私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

『闇の奥』と『地獄の黙示録』(2)

2006-08-02 05:37:42 | 日記・エッセイ・コラム
 前の<『闇の奥』と『地獄の黙示録』(1)>では小説のマーロウと映画のウィラードとの対比を考えました。勿論、これより大きな問題は小説のクルツと映画のカーツ大佐との対比ですが、小説の中のもう一人の重要人物である中央出張所の支配人(名前は与えられていませんが、モデルとなった人物の名はカミーユ・デルコミューン)はコッポラの映画では誰に当たると考えられるでしょうか?
 Michael Wood はコッポラの『地獄の黙示録』が上映されて間もなく、この映画の本格的な批評をNew York Review of Books (October 11, 1979, 17) に発表しています。私が読んだ『地獄の黙示録』評の中で、これは秀逸の部に属しますが、しかし、私はその主張の内容には同意しかねます。ウッドのポイントは「コッポラとマーロン・ブランドは“深遠”なクルツ/カーツ像を作り上げようと大変な努力をしたが、これは全くの無駄骨、何故なら、ブランドのカーツより先に、コッポラはロバート・デュヴァルの演ずるキルゴアという素晴らしいキャラクターを創造してしまったから。キルゴアこそがカーツなのだ。」というものです。英語原文を断片的に引用します。
He (Coppola) cannot discover the promised “heart of darkness” in the murk of his conclusion, because he stumbled across it much earlier?earlier in the finished film and in the shooting?on a bright, noisy beach strewn with soldiers and helicopters, sheets of flame lighting up the background, as a plausible imitation of napalm devoured the jungle. He went on looking?writing, directing, editing?for the horror he had already found. ……
The trouble is, Coppola has already invented a commanding character who represents all this better than Kurtz does. Lieutenant-Colonel Kilgore, breezily and brilliantly played be Robert Duvall, is in charge of a cavalry regiment which has traded in its horses for helicopters. He wears an old-fashioned cavalry hat, as if he were in a western, and a dashing yellow foulard. ……
Coppola knew what he had got, as his note suggests. But he didn’t know what to do with it, and the soundtrack, immediately after the helicopter raid, identifies the difficulty with startling accuracy. “If that was how Kilgore was fighting the war,” Willard says, “I couldn’t see what they had against Kurtz.”
Kilgore is Kurtz, there is no further horror buried in the depths of a man’s soul or an alien country. The horror is out there on the surface, smiling, drinking, joking, getting on with the job. Kurtz is wherever the war is.
 コッポラとブランドが映像的に、また、ストーリーとして意味のあるクルツ/カーツを創造できなかったという点で、私はウッドと同意見ですが、「キルゴアこそがカーツ」だというウッドの最重要点には全く同意しかねます。コンラッドの『闇の奥』は何よりもまずマーロウとクルツの「旅」と「変貌」の物語の筈です。ダンテが引かれ、ウェルギリウスが引かれ、聖杯伝説が引かれる理由です。また、「ノートン・クリティカル・エディション」の『闇の奥』の第2、3、4版を通じて、唯一生き残って収録されているゲラードの有名な評論が「The Journey Within」と題されている理由でもあります。しかし、キルゴアには「旅」も「変貌」もありません。アメリカの「西部の男」こそがアメリカ人の本質を体現するものであり、キルゴアこそが生粋のアメリカ人です。彼はアメリカの「西部」からベトナムへ、そのままひょいと移されただけであって、何も変わっていません。アメリカ人そのものとしてベトナムの地で横暴の限りを尽くしているだけです。
 こう考えてみると、私としては、『闇の奥』の中央出張所のマネジャー(デルコミューン)と『地獄の黙示録』のキルゴアを対にしてみたくなります。コンラッドはベルギー人に対してかなりネガティブな意見を抱いていたことが知られています。彼はベルギー人を地中海人と一緒に束ねて、アングロ・サクソンよりずっと下に見ていました。コンラッドの小説『進歩に前哨基地』の二人のベルギー人、カイヤールとカルリエ、はもともとダメな男たちでしたが、デルコミューンやティースやレオポルドはベルギー人としてしたたかな男たちで、ベルギー本国であろうとコンゴであろうと、陰険な悪魔として、その本領を発揮します。この意味で、『地獄の黙示録』のキルゴアは『闇の奥』の中央出張所支配人(デルコミューン)と対比させるのが妥当であろうと私は考えます。つまり、デルコミューンもキルゴアも本国仕立てのDARKNESS をコンゴ/ベトナムに持ち込んだ人物です。

藤永 茂 (2006年8月2日)