私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

『闇の奥』の読み方(1)

2007-07-04 09:12:12 | 日記・エッセイ・コラム
 ガストン・バシュラール(1884-1962)はフランスの知的巨人で、科学哲学者で詩学者、と紹介されるのが普通ですが、バシュラール自身は「私は一人の本読み、ただそれだけ」としていたようです。これが謙遜の言葉ではない所に、この読書の巨人、独学の巨人の茫漠たる魅力と凄さがあります。しかも、バシュラールは単に飽く事を知らない本読みであっただけではなく、常にペンを手に持って本を読む「物書き」でもありました。数多い著作の殆どは、彼自身の読書体験のライブ・リポートのようなものです。例えば、彼の科学論を読むと、相対性理論や量子力学を本格的に学び取るために経験したバシュラールの苦闘の息づかいに直に触れる思いがします。
 相対性理論や量子力学が出現したことで、現代の科学者は、物の考え方について、普通の人々とすっかり違ってしまったことをバシュラールは強調しますが、それを「(昔の)科学者はコンラッドのいう意味での「われらの一人」であったが」と彼は表現します。コンラッド読みならば必ず知っているコンラッドのキーワード「one of us」に、科学論の文章の中で突然お目にかかる--このあたりにバシュラールの魅力の一つがあります。
 バシュラールは詩や小説について沢山書いていますが、自分を文学批評家、文学理論家とは考えていませんでした。読むという行為と、批評するという行為をはっきりと区別していました。批評家も「ペンを手に持って」読むわけですが、バシュラールは、前もって固めておいた観念を持って文学のテキストに近づく批評家に我慢がならなかったようです。その固定観念でテキストを解釈し、評価すれば、結局の所、テキストそのものを読むことに失敗するとバシュラールは考えたからです。ではどんな風に読めば良いのか? シェリーの「Prometheus unbound」(縛を解かれたプロミシュース)を例にとれば、「社会的正義を求めるシェリーの要求はすべて彼の作品の中に息づいている。しかしながら、その想像力は--その内に秘められた力、あるいは、その動きについて語るにしろ--如何なる社会的な傾倒からも常に完全に独立している。実際、「Prometheus unbound」の真の詩的な力は、如何なる種類の社会的象徴とも、絶対的に、何の関係も無いと言い切ることが出来る。」とバシュラールは書いています。
 こうまではっきり言われてみると、チヌア・アチェベの影響のもとで小説『闇の奥』を読んだ私などは、しっかりと反省してみる必要があります。「この小説が、自分には、まだ読めてはいないのではないか?」 これまで、もう一年以上も、『闇の奥』をめぐるあれこれの想いを書き綴ってきた私ですが、未だにこの不安を振り切ることが出来ません。バシュラールのいう意味での本当の「本読み」の方々のご教導をお願いします。

藤永 茂 (2007年7月4日)


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