基本的に年賀状は、
私がすべて作ったり、書いたりしていて、
夫は一切タッチしない。
夫は年末年始にかけて、
高校時代の友人と、
奈良の春日大社へ初詣に行くので、
親しい友人にも「会うから」と書かない。
が、ひとりだけ、
年賀状だけの付き合いをしている、
高校の時からの友人(……一応そう言っておこうかな)がいる。
毎年、
その友人に対しても、
お正月に、
年賀状をもらってから、
彼は書いているので、
「今年ぐらい、お正月に届くように、前もって書いたら?」
と、はがきを一枚あげたのだが、
これがなかなか書かない。
その理由が、
「気分が乗らないから」。
そうこうしているうちに、
お正月まで、あと数日。
だらだらとTVばかりを見ている夫に、
いらいらしてきた私は、
「あんたの気分が乗ってくるのは、
相手からの年賀状が届いてからやろ?
何事に対しても、
あんたの気分が乗ってくるのは、
相手が自分の為になんらかの行為をしてくるか、
ギリギリになってからやんか。
なんでもかんでも、受身すぎるねん。
自発的に、とか、先手を打って、とか、
そういうの、全くないよね。
すべてを『攻め』で行けとは言わないけど、
年賀状ぐらい、元日に届くように動いたらどう?
たった一枚なんだから。
しかも一言だけ書けば済むように、
デザインをプリントアウトしたのを渡してるやんか。
そんなTVばっかり見てたら、
年賀状を書く気分になれるわけないやんか。
いや、TVみながらでも、書こうと思えば書けるはずや。
気分っていうのはな、
空から降ってくるわけでもなんでもないねんで。
気分っていうのはな、
根本的に主体性を持ってないと見逃すもんなんや。
『書きたい』っていう
意思の力が底辺にないと、呼び寄せられないもんなんや。
『正月に年賀状が届くようにしよう』という意思がない限り、
あんたの言う『気分』なんて、絶対の絶対にやってこないよ」
以下はとても醜い言い争いになったので、略。
★
この前、派遣元へ行って、
お給料を取りに行ったら、
内勤のバイトをしているKさんが、
髪をばっさり切っていた。
似合ってますよ、と言ったら、
彼氏さんとお別れしたんで、と笑いながら一言。
あらま、古風な。
かなりぬるい空気の職場とはいえ、
あまりプライベートな話をじっくりする場ではないし
(そういう付き合いでもないし)、
でも、20歳前後の女の子の、
軽めの、
オブラードに包んだ風の言い方の奥に、
ぐっとこらえている芯の部分を感じて、
なんか冗談では返せず、
「かたちから入っていくのは、いい方法だと思うよ」
と、真面目になって、
自然と言葉が出ていった。
夫と言い争った後、
無口になって、皿を洗いながら、
その時のことを思い出す。
★
気分という頼りないものを呼び寄せる為に、
かたちから入るのも、ひとつの手だと思っている。
季節の風習だとかも、きっとそう。
まだ暑かろうが、もう寒かろうが、
期日が来たら、それをするところから、
多少の誤差は目をつぶり、
春夏秋冬を呼び寄せる、区切りをつける、
人間の知恵。
かけ離れすぎず、でもぴたりと一致するのは稀。
だから、正月気分じゃなくても、
師走に年賀状を書くもんなんだ
(11月から売り始めているのは、
かけ離れすぎてて、うんざりしてますが)。
同じように、
恋を失って、髪を切ることも、
締切というもののために、五行歌を書くことも、
その気分をかたちから呼び寄せるということだ。
自分の奥の方にある、
主体性や意思を呼び覚まさせるための、
行為なら、
多少(←ここ強調ね)気持ちが追いついていなくても、
まぁいいんじゃない?と、
人に対しても、自分に対しても、
昔ほど厳密ではなくなったな、と、
最近思う。
ただ、かたちから入るという行為の目的が、
自分の主体性や意思を呼び覚まさせるためではなく、
他人に対する自己アピールや
言い訳になってると「ヤだな」って思うんだけど。
例えば、
なんの共感も持てないナルシの押し付けとか、
歌が書けないことに対して、
「締切が!締切が!」と、やたら他人に、言い過ぎるとかね
(クドイけど、度が過ぎなければ、言ったっていいんよ)。
気持ちがなくても、
時期が来たらかたちだけでも準備する。行為をする。
その習慣が、
いざ、気持ちが(時期が)来たときに、
フットワークを軽くする。
能力を跳ね上げる。心を和ませる。
かたちは、
自分を縛るものだと、
捉えた時から、
縛るものになるのだ。
★
よくよく考えれば、
私が、夫に言われてもいないのに、
年賀状を正月前に用意したから、
いらいらするんだ、と思えてきた。
気を利かせてしたことが、空回りしているんだ、
と、夫の腰の重さより、
自分に対して後悔してきた。
習慣と習慣のせめぎあい。
この後悔は、ムダ。
やっぱり、かたちから入るのは、
自分の為だけにしようと、つくづく思った。
私がすべて作ったり、書いたりしていて、
夫は一切タッチしない。
夫は年末年始にかけて、
高校時代の友人と、
奈良の春日大社へ初詣に行くので、
親しい友人にも「会うから」と書かない。
が、ひとりだけ、
年賀状だけの付き合いをしている、
高校の時からの友人(……一応そう言っておこうかな)がいる。
毎年、
その友人に対しても、
お正月に、
年賀状をもらってから、
彼は書いているので、
「今年ぐらい、お正月に届くように、前もって書いたら?」
と、はがきを一枚あげたのだが、
これがなかなか書かない。
その理由が、
「気分が乗らないから」。
そうこうしているうちに、
お正月まで、あと数日。
だらだらとTVばかりを見ている夫に、
いらいらしてきた私は、
「あんたの気分が乗ってくるのは、
相手からの年賀状が届いてからやろ?
