また戻って、
関西新年合同歌会のお話。
遅刻せずに行けたおかげで、
三年ぶりに、
草壁主宰の講演を最初から最後まで聞けた(笑)
印象に残ったのは、
「英語で表現しようと思ったら、比喩を使うしかなくなる」
みたいなお話。
不意に、
中3で、関係代名詞について、
勉強したときのことを思い出した。
……ってね、
「関係代名詞ってなんだったけ?」
って思った人は、自分で調べてね。
私に説明は求めないでね(笑)
★
後にも先にも、
学校の授業より先に、
英語で勉強したのは、
関係代名詞の項目だけだったと思う。
確か、「進○ゼミ」なる通信モノを、
流行りモノを追うように、
始めた時の、
最初の最初に触れたものだったから。
まぁ、すぐに、やる気は、どんどん下降線を、
辿っていったのだが(笑)、
幸いなのか、なんなのか、
まだやる気がフレッシュだった頃、
この関係代名詞と巡り合ったのだ。
学校で習ったことの復習ではなく、
自分でゼロから、本を読んで、
手探り状態で、
「なんや、この、whichとかwhatとか」と、
接していった。
その時、
言葉にして、
明確に思ったわけではないけれど、
初めて、
『文章』というものの枠について、
うっすらと何かを思った記憶(っていうか痕跡)がある。
うーん……。文章の成り立ちについて、初めて意識をしたというか。
★
私は、
会話にしても、
五行歌を書くにしても、
比喩表現を使いたがる体質だと思う。
ただね、詩歌の場合って、
隠喩(例えば「君は薔薇だ!!)のほうが、かっこいいと思うんだけど、
他の人と比べたら、
直喩(例えば「君は薔薇のようやねぇ~」)にするのが、
結構多いような気がする。
それって、もしかしたら、
あの頃、関係代名詞の勉強をしていて、
「へぇ~、英語の文章って、こんな風になっているんだ」と、
ちょっと一歩引いた感じで、
関心を持った感動が、
かつ、やる気を持って、勉強したのが、
自分の文章形成の要素のひとつに、
なったのかもなぁと、
話を聞きながら、思ったりしたのだ。
★
思うのだけど、
隠喩より、直喩を使うと、
抽象的な歌になりにくい気がする。
「~のように」を用いると、
ちょっと高次へ気持ちが遊離したとしても、
着地地点は、
現実的な事象になりがちな気がする。
だから私の歌は、
地に足のついた歌が多いのかも。
抽象的なものに多い「飛躍な感じ」はない気がする。しても低空。
比喩を使っても、
日常そのものか、
平面的な日常に、奥行きをつけるか、
陰影をつけるか、
そういう歌の作りになっている気がする。
「飛ぶ」感じは乏しい。
関係代名詞に力を入れて、
勉強した経験だけが、
すべての要素を形成しているとまでは言えないが、
要素のひとつとして、考えられるような気がする。
英語を(真面目に必死で)翻訳したことが、
自分の日本語での思い方に、
少なからず影響を及ぼしているんじゃないか、と、
主宰の話からはなれて、自分の文章ルーツに思いを馳せていた。
★
私はあまり、
外国語で、人と会話が出来たらなぁ~と、
思ったりしていない。
それは単純に、
必要性に駆られない環境にいるから。
ただですら、
誰とも幅広く社交的に会話するなんて、好きじゃないのに、
そこまで人と会話する為のアイテムなんて、
本当に必要がなくって。
これからもそうかと聞かれると、
それはわからないけど。
男女を問わず、
よほどシンパシーのあう外国の人と巡り合えば、
ナントカしようと努力し、
「あ~!じれったい!!」と、
それまでの英語力のなさを、
後悔する日が来るかもしれないけれど(来て欲しくないけど・笑)。
ただ、
外国語の文章を、
書き言葉を、
翻訳できるぐらいの、
理解力があればなぁと思ったりすることはある。
それは、外国に興味があるからでなく、
むしろ日本語に興味があるためだ。
日本語というものの成り立ちを、
今よりももっと深く、意識できるのになぁという
気持ちからだ。
……というところで、お時間となりました。
