妙法蓮華経」という文字をはじめとした日蓮の教えを否定しているだけです。日蓮は念仏を否定しており、私はてっきり「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば救われるというような、インスタント食品のように手軽で信者を簡単に獲得する為に考え出されたかのような薄っぺらい考えと心性を否定しているのかと思いきや、自身は南無阿弥陀仏をパクった南無妙法蓮華経などという頭の弱い「念仏モドキ」を念仏ではなく「題目」だなどと屁理屈を捏ねて言い換え、こればかりを信者に唱えさせているのですから、仏を拝むなと言って仏自体を軽んじるその教えと併せて、どうやら日蓮は単に阿弥陀仏などの仏自体が嫌いであったり、念仏を唱える浄土宗や浄土真宗の信者を奪おうと思っていただけであったと伺われます。仏を嫌い、また信者をつくる事にだけ異常な執念を燃やしていた日蓮について、私にはどうにも悪霊に取り付かれて半ば気が狂い、権力欲だけが暴走して常軌を逸してしまったという類の人間であるように思えてなりません。

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