日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

2008年6月の東大阪歌会(前半)

2008年06月01日 | 五行歌な日々
6月の東大阪歌会、4人。

前半の4首から。

     ★

       わたしは知らない
       黄泉までの
       距離
       睡蓮が
       知っている     増田幸三

       親切だって
       本能の一種
       社会的に
       容易(たやす)く出来なくなったら
       動物として危うくなるよ       稲田準子

       雨粒光る
       あじさい色の
       リスタート
      「いままでどうも
       ありがとう」            ほしかわなお

       鉢植えの
       か細い空木の
       花ざかり
       拝殿にひびく鈴のように
       風をうつ              須賀知子


増田さんの歌は、
1行目の「知らない」と2行目の「知っている」の対比。
印象には残るけど……、というところ。

自分にはわからないけれど、睡蓮ならばもしや、と
思わせられるほどの睡蓮の花。

アチラの世界を指す、「黄泉」という言い方も、お好きだとか。

稲田の歌は、
まぁいろいろごちゃっと思うものが重なって。

数年前に、ある人と斉藤孝さんの対談っぽいのを読んだことがあって、
斉藤さんが「『教育欲』っていう本能が人間にはあるんじゃないか?」
って言っていたのを最近思い出して。

「相手がいないと成立する見込みのない欲」だなぁと思ったのが、
新鮮で(相手がいても充足できるかどうかは、別だけど)。

「相手がいないと成立する見込みのない欲」が、
成立するなら、
「人に優しくしたい欲」ってのも、
成立するんじゃないかって、
思うことがあって。

この歌では簡潔に
「親切」という言葉で言ってるけど。

でね、
「人に優しくしたい欲」を、
「生存するための最低限のレベル」は保障するため、
良かれ悪しかれ、
人類がいろんな仕組みを作って、
築き上げてきたものが、
「社会」と呼ばれるものだとしたら。

そんな動物的な本能を充足させることが、
できなくなってるのが今の社会だと、思ったら。

あいさつをはじめとする、
モラルというレベルが、
保障できなくなっている社会。

人に優しくすることが、
相手が信じられなくなって、
したくても、
出来ない社会になっているのだとしたら。

この欲は、
相手が必要だけど、基準は主観だから、
いつの時代だろうと
手がかりも、手助けも難しく、
どんな人でも、
内面を苦悩させながら、希求してきた欲だろう。

だが、主観以前に、
欲を向けるべき「相手」が疑わしい社会って。

でも、欲は、
人が疑わしい時代になったからといって、
消えることはなく。

と、すれば、歪んだかたちになってでも、
出口を求め続けるわけで。

……ひどい危機感のはけ口っぽく、詠ってしまった。

ただ、詠うことで、
人は基本的に「人に優しくしたい欲」があるんだと、
思う自分を発見した。

歌会での話を聞くと、
少し伝わりにくかったかなとは
思ったけれど、
教育や学習という、
外から入ってくるものではなく、
本能的に持っているんだと、
「人というもの」を、
そんな風に見ようとする自分を発見した。

性善説派なんだなぁと(笑)

ほしかわさんの歌は、
いろんなことがあったけど、
悪いことも含めて、
「いままでどうも/ありがとう」という気持ち。

リスタート。
私は最初その言葉を見たとき、
音楽の専門用語と勘違いしてしまった(スタッカートの親戚?って・笑)

パソコンの再起動のことでした。

そのニュアンスで。

須賀さんの歌についても、
「空木(うつぎ)」を知りませんでした。
「空木(からぎ)」と読んで、
「朝顔のツタが絡まりやすくするために立てる棒?」
と、想像してました。お恥ずかしい……。

こんなきれいな花なのに。

歌会前に調べることが出来てよかったです(笑)

で、写真を見ると、
(私には)特に4行目がわかるのです。
わからないときは、「なんかダラっとしている感じもするな」と、
思っていたけれど、
空木の詳しいお話を聞くと、
「鈴でなくっちゃ。風でなくっちゃ。拝殿だよ拝殿」
と、この歌を過不足なく感じることが出来ました。

では、後半に続く(明日中には!)

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