私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

オジャラン(9)

2015-10-21 20:30:27 | 日記
翻訳を続けます。

III. DEMOCRATIC CONFEDERALISM
A. Diversity of the Political Landscape
B. The Heritage of the Society
C. Ethics and Political Awareness
D. Democratic Confederalism and the Political System
E. Democratic Confederalism and Self-Defence
F. Democratic Confederalism Versus Dominance
G. Democratic Confederate Structures at a Global scale
H. Conclusion

III. 民主的連邦主義

ここで統治とか行政とか言うものは、非国家的政治施政あるいは国家なしの民主制と呼ぶことが出来よう。民主的な意思決定のプロセスを公共行政から知られるプロセスと混同してはならない。国家は単に施政するが、民主制は治める。国家は権力に基づいているが、民主制は集団的な合意に基礎を置く。国家の官庁は、部分的に選挙によって合法化されるとは言え、命令によって決定される。民主制は直接選挙を使う。国家は威圧を合法的な手段の一つとして使用する。民主制は自発的な参加に基礎を置く。
 民主的連邦主義は他の政治的グループや党派に向かって開かれている。それは柔軟で、多文化的、反独占、合意志向的である。環境保護とフェミニズムはその中心的な支柱である。こうした種類の自主行政の枠内では、今までとは違う経済が必要になるであろう、それは社会的資源を搾取するのではなく、増進し、社会の多様な必要を公平に扱うであろう。

A. Diversity of the Political Landscape (政治的一般状況の多様性)

社会の矛盾にみちた成り立ちは垂直的な構成と水平的な構成を持つ政治的グループの両方を必要とする。中心的、地域的、局所的なグループがそうした形でバランスすることが必要である。それぞれが、その特殊な具体的状況に対応でき、広範囲の社会問題に対する適切な解決策を打ち出してくることが出来る。
 政治的団体の援助を得て、それぞれの文化的、民族的、あるいは国家的アイデンティティを表現するのは当然の権利である。しかしながら、この権利は倫理的かつ政治的社会を必要とする。国民国家が共和国であれ民主主義国であれ、民主的連邦主義は国家的伝統、政府形態の伝統に関して妥協に向けて開かれている。それは平等な共存を許容する。

B. The Heritage of the Society (社会の伝統遺産)

ここでもまた、民主的連邦主義は社会の歴史的経験とその共同の伝統遺産に依拠する。それはある恣意的な近代的政治システムではなく、むしろ、歴史と経験を蓄積する。それは社会の生命から生まれ出たものである。
 国家は、権力独占の利益を追求するために、絶えず自身を中央主義に向けて位置付けようとする。ちょうどその反対が民主的連邦主義については真である。独占体ではなく社会が政治的焦点の中心に位置する。社会の混成的構造があらゆる形の中心主義と矛盾する。はっきりと中心主義を打ち出せば、社会的暴発が結果するだけである。
 記憶に生きている限りにおいて、常に人間たちは連邦的な性質を持った氏族、部族、その他の生活共同体の緩やかなグループを形成してきた。このようにして彼らは内的な自律性を保持することが出来たのだ。諸帝国の内部の政府ですらも、宗教的権威や部族の自治体、王国、さらに、共和国も含めた、帝国内の異なる部分に対していろいろの自律的行政の方法を採用した。したがって、中心主義的のように見える諸帝国でさえ、連邦的な組織形態に従っていることを理解することが重要である。中央集権的モデルは人間社会が求める行政モデルではない。それどころか、中央集権的モデルは独占権力の維持という所にその源泉を持っているのだ。

