私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ダニエル・エルズバーグの笑顔(2)

2021-05-12 12:57:07 | 日記

 “Well, here my wife of 50 years here now being married and being with her, lying with her at night is heaven on earth.” 「50年連れ添った妻と夜一緒に寝る、これがこの世の天国」というダニエル・エルズバーグの言葉に焼き餅を焼いているのではありません。九十の齢にもなってオノロケもよいところだと言いたいのでもありません。人は、人を愛すること、人に愛されることによって、ただそれだけで、至福の時空を持ちうる、と言いたいのです。しかし、ただこれだけ言っても、何だ、陳腐なことを言う、と思われる方が多いでしょう。少し開き直って、私が何を言いたいのかの説明を試みます。

 原爆の父と呼ばれる米国の理論物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、正しくは、原爆の助産婦と呼ぶにふさわしい人ですが、普通、とびきり明晰俊敏な頭脳の持ち主だったというイメージが定着しています。しかし拙著『ロバート・オッペンハイマー』には「愚者としての科学者」という副題を付けました。物理学が原爆を生み、その実戦使用に賛成してヒロシマ・ナガサキの惨劇を招来した事を、自分の心の中で処理しきれず、オッペンハイマーは、内的には、死ぬまでオロオロ歩きを続けた人間だったと私は思っています。

 ジョセフ・マッカーシーの「赤狩り」旋風に煽られて、1954年、オッペンハイマーは公職追放の処分を受けますが、CCF(Congress for Cultural Freedom) という表向きは文化活動を装った会議組織を裏で操っていたCIA(アメリカ中央情報局)は、国際的知名度の高いオッペンハイマーを、CCFの顔の一つとして、利用することを続けます。つまりソ連に対する冷戦の文化戦士の役目を当てがいます。その頃のオッペンハイマーが、CCFの活動に関して、「愛(love)がない」とか、「お互いに愛さなければ(love one another)」とか、宗教的にも響く漠然としたことを書き綴り言い続けるのを批判して、高名な実存主義哲学者カルル・ヤスパース(ハンナ・アーレントとの40年間にわたる師弟交友関係は有名)は、“In such sentences I can see only an escape into sophisticated aestheticism , into phrases that are existentially confusing, seductive, and soporific in relation to reality. (そうした文章において、私はただ詭弁的な耽美主義の中への逃避、現実との関連において、実存的に混乱した、人を惑わす催眠的な言い回しへの逃避しか見ることができない”と書いています。当時、才媛として名を挙げていた小説家のメアリー・マッカーシー(ジョセフ・マッカーシーの縁者ではない)は、CCF関連でオッペンハイマーと食事を共にしたことがあり、彼の“LOVE”についてのお説教にうんざりして、友人関係にあったハンナ・アーレントに「オッペンハイマーは頭がすっかり狂ってしまったことが分かった」と手紙で書き送り、“I thought the word ‘love’ should be reserved for the relation between the sexes.”とも言ったようです。

 さて、ロバート・オッペンハイマーは「愛」という言葉を持ち出して、何を言いたかったのでしょうか? この問題の物理学者については、上の例に見られるように、批判的な評言が多いのですが、私は、愚者としての物理学者の立場から、オッペンハイマーを弁護したい気持ちに駆られます。彼を論じる場合に、私の知る限り、引用されたことのない彼の重要な発言の一部をお目にかけましょう:

“We are not only scientists; we are men, too. We cannot forget our dependence on our fellow men. I mean not only our material dependence, without which no science would be possible, and without which we could not work; I mean also our deep moral dependence, in that the value of science must lie in the world of men, that all our roots lie there. These are the strongest bonds in the world, stronger than even that bind us to one another, these are the deepest bonds –– that bind us to our fellow men.”

 これは、ヒロシマ・ナガサキから3ヶ月後の1945年11月2日、原爆が造られたロス・アラモスで、そこで働いた科学者たちを前にしてのお別れの講演の最後の部分です。ここで men は「人間」を意味し、our fellow men は世界中の人間仲間全体を意味しています。私の中では、峠三吉の“にんげんをかえせ”の「人間」にもつながります。後年、オッペンハイマーが「愛」についてしきりに語ったとき、その一種の曖昧さの源はここにあったのだと私は思います。

 核兵器がこの世界の人間達の終焉をもたらさないようにと願う気持ちにおいて、私は人後に落ちないつもりです。しかし、どういう風にこの世の中が、この世界が変われば、人間は生き延びられるかについて、私はロバート・オッペンハイマーよりも具体的なアイディアを持っています。「人間はどのような状況にあれば幸せなのか?」を具体的に考えてみるという着想です。ここで「50年連れ添った妻と夜一緒に寝る、これがこの世の天国」というダニエル・エルズバーグの言葉に戻ります。ダニエル・エルズバーグの奥さんパトリシアは写真で見ると如何にも愛くるしい女性ですが、ロバート・オッペンハイマーの奥さんキティは、どの伝記にも、容貌も良くない性悪の酒飲み女性として描かれています。しかし、夫ロバートはキティ夫人を深く愛していた事はこれまた定説です。オッペンハイマーもエルズバーグと同じく地上の天国の時間を知っていたのだと思います。

 「愛」という言葉を性的関係の語りだけに限った方が良いというメアリー・マッカーシーの、オッペンハイマーに対する一種の嘲りを含む発言を私は好みません。「愛」はあらゆる「心と心の結びつき」に関わります。魂と魂の結びつきと言ってもよろしい。片思いも、複数者に向けられるのも含みます。どこにでも転がっている平凡な家族内の愛情も勿論含みます。

 アフリカの高級コーヒー豆産地で、大農業資本によるコーヒー園の面積拡張工事によってなけなしの農地を奪われ、その上、反抗した父親がブルドーザーに下敷きになって殺された家族のドキュメンタリーをテレビで見ました。いかにも貧農家族らしい両親と数人の小さな子供達の古い家族写真が示され、その中に写っている、今は19歳の長女が言いました:“We were happy. We had everything”、娘さんのこの言葉に世界を救う鍵があると私は考えます。お涙頂戴を企てているのではありません。「人間が、人間集団が幸福であるためには、実は、ほんの僅かなものしかいらない」ことを改めて確認させてくれるからです。現在、人間社会が直面している最も深刻な危機は、核戦争と際限のない消費経済成長追及の結果としての環境破壊です。脱経済成長は理論的に不可能だろうという意見がありますが、選択肢はただ一つ、脱経済成長を成し遂げなければ、我々は破滅するのです。後がありません。消費経済の成長をこのまま続ける選択肢はないのです。私たちの誰もが今より貧乏になるより他に選択肢はありません。ですから、人間は貧乏でも幸福であり得るということが確かめられるということは大きな安堵をもたらします。英語で言えば、“We have something to fall back on ”という事になるからです。 こう書いていると、以前にアップしたブログ記事『レニ・リーフェンシュタールのアフリカ』:

https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/e/a5068fa378a33212ae2a010e3da9a4a4

を思い出します。アフリカのスーダン共和国のヌバ丘陵地帯に住むヌバ族に就いてレニ・リーフェンシュタールは「ヌバと過ごした日々は、私の生涯のなかで最も幸福で、最も美しかった。ただ、すばらしいの一言よ。彼らはとても陽気で、一日中笑って過ごしていたし、決して人のものを盗むようなことはしない善良な人々だった。彼らはいつも幸せで、すべてに満足していた」と書いています。ここにも我々の目から見れば遥かに貧乏な状態で人間が幸福であり得る確固たる証拠が示されています。人間にはこうした嬉しい能力もあるのです。

 

藤永茂(2021年5月12日)

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