私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

メルヴィルのビリー・バッド(1)

2021-07-24 20:37:14 | 日記・エッセイ・コラム

 1968年にカナダに移住してから、私はアメリカ・インディアン(北米先住民)や鯨(鯱を含む)などに強い興味を持つようになりました。それが私をメルヴィルの小説『モービー・ディック(白鯨)』に導いたのだったと思います。その中には先住民も黒人も出て来ます。バラク・オバマという黒白混血の政治家が米国政界に彗星のように出現した時に、私はこの人物を米国映画『エルマー・ガントリー』の詐欺師的牧師になぞらえて考えるようになり、それが私をメルヴィルの変テコな小説『コンフィデンス・マン(詐欺師)』に導きました。米国では人を信用させてから欺く人物を「コンマン」と呼びます。「コンウーマン」という言葉もあるようです。この小説にも先住民と黒人のことが出て来ます。私がこのブログでバラク・オバマのことを取り上げたのは大統領選挙の前のこと、『オバマ現象/アメリカの悲劇(1)』(2008年2月27日)に始まる4回連続の記事で、その結論として次のように述べました:

「未来の予言を試みるのは常に空しい所業ですが、アメリカという國の将来がお先真っ暗であることは確かです。共和党のマケインがオバマに勝って大統領になり、アメリカは今の国家路線をそのまま暴走するでしょう。もしオバマが初代黒人大統領になったにしても、イラクの占領は継続され、パレスチナ・ホロコーストはますます進行し、アメリカ国内の黒人白人の貧困層の苦難はいよいよ大きくなるばかりでしょう。」

バラク・オバマ氏は見事に勝利して、2009年1月20日から2017年1月20日までの8年間、米国の第44代大統領の地位にありました。

今、私の卓上にWilliam V. Spanosというメルヴィル学者の『THE EXCEPTIONALIST STATE and the State of Exception––Herman Melville’s Billy Budd, Sailor 』(2011年)という本があります。古い書き込みから判じて、出版後すぐ購入して読んだようです。『ビリー・バッド』は未完の遺稿として残されたメルヴィル最後の作品です。Spanosの本は文学作品というテキストを巡ってあれこれの文学理論がその地位を争った時代の学術書として、私の理解能力を超えた内容でしたが、メルヴィル論として『白鯨』や『コンフィデンス・マン』のことも出て来ますし、とにかく齧り付いてみました。ベンジャミン・ブリテン作のオペラ『ビリー・バッド』も覗いてみました。しかし、『白鯨』はともかく、『コンフィデンス・マン』も『ビリー・バッド、水兵』でも著者メルヴィルが何を言おうとしたのか、モヤモヤしたままで今日に及びました。

Spanos という学者さんの本(2011年出版)は、それ以前の文学理論全盛時代に提出された『ビリー・バッド』論の数々に言及しながら、2001年9月11日以後のブッシュ大統領の「テロとの戦い」政策展開下、それが例外的(exceptional)な非常事態であるという口実の下で、テロリストでない無辜の人間たちが無残に殺されるという現実に抗議する意図を下敷きにして『ビリー・バッド』の新しい解釈、読み方、メルヴィル論を展開した書物です。

 では、なぜ、今頃になって、またSpanos の本を再読し、飯野友幸訳大塚寿郎解説の『ビリー・バッド』(光文社、2012年)を読んでみたのか? それは『ビリー・バッド』 の一人の読者として、近代文学理論が“読者”に与える立場を目一杯に利用して、『ビリー・バッド』のテキストに私自身の感じ方に沿った読み方を与えてみたくなったからです。その読み方は、二つの名作歌舞伎、菅原伝授手習鑑の「寺子屋の段」と、もう一つ、勧進帳につながります。

 『ビリー・バッド』の物語の中心人物は民間商船から英国海軍によって強制的に徴用された水夫のビリー、軍艦の艦長ヴィア、上級士官のクラガートの三人です。物語が展開する当時、英国海軍は酷使していた水兵たちの反乱(mutiny) が大いに懸念されるexceptional な状況下にありました。ある日、クラガートは艦長室にやって来て「ビリーが反乱を企てている」と艦長ヴィアに讒訴します。ヴィアは即刻ビリーを艦長室に呼び付けて問いただします。全く身に覚えのない反乱の首謀者の疑いをかけられたビリーは、もともと重度の吃音者(どもり)で、弁明の言葉を発することができず、逆上して、鉄腕を振るい、クラガートを殴り殺してしまいます。反乱の疑いについてはビリーの無実を固く信じていた艦長ヴィアでしたが、上級士官を殺害する重罪を犯してしまった水兵ビリーを裁かなければなりません。

 このビリーとヴィアを、「寺子屋の段」の小太郎と源蔵に、また、冨樫と弁慶に結び付けようとする私の試みは、奇矯にすぎるかもしれませんが、私は大真面目に考えています。次回のその説明をいたします。

 『ビリー・バッド』についてはネット上に沢山の記事があります。参考までに、私が大変興味深く読んだ学術論文を一つ掲げておきます:

福岡和子:他者の変貌--『タイピー』から『ビリー・バッド』 (2006年)

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135343/1/ebk00078_071.pdf

 

藤永茂(2012年7月24日)

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