C. Ethics and Political Awareness (倫理と政治的意識)

一定のパターンに従ったカテゴリーや用語による社会の分類は資本主義的独占体によって人工的に作られたものだ。一つの社会で重視されるのは、あなたが何かではなく、あなたの外見である。世に言う所の社会のそれ自身の存在からの疎外は積極的な参加からの撤退を奨励する、つまり、よく言われる政治に対する幻滅である。しかしながら、人間社会というものは本質的に政治的であり、価値観に基づいている。経済的、政治的、イデオロギー的、軍事的独占は、単に剰余価値の蓄積を求める点で社会の元来の性質と矛盾する構築物である。彼らは価値を創造しない。また革命も新しい社会を創造することは出来ない。それはただ社会の倫理的な政治的な関係の網目に影響を与えるだけである。それ以外のことは倫理に基づいた政治的社会の自由裁量にかかっている。
 既に私は、現代資本主義は国家の中央集権化を強要すると言った。人間社会の内にある政治的権力、軍事的権力の核はその影響を剥奪されてきた。君主制の現代的代替物としての国民国家は弱体化した無防御の社会を後に残した。この点で、法的秩序や社会一般の平穏は資本家階級が支配していることを意味しているに過ぎない。権力は自ら国家の中心を占め、現代の基本的な行政パラダイムの一つになる。このことが国民国家を民主主義や共和国主義と対照的なものにする。
 我々の“民主的現代性”プロジェクトはこのように我々が理解する現代性に代わるものの草案としての意味を持つ。それは基本的政治パラダイムとしての民主的連邦主義の基礎の上に建設される。民主的現代性は倫理に基づいた政治的社会の屋根である。我々が、社会なるものは均一的な一枚岩の実体である必要があると信じる誤りを犯している限り、民主的連邦主義を理解するのは困難であろう。現代の歴史は空想された中央政権社会の名においての、文化的大虐殺、身体的大虐殺の4世紀の歴史でもある。社会学的な範疇としての民主的連邦主義はこの歴史と対照的なものであり、それは、もし必要ならば、人種的、文化的、政治的多様性のために、戦う意志に基礎を置いている。
 財政的システムの危機なるものは資本主義的国民国家が内在的に抱えている結果である。しかしながら、国民国家を変えようとするネオリベラルのあらゆる努力はこれまで不成功なままである。中東がその教訓的な実例を与えている。

D. Democratic Confederalism and the Political System (民主的連邦主義とその政治的システム)

中央集権的な官僚制的施政と権力行使の解釈とは対照的に、連邦主義は一種の政治的自主行政の形をとる。そこでは、社会のすべてのグループやすべての文化的個性が、地域集会や一般集会や議会で、自由に自己を表現することが出来る。民主主義をこのように理解することは、社会のすべての層に政治空間を解放し、異なった多様な政治グループの形成が許容されることになる。このようにして民主的連邦主義は、また、社会全体としての政治的一体化を前進させる。政治は日々の生活の一部分となる。この政治的一体化なしには、国家の危機は解決できない。何故ならば、危機は政治的社会の表現参加の欠如によって煽られるからである。今のリベラル民主主義で使われる封建主義とか自主行政といった用語は新しく考え直さねばならない。肝心な点は、これらは国民国家の行政の階級制度的レベルとしてではなく、むしろ、社会的表現と参加の中心的な道具立てとして考慮されるべきものである。これがまた社会の政治化を進めることにもなるだろう。ここで、大げさな理論は必要でない。必要なのは、社会の活動家の自主性を構造的に強化し、社会全体としてそうした組織化の条件を整えることによって、社会の諸々のニーズに表現を与える意志が必要なのである。すべての種類の社会的政治的グループ、宗教団体、知的風潮が、すべての地域的意思決定のプロセスにおいて、直接に自己表現することが出来るような機能レベルの創設は、参加型民主主義とも呼ばれ得る。参加の度合いが強ければ強いほど、この種の民主主義はより強くなる。国民国家は民主主義とは対照的なもので、民主主義を否定すらするが、民主的連邦主義は連続的な民主的プロセスを形成している。
 社会的活動家は、各個にそれ自体、連合の単位であり、参加型民主主義の幹細胞である。彼らは結合したり連携したりして、状況に応じて、新しいグループや連合体を作る。参加型民主主義に関係する政治的ユニットのそれぞれは本質的に民主的である。このようにして、我々が言う所の民主主義は、連続的な政治過程の枠内での、地域レベルから全域レベルまでの意思決定の民主的プロセスの適用を意味することになる。この過程は社会の社会的網目の構造に影響を与えるが、それは、国民国家における均一性の追求と対照的で、この均一性は力によってのみ実現可能であり、したがって、自由の喪失をもたらす。
 既に私は、地域レベルが決定の行われるレベルであることがポイントだと述べておいた。しかしながら、それらの決定に至る考え方は全体的な問題と足並みを揃える必要がある。我々は、村落や都市近郊も連邦的構造を必要とすることを意識する必要がある。社会のすべての領域が自主行政に委ねられる必要があり、そのすべてのレベルで自由に参加できる必要がある。

