時々、「この人って、なんで余計な一言を書くんだろう……くどい」と思いつつも、面白かったです。
人によっては、この余計な一言が、
切っ先をやらわらげ、
親しみや安心感・安堵感を与えるのでしょう。
きっと人の好みなので、
私の言ってることは、まぁ気にしないで。
★
すごく根本的なところから、
古典をわかりやすく説明しています。
どういうところから、
「カタカナ」は生まれ
(漢文の読み下しの記号からなんですね)
「ひらがな」が生まれたのか
(「和歌」や「物語」を書くために生まれたんですね)
それぞれ違う目的で生まれたっていうところとかを、
受験生が興味を持てるように(笑)、
わかりやすく説明しています。
(もち、最初の最初は万葉仮名のことから書いてます)
だから、
「漢文+カタカナ」の書き方で、
男性が書き始め、
「インテリは『漢文+カタカナ』で書くもの」
という流れが出来上がり、
ひらがなを差別していたとか、
「漢字+ひらがな」(和漢混混文)は、
鎌倉時代(兼好法師の『徒然草』以降)
にならないと出てこないだとか。
だから、『源氏物語』や『枕草子』がわからなくったって
当たり前なんだとか(笑)、
言われて見れば、
「そうだわ」ということが、
とても丁寧に親しみやすい文章で書かれています。
★
あと、和歌のお話の箇所では、
正岡子規同様(いや、正岡子規の影響か)、
源実朝が特筆されていました。
実朝って、なんだか、苛酷な環境化の尾崎豊って感じ……(ちょっと違うか……)
確かに、わかりやすい歌を書いているし
(有名な歌しかまだ読んでませんが……)、
本歌取り花盛りの時代の中で、
唯一「想い」をちゃんと書いている人らしいし。
(っていうか環境上それしか気持ちのやり場がないっていうか……)
またぐっと近い存在になりました。実朝。
★
こういう風に、
たとえ古典でも、
本を読んで、ダブって登場する人物って、
興味をそそられる。
知識が塗り重ねられて、興味深くなっていく。
「古典」と思うと、
難しそうで敬遠したくなるんだけれど、
「昔の人物」と思うと、知りたくなってくるし、
古典が好きだ、という人の、
「好きになってほしい光線」を発しながらの文章から入ると、
内容がつかみやすい。
「古典の原文を読む」という観点からいくと、
遠回りだし、
変な偏りをつける怖さもあるけれど、
原文を読んで、
きょとんとするよりは、
足がかりが出来ていい気がしてきた。
偏りは、
同じキーワード(例えば「実朝」とか)を元に、
いろんな人の文章に触れることで、
ある程度緩和される気がする。
そして、満を持して、原文を読む。
本当に古典は、読書量が勝負かもしれない。
★
橋本治氏の本にもどります。
橋本氏はまた、
「漢字+カタカナ」「漢字+ひらがな」は
前者は書き言葉、後者は話し言葉のルーツになっている、
ということにも触れています。
「自分達は、公式文書を漢文で書く。
でも自分達は、
ひらがなで書いたような日本語をしゃべる」
という矛盾が、
「漢文」をどんどん「漢字+ひらがな」にして、
「今の日本語」を作っていった。
つまり「おしゃべり(話し言葉)」を取り込んで、
自分達の文章を作ってきたということです。
で、ある時点から、
「書き言葉の文章」が、どこかで壁にぶつかった。
それで「活字離れ」が始まった。
この壁にぶつかった「書き言葉の文章」を
もう一度再生するためには、
「硬直化した書き言葉の中に、
生きている話し言葉をぶちこむ」しかないと、
橋本氏は言います。
この本の出版は、97年。約9年前です。
メールが(特にケータイのメール)が、
爆発的に広がる前の文章です。
ケータイのメールの言葉なんて、
基本的に、
あまりかしこまっていませんよね。
「おはよう!起きた?」
「おきたおきた」なんて話し言葉を、
メールを使って書き言葉にして、
会話したことなんてありませんか?