何事に対しても、
あんたの気分が乗ってくるのは、
相手が自分の為になんらかの行為をしてくるか、
ギリギリになってからやんか。
なんでもかんでも、受身すぎるねん。
自発的に、とか、先手を打って、とか、
そういうの、全くないよね。
すべてを『攻め』で行けとは言わないけど、
年賀状ぐらい、元日に届くように動いたらどう?
たった一枚なんだから。
しかも一言だけ書けば済むように、
デザインをプリントアウトしたのを渡してるやんか。
そんなTVばっかり見てたら、
年賀状を書く気分になれるわけないやんか。
いや、TVみながらでも、書こうと思えば書けるはずや。
気分っていうのはな、
空から降ってくるわけでもなんでもないねんで。
気分っていうのはな、
根本的に主体性を持ってないと見逃すもんなんや。
『書きたい』っていう
意思の力が底辺にないと、呼び寄せられないもんなんや。
『正月に年賀状が届くようにしよう』という意思がない限り、
あんたの言う『気分』なんて、絶対の絶対にやってこないよ」
以下はとても醜い言い争いになったので、略。
★
この前、派遣元へ行って、
お給料を取りに行ったら、
内勤のバイトをしているKさんが、
髪をばっさり切っていた。
似合ってますよ、と言ったら、
彼氏さんとお別れしたんで、と笑いながら一言。
あらま、古風な。
かなりぬるい空気の職場とはいえ、
あまりプライベートな話をじっくりする場ではないし
(そういう付き合いでもないし)、
でも、20歳前後の女の子の、
軽めの、
オブラードに包んだ風の言い方の奥に、
ぐっとこらえている芯の部分を感じて、
なんか冗談では返せず、
「かたちから入っていくのは、いい方法だと思うよ」
と、真面目になって、
自然と言葉が出ていった。
夫と言い争った後、
無口になって、皿を洗いながら、
その時のことを思い出す。
★
気分という頼りないものを呼び寄せる為に、
かたちから入るのも、ひとつの手だと思っている。
季節の風習だとかも、きっとそう。
まだ暑かろうが、もう寒かろうが、
期日が来たら、それをするところから、
多少の誤差は目をつぶり、
春夏秋冬を呼び寄せる、区切りをつける、
人間の知恵。
かけ離れすぎず、でもぴたりと一致するのは稀。
だから、正月気分じゃなくても、
師走に年賀状を書くもんなんだ
(11月から売り始めているのは、
かけ離れすぎてて、うんざりしてますが)。
同じように、
恋を失って、髪を切ることも、
締切というもののために、五行歌を書くことも、
その気分をかたちから呼び寄せるということだ。
自分の奥の方にある、
主体性や意思を呼び覚まさせるための、
行為なら、
多少(←ここ強調ね)気持ちが追いついていなくても、
まぁいいんじゃない?と、
人に対しても、自分に対しても、
昔ほど厳密ではなくなったな、と、
最近思う。
ただ、かたちから入るという行為の目的が、
自分の主体性や意思を呼び覚まさせるためではなく、
他人に対する自己アピールや
言い訳になってると「ヤだな」って思うんだけど。
例えば、
なんの共感も持てないナルシの押し付けとか、
歌が書けないことに対して、
「締切が!締切が!」と、やたら他人に、言い過ぎるとかね
(クドイけど、度が過ぎなければ、言ったっていいんよ)。
気持ちがなくても、
時期が来たらかたちだけでも準備する。行為をする。
その習慣が、
いざ、気持ちが(時期が)来たときに、
フットワークを軽くする。
能力を跳ね上げる。心を和ませる。
かたちは、
自分を縛るものだと、
捉えた時から、
縛るものになるのだ。
★
よくよく考えれば、
私が、夫に言われてもいないのに、
年賀状を正月前に用意したから、
いらいらするんだ、と思えてきた。
気を利かせてしたことが、空回りしているんだ、
と、夫の腰の重さより、
自分に対して後悔してきた。
習慣と習慣のせめぎあい。
この後悔は、ムダ。
やっぱり、かたちから入るのは、
自分の為だけにしようと、つくづく思った。