E. Democratic Confederalism and Self-Defence (民主的連邦主義と自衛

本質的に言って、国民国家は軍事的な構造を持つ実体である。国民国家は結局の所あらゆる種類の内的外的戦闘の産物である。現存する国民国家のどれ一つとして全く自然に出来上がったものはない。いつも必ず、彼らは戦争の記録を持っている。この過程は立国の期に限られたものではなく、むしろ、全社会の軍事化の上に建設される。国家の文官統率は単に軍事的機構の一つのアクセサリーに過ぎない。自由民主主義は、その一枚上を行って、彼らの軍事的構造を民主的な自由主義的な色で塗りあげる。しかしながら、このことがそのシステムそのものによって引き起こされた危機が高まると権威主義的な解決法を求めるのをためらわせることはない。ファシスト的権力行使は国民国家の特性である。ファシズムは国民国家の最も純粋な形である。
 この軍事化は自己防衛の助力によってのみ押し返すことが出来る。自己防衛の仕組みが何もない社会は彼らの独自性、民主的な意思決定の能力、政治的特徴を失う。したがって、社会の自己防衛は軍事的な次元だけには限られていない。それはまた、その独自性、政治的自覚、民主化のプロセスの保持を前提にしている。そうであってこそ、我々は自己防衛について語ることが出来る。
 この背景に対して、民主的連邦主義は社会の自己防衛のシステムと呼ぶことが出来る。連邦的なネットワークの助けがあってのみ、独占企業と国民国家の軍事主義のグローバルな支配に反抗する基盤が存在する。独占企業のネットワークに対抗して、我々は同等に強力な社会主義的連邦を建設しなければならない。
 これは特に、連邦主義の社会的パラダイムが軍部の軍事力独占を含まないことを意味する。つまり、内的治安と外的治安を保つだけが軍部の役目である。彼らは民主的機関の直接の管理の下にある。社会そのものが軍部の義務を決定することが出来なければならない。役目の一つは社会の自由な意思を内的な、また、外的な干渉から守る事であろう。軍の指導部の構成は政治的機関と連邦を構成するグループの双方が協力して平等な条項と分担を決定すべきである。

F. Democratic Confederalism Versus Dominance (民主的連邦主義対覇権)

民主的連邦主義においては、いかなる種類の覇権追求の余地もない。これはイデオロギーの分野で特に真である。覇権は、通常、古典的タイプの文化に随伴する原理である。民主的な文化は覇権的権力やイデオロギーを拒絶する。民主的な自治行政の限界を超越する如何なる表現も自治行政と表現の自由を極端にまで推し進めることになろう。社会の抱える問題を集団的に取り扱うには、反対意見の理解、尊重と民主的な意思決定の方法を必要とする。これは現代資本主義者支配層の考え方と対照的である。恣意的な国民国家風の官僚的決定が、倫理的な基礎に沿った民主的連邦主義的指揮とは対角線的に対立するものである。民主的連邦主義的指揮機関はイデオロギー的な合法化を必要としない。したがって、彼らは覇権を追求する必要もないのである。