こういうのなんて、まさに、
『生きている話し言葉をぶちこむ』の
実現なんじゃないのかしら、と思うのです。
結果、ケータイ小説など、
今まででは考えられない媒体から、
小説は息を吹き返してきている。
そして、ひいき目もありますが、
「五行歌」が
抵抗なく受け入れられやすい、
時代は整いつつあるとも、
いえる気がします。
橋本氏の言った言葉をもじれば、
硬直化した詩歌の世界に、
生きている話し言葉をぶち込んだ定型ですからね。
実朝のように、
硬直化した環境化に生きている人に、
ひとつの表現方法として、
届いたらいいのになぁと思ってしまう。
受験生の頃、読んでたら、
古典も毛嫌いせずに済んだかも……と思ったり、
いやいや、大学に受かるためにって考え方がある限り、
この教養的な本を読む余裕はないよ、
と思い直したりする本でした。
人によっては、この余計な一言が、
切っ先をやらわらげ、
親しみや安心感・安堵感を与えるのでしょう。
きっと人の好みなので、
私の言ってることは、まぁ気にしないで。
★
すごく根本的なところから、
古典をわかりやすく説明しています。
どういうところから、
「カタカナ」は生まれ
(漢文の読み下しの記号からなんですね)
「ひらがな」が生まれたのか
(「和歌」や「物語」を書くために生まれたんですね)
それぞれ違う目的で生まれたっていうところとかを、
受験生が興味を持てるように(笑)、
わかりやすく説明しています。
(もち、最初の最初は万葉仮名のことから書いてます)
だから、
「漢文+カタカナ」の書き方で、
男性が書き始め、
「インテリは『漢文+カタカナ』で書くもの」
という流れが出来上がり、
ひらがなを差別していたとか、
「漢字+ひらがな」(和漢混混文)は、
鎌倉時代(兼好法師の『徒然草』以降)
にならないと出てこないだとか。
だから、『源氏物語』や『枕草子』がわからなくったって
当たり前なんだとか(笑)、
言われて見れば、
「そうだわ」ということが、
とても丁寧に親しみやすい文章で書かれています。
★
あと、和歌のお話の箇所では、
正岡子規同様(いや、正岡子規の影響か)、
源実朝が特筆されていました。
実朝って、なんだか、苛酷な環境化の尾崎豊って感じ……(ちょっと違うか……)
確かに、わかりやすい歌を書いているし
(有名な歌しかまだ読んでませんが……)、
本歌取り花盛りの時代の中で、
唯一「想い」をちゃんと書いている人らしいし。
(っていうか環境上それしか気持ちのやり場がないっていうか……)
またぐっと近い存在になりました。実朝。
★
こういう風に、
たとえ古典でも、
本を読んで、ダブって登場する人物って、
興味をそそられる。
知識が塗り重ねられて、興味深くなっていく。
「古典」と思うと、
難しそうで敬遠したくなるんだけれど、
「昔の人物」と思うと、知りたくなってくるし、
古典が好きだ、という人の、
「好きになってほしい光線」を発しながらの文章から入ると、
内容がつかみやすい。
「古典の原文を読む」という観点からいくと、
遠回りだし、
変な偏りをつける怖さもあるけれど、
原文を読んで、
きょとんとするよりは、
足がかりが出来ていい気がしてきた。
偏りは、
同じキーワード(例えば「実朝」とか)を元に、
いろんな人の文章に触れることで、
ある程度緩和される気がする。
そして、満を持して、原文を読む。
本当に古典は、読書量が勝負かもしれない。
★
橋本治氏の本にもどります。
橋本氏はまた、
「漢字+カタカナ」「漢字+ひらがな」は
前者は書き言葉、後者は話し言葉のルーツになっている、
ということにも触れています。
「自分達は、公式文書を漢文で書く。
でも自分達は、
ひらがなで書いたような日本語をしゃべる」
という矛盾が、
「漢文」をどんどん「漢字+ひらがな」にして、
「今の日本語」を作っていった。
つまり「おしゃべり(話し言葉)」を取り込んで、
自分達の文章を作ってきたということです。
で、ある時点から、
「書き言葉の文章」が、どこかで壁にぶつかった。
それで「活字離れ」が始まった。
この壁にぶつかった「書き言葉の文章」を
もう一度再生するためには、
「硬直化した書き言葉の中に、
生きている話し言葉をぶちこむ」しかないと、
橋本氏は言います。
この本の出版は、97年。約9年前です。
メールが(特にケータイのメール)が、
爆発的に広がる前の文章です。
ケータイのメールの言葉なんて、
基本的に、
あまりかしこまっていませんよね。
「おはよう!起きた?」
「おきたおきた」なんて話し言葉を、
メールを使って書き言葉にして、
会話したことなんてありませんか?
こういうのなんて、まさに、
『生きている話し言葉をぶちこむ』の
実現なんじゃないのかしら、と思うのです。
結果、ケータイ小説など、
今まででは考えられない媒体から、
小説は息を吹き返してきている。
そして、ひいき目もありますが、
「五行歌」が
抵抗なく受け入れられやすい、
時代は整いつつあるとも、
いえる気がします。
橋本氏の言った言葉をもじれば、
硬直化した詩歌の世界に、
生きている話し言葉をぶち込んだ定型ですからね。
実朝のように、
硬直化した環境化に生きている人に、
ひとつの表現方法として、
届いたらいいのになぁと思ってしまう。
受験生の頃、読んでたら、
古典も毛嫌いせずに済んだかも……と思ったり、
いやいや、大学に受かるためにって考え方がある限り、
この教養的な本を読む余裕はないよ、
と思い直したりする本でした。
いなだのつぼねツアーのとこでも触れましたが
鎌倉に行きたい理由のひとつ、しかも大きなわけは、実朝です。
6歳の頃見た大河ドラマ「草燃える」は鎌倉幕府源氏3代と北条家のドラマでした。
実朝役の篠田三郎がとてもかっこいいのと(最近DVDで総集編見ました)百人一首の 世の中は 常にもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも に彼の人生が現れているからか、彼が暗殺された鶴岡八幡宮に行きたいのです。(7歳の時一度行っていますが)
鎌倉で大仏さんにさわりながら、いろんな歴史にふれたいです。
古典苦手ですが、正岡子規の話ゆっくり読ませてもらってます。
知ってます?
『五行歌』の12月号か
1月号に、
実朝にふれた歌を書いた方がいたということを(笑)
(「……われてさけてくだけてちるかも」の歌だったかな)
日本史・文学史的な意味合いで、
実朝は知っていましたが、
こんなに愛されている歌人とは知りませんでした。
鶴岡八幡宮、全国歌会の時行きました。
あの時は、大仏のあるお寺(名前忘れた~)、
長谷寺、鶴岡八幡宮と行きました。
暗殺されたイチョウの木が、
とても大きかったのを覚えています。
あぁ~、ホント、いい季節の時に、
いなだのつぼねツアー、行きたいですね(笑)