つづく。
関西新年合同歌会のお話。
遅刻せずに行けたおかげで、
三年ぶりに、
草壁主宰の講演を最初から最後まで聞けた(笑)
印象に残ったのは、
「英語で表現しようと思ったら、比喩を使うしかなくなる」
みたいなお話。
不意に、
中3で、関係代名詞について、
勉強したときのことを思い出した。
……ってね、
「関係代名詞ってなんだったけ?」
って思った人は、自分で調べてね。
私に説明は求めないでね(笑)
★
後にも先にも、
学校の授業より先に、
英語で勉強したのは、
関係代名詞の項目だけだったと思う。
確か、「進○ゼミ」なる通信モノを、
流行りモノを追うように、
始めた時の、
最初の最初に触れたものだったから。
まぁ、すぐに、やる気は、どんどん下降線を、
辿っていったのだが(笑)、
幸いなのか、なんなのか、
まだやる気がフレッシュだった頃、
この関係代名詞と巡り合ったのだ。
学校で習ったことの復習ではなく、
自分でゼロから、本を読んで、
手探り状態で、
「なんや、この、whichとかwhatとか」と、
接していった。
その時、
言葉にして、
明確に思ったわけではないけれど、
初めて、
『文章』というものの枠について、
うっすらと何かを思った記憶(っていうか痕跡)がある。
うーん……。文章の成り立ちについて、初めて意識をしたというか。
★
私は、
会話にしても、
五行歌を書くにしても、
比喩表現を使いたがる体質だと思う。
ただね、詩歌の場合って、
隠喩(例えば「君は薔薇だ!!)のほうが、かっこいいと思うんだけど、
他の人と比べたら、
直喩(例えば「君は薔薇のようやねぇ~」)にするのが、
結構多いような気がする。
それって、もしかしたら、
あの頃、関係代名詞の勉強をしていて、
「へぇ~、英語の文章って、こんな風になっているんだ」と、
ちょっと一歩引いた感じで、
関心を持った感動が、
かつ、やる気を持って、勉強したのが、
自分の文章形成の要素のひとつに、
なったのかもなぁと、
話を聞きながら、思ったりしたのだ。
★
思うのだけど、
隠喩より、直喩を使うと、
抽象的な歌になりにくい気がする。
「~のように」を用いると、
ちょっと高次へ気持ちが遊離したとしても、
着地地点は、
現実的な事象になりがちな気がする。
だから私の歌は、
地に足のついた歌が多いのかも。
抽象的なものに多い「飛躍な感じ」はない気がする。しても低空。
比喩を使っても、
日常そのものか、
平面的な日常に、奥行きをつけるか、
陰影をつけるか、
そういう歌の作りになっている気がする。
「飛ぶ」感じは乏しい。
関係代名詞に力を入れて、
勉強した経験だけが、
すべての要素を形成しているとまでは言えないが、
要素のひとつとして、考えられるような気がする。
英語を(真面目に必死で)翻訳したことが、
自分の日本語での思い方に、
少なからず影響を及ぼしているんじゃないか、と、
主宰の話からはなれて、自分の文章ルーツに思いを馳せていた。
★
私はあまり、
外国語で、人と会話が出来たらなぁ~と、
思ったりしていない。
それは単純に、
必要性に駆られない環境にいるから。
ただですら、
誰とも幅広く社交的に会話するなんて、好きじゃないのに、
そこまで人と会話する為のアイテムなんて、
本当に必要がなくって。
これからもそうかと聞かれると、
それはわからないけど。
男女を問わず、
よほどシンパシーのあう外国の人と巡り合えば、
ナントカしようと努力し、
「あ~!じれったい!!」と、
それまでの英語力のなさを、
後悔する日が来るかもしれないけれど(来て欲しくないけど・笑)。
ただ、
外国語の文章を、
書き言葉を、
翻訳できるぐらいの、
理解力があればなぁと思ったりすることはある。
それは、外国に興味があるからでなく、
むしろ日本語に興味があるためだ。
日本語というものの成り立ちを、
今よりももっと深く、意識できるのになぁという
気持ちからだ。
……というところで、お時間となりました。
つづく。