G. Democratic Confederate Structures at a Global scale (地球規模の民主的連邦構造)

民主的連邦主義では焦点は地方のレベルにあるが、グローバルに連邦主義を組織することも除外しない。除外どころか、むしろ、超大国の主導の下での国民国家の連合としての国際連合に対抗するものとして、我々は連邦的集合体の観点に立って国民的市民社会の綱領を掲げる必要がある。このようにして、我々は世界の平和、エコロジー、正義、生産性に関する、より良い決断を下せるようになるかも知れない。

H. Conclusion (結語)

民主的連邦主義は、国民国家の行政に対比すると、一種の自治行政として記述することが出来る。しかしながら、一定の状況下では、国民国家が自治行政の中心的重要事項に干渉しない限り、両者の平和的共存は可能である。そうした干渉のすべては市民社会の自己防衛を呼び起こすであろう。
 民主的連邦主義は如何なる国民国家とも戦争を構えないが、同化しようとすれば無為のままに止まっていることはない。既存の国家の革命的転覆、あるいは、新しい国家の設立は長続きする変化をもたらさない。長い目で見れば、自由と正義は、民主的連邦主義に基づくダイナミックなプロセスの枠内でのみ達成される。
 国家というものの全面的な拒絶もその完全な承認も、どちらも、市民社会の民主化の努力に有用ではない。国家を克服すること、とりわけ、国民国家の克服は、長期的なプロセスである。
 国家は、民主的連邦主義が社会的問題に関する問題解決の能力を持つことをはっきり示した時に、超克されるであろう。このことは、しかし、国民国家による攻撃が受容されなければならない事を意味しない。民主的連邦主義はあらゆる時に自衛力を維持するであろう。民主的連邦主義は単一特定の地域内で組織化されるとは限らない。それらは、関係する諸社会がそう欲すれば、国境をまたいだ連邦となるであろう。

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以上で、オジャランの『Democratic Confederalism(民主的連邦主義)』の翻訳は第三節まで進みました。あと第四、第五節が残っていますが、訳出はここで止めることにします。なお、私が使用したのは2015年2月に単行本として出版されたパンフレットです。

I. PREFACE
II. THE NATION-STATE
III. DEMOCRATIC CONFEDERALISM
IV. PRINCIPLES OF DEMOCRATIC CONFEDERALISM
V. PROBLEMS AND SOLUTIONS FOR THE MIDDLE EAST

その内容は、次のサイトからダウンロードできる版と僅かに異なります。

http://www.freeocalan.org

例えば、上記の見出しも同一ではありませんが、その相違は気にする必要はありません。オジャランに本格的な興味をお持ちならば第四、第五節を是非お読みください。
 こうしてオジャランという人の書いたものを読んでいると、この人物が心から人々の生活の平和を望んでいることをひしひしと感じます。上掲のサイトからダウンロードできる44頁の小冊子;

War and Peace in Kurdistan Perspectives for a political solution of the Kurdish question by Abdullah Ocalan

を読めば、現在のトルコでのテロリストの真の頭目はエルドアン大統領であって、独房にあるオジャランではないことがよく分かります。
 シリア問題はトルコ問題だと言ってもあまり過言ではありません。そして、現トルコ政権にとってクルド人問題は最大の政治的問題です。したがって、マスメディアがあまりクルド人問題を取り上げないにしても、以前から申し上げているように、この問題はシリア問題の中核に位置しているのです。11月1日のトルコの総選挙の結果を受けて、真のテロリスト頭目エルドアン大統領がどう出るか。
 昨日、シリアのアサド大統領がモスコーに赴いて、プーチンその他のロシア首脳たちと話し合ったと報じられています。もしシリア国民一般の意思を正しく反映する選挙が行われれば、アサド政権が支持されるのは間違いないと思われますが、そうした選挙の実現性は大きくはありますまい。アサド/プーチン会談を報じたニューヨータイムズの記事は、次のような文章で結ばれています。

The Assad government started a civil war that has killed an estimated 250,000 people, left millions homeless and decimated the country, rather than accede to the demands of peaceful protesters demanding greater democracy in 2011.

ひどいものです。

藤永茂 (2015年10月21日)