日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

気分とかたちから入るということ。

2007年12月28日 | 言葉や思いをめぐらす日々
基本的に年賀状は、
私がすべて作ったり、書いたりしていて、
夫は一切タッチしない。

夫は年末年始にかけて、
高校時代の友人と、
奈良の春日大社へ初詣に行くので、
親しい友人にも「会うから」と書かない。

が、ひとりだけ、
年賀状だけの付き合いをしている、
高校の時からの友人(……一応そう言っておこうかな)がいる。

毎年、
その友人に対しても、
お正月に、
年賀状をもらってから、
彼は書いているので、
「今年ぐらい、お正月に届くように、前もって書いたら?」
と、はがきを一枚あげたのだが、
これがなかなか書かない。

その理由が、
「気分が乗らないから」。

そうこうしているうちに、
お正月まで、あと数日。

だらだらとTVばかりを見ている夫に、
いらいらしてきた私は、

「あんたの気分が乗ってくるのは、
相手からの年賀状が届いてからやろ?

何事に対しても、
あんたの気分が乗ってくるのは、
相手が自分の為になんらかの行為をしてくるか、
ギリギリになってからやんか。

なんでもかんでも、受身すぎるねん。

自発的に、とか、先手を打って、とか、
そういうの、全くないよね。

すべてを『攻め』で行けとは言わないけど、
年賀状ぐらい、元日に届くように動いたらどう?
たった一枚なんだから。
しかも一言だけ書けば済むように、
デザインをプリントアウトしたのを渡してるやんか。

そんなTVばっかり見てたら、
年賀状を書く気分になれるわけないやんか。
いや、TVみながらでも、書こうと思えば書けるはずや。

気分っていうのはな、
空から降ってくるわけでもなんでもないねんで。

気分っていうのはな、
根本的に主体性を持ってないと見逃すもんなんや。
『書きたい』っていう
意思の力が底辺にないと、呼び寄せられないもんなんや。

『正月に年賀状が届くようにしよう』という意思がない限り、
あんたの言う『気分』なんて、絶対の絶対にやってこないよ」

以下はとても醜い言い争いになったので、略。

     ★

この前、派遣元へ行って、
お給料を取りに行ったら、
内勤のバイトをしているKさんが、
髪をばっさり切っていた。

似合ってますよ、と言ったら、
彼氏さんとお別れしたんで、と笑いながら一言。

あらま、古風な。

かなりぬるい空気の職場とはいえ、
あまりプライベートな話をじっくりする場ではないし
(そういう付き合いでもないし)、
でも、20歳前後の女の子の、
軽めの、
オブラードに包んだ風の言い方の奥に、
ぐっとこらえている芯の部分を感じて、
なんか冗談では返せず、

「かたちから入っていくのは、いい方法だと思うよ」

と、真面目になって、
自然と言葉が出ていった。

夫と言い争った後、
無口になって、皿を洗いながら、
その時のことを思い出す。

     ★

気分という頼りないものを呼び寄せる為に、
かたちから入るのも、ひとつの手だと思っている。

季節の風習だとかも、きっとそう。

まだ暑かろうが、もう寒かろうが、
期日が来たら、それをするところから、
多少の誤差は目をつぶり、
春夏秋冬を呼び寄せる、区切りをつける、
人間の知恵。

かけ離れすぎず、でもぴたりと一致するのは稀。

だから、正月気分じゃなくても、
師走に年賀状を書くもんなんだ
(11月から売り始めているのは、
かけ離れすぎてて、うんざりしてますが)。

同じように、
恋を失って、髪を切ることも、
締切というもののために、五行歌を書くことも、
その気分をかたちから呼び寄せるということだ。

自分の奥の方にある、
主体性や意思を呼び覚まさせるための、
行為なら、
多少(←ここ強調ね)気持ちが追いついていなくても、
まぁいいんじゃない?と、
人に対しても、自分に対しても、
昔ほど厳密ではなくなったな、と、
最近思う。

ただ、かたちから入るという行為の目的が、
自分の主体性や意思を呼び覚まさせるためではなく、
他人に対する自己アピールや
言い訳になってると「ヤだな」って思うんだけど。

例えば、
なんの共感も持てないナルシの押し付けとか、
歌が書けないことに対して、
「締切が!締切が!」と、やたら他人に、言い過ぎるとかね
(クドイけど、度が過ぎなければ、言ったっていいんよ)。

気持ちがなくても、
時期が来たらかたちだけでも準備する。行為をする。

その習慣が、
いざ、気持ちが(時期が)来たときに、
フットワークを軽くする。

能力を跳ね上げる。心を和ませる。

かたちは、
自分を縛るものだと、
捉えた時から、
縛るものになるのだ。

     ★

よくよく考えれば、
私が、夫に言われてもいないのに、
年賀状を正月前に用意したから、
いらいらするんだ、と思えてきた。

気を利かせてしたことが、空回りしているんだ、
と、夫の腰の重さより、
自分に対して後悔してきた。

習慣と習慣のせめぎあい。
この後悔は、ムダ。

やっぱり、かたちから入るのは、
自分の為だけにしようと、つくづく思った。

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