日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

『歌よみに与ふる書』(正岡子規 岩波文庫)

2005年10月06日 | 五行歌以外の文学な日々
やっと……、やっと……、やっと……、正岡子規「歌よみに与ふる書」を読了した。

数年前、
三好茂弘さんが講師をやっていたNHK講座で、
少し興味を持っていたこと、
思ったより薄い本だったことから購入して、
それっきりになっていた。

何度読むのが、嫌になったか(笑)

思わず、寄り道して、五行歌の歌集を読み始めたりして、
そっちのほうが、先、読了してしまうし。

     ★

古文調な文章なので、
どこまで、正確に理解したかは、自信がないけれど、

一回読んで、本を見ずに思い出せること。

○古今・新古今がすごく、キライ。
 根拠は、
 「ほんまかいな、それ。見たとおり書いたとしたら、
  それ、嘘っぽいで。不自然やろ。
  縁語とかで、言葉遊びすな!」

○万葉集は好き。
 根拠は、
 「見たまんま、素直に書いている。だけれども、
  意識的に技巧に走っている奴も、途中からおるけどな」

○賀茂真淵がキライ。
 根拠は、
 「万葉集に着目したのはええとしても、その理解が足りひんわ。
  あほちゃう。
  その弟子の田安宗武(『天降言』あもりごと)のほうが、
  わかってるやん。
  よかったわぁ。源実朝(『金塊和歌集』)以来、ええと思える人見つけれて」

○橘曙覧に注目。
 根拠は、
 「万葉集の素朴でいいなぁと思うところの作風がこの人にはあり、
  だが、回帰しているわけじゃなく、今にあった言葉で詠っている。
  最近の和歌は『古今』『新古今』にある、言葉そのものを、まねているが、
  曙覧は、言葉は自分の言葉だが、万葉集が持つ特性のようなものを、
  かもし出している。そこらへんやねん、そこらへん!」

○俳句は空間的なものを盛り込めるが、時間的なものは盛り込めない。
 短歌は、時間的なものは盛り込めるが、間違えて説明やあらすじを入れてしまう。
 「俳句は、例えば「~や」と言えば、それですむ。
  (例えば『閑かさや』とかね)
  俳句を短歌バーションにして試しに書いてみようとすると、ようわかるわ。
  その点、短歌は、例えば31文字の中に、荒くれた波が、静まり返るまでの、
  時間的スパンが入れられるねん。の、かわり、つい、説明になりやすいねん。
  あれが、あかん。説明なんか、いらんっちゅーに」

こんな感じかなぁ……。
(多少、本の名前や人の名前の漢字を確認するために見ました)

     ★

読む前、私はてっきり、
リルケの「若き詩人への手紙」のようなものかと思っていた。
なんていうんだろう……、入門書?見たいなの。

が、実際は、
自分が書いている政治色が濃い雑誌(『日本』だったかな)の、
編集長をはじめとする人たちの、
俳句・短歌などの理解が、自分と違ってて、
いろいろ胸に葛藤を持ちながらも、
その誌面で、投書を貰ったものに対して、
はっきり、きっぱり言い返すという内容っぽかった。
(違うかな……そう思ったんだけれどな)

いくら私が古文チンプンカンプンでも、
ある特定の人に向かって書いていて、
ある暗黙の認識があって、攻撃的に書いている、
というのは途中からわかった。

その攻撃色が、どうも、
面食らってしまい、疲れた。

もちろん、これだけ長く読み継がれたものである。
普遍的なことは書いてあるんだけれど。

     ★

この時代のバイブルは、
「万葉集」ではなく「古今」「新古今」
だったんだな。

だから、子規が「万葉集」に着目したのは、
画期的だったのだろう。

で、草壁先生は、
今のバイブルの、
「万葉集」ではなく、「古代歌謡」と
言ってるんだよな。

なんとなく、構図としては、
似ているような気がする。
柔軟になれば、そんなに突拍子なことを、
言っているわけじゃないんだよな。

……というぐらいの理解です。

もうすこし、この本と私の、
距離を埋めたい気もするけれど、

さて、次は何を読もうかな。






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2 コメント

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Unknown (水野沙羅)
2005-10-08 14:32:47
以前は、丁寧なレス、有難うございました。短歌は説明的。私もそう思っていたので、うんうん、とうなづきながら読みました。
返信する
短歌は説明的。 (いなだっち)
2005-10-08 22:07:12
まあ、私が言ってるんじゃなく、

子規が言っているんですけどね。えへへ。(笑)



短歌が説明的……。

水野さんは、短歌は説明的と言うのは、

単なる特性として、そう思う、ということですか?

それとも、子規のように、否定的な感じですか?



私も書いていた頃を思い出すと、

そんなところ(説明的になること)で

悩んだかなぁと、

漠然と思い出したりしました。

つまり、

書き手として考えた場合、

子規の言うように、

短歌に対して、

多少否定的なニュアンスになります。



ただ、短歌を鑑賞する場合、

説明と説明じゃない境界線の

見分けって、難しいなぁと思ったりしました。



和歌の古文調なのもそうだけれど、

現代短歌でも。



果たして、子規のように、

きっぱりと批評的に言えるんだろうか、

と思います。



短歌は、どこが説明的か、

読んでてわかりにくいです。

読み込みが足りないせいかもしれないけれど(笑)



子規や誰かが指摘してたら、

「そ、そうなんですかねぇ」とうなづくばかり(笑)



五行歌は、わかりやすいですよ。

韻文(詩歌)なんだけれど、

短歌や俳句より、

詩、あるいは文章に、

限りなく近くかけますから、

リズム(呼吸)が乱れているかどうか、など、

チェックポイントが明確です。



でも、だからといって、

子規のようには、批判的には、言えないでしょうけれどね。

すっかり、「人の作品に手は触れない」ってのに、

慣れてますし、



説明的で、かつ、詩歌としての余韻を、

十分含有している歌もありますので、

一概に、説明的というのを否定的には、

五行歌に関しては、

いいにくいところがあるなぁと思っています。



     ★



私の拙い読解力なので、自信はないですが、

子規にとって、いいという短歌は、



強い感じで言っている歌だとか、

決まり文句を使わない、

客観的に景色を映した叙景歌だとかを、

挙げていますから、



確かに説明的な短歌になると、

勢いはそがれるし、

叙景歌だって、主観的になってしまうので、

子規の言いたいことは、

スジが通っていると思うんですけれどね。



割合の問題かな、と思ってしまう。



五行歌は、バラエティだから、

「まあ、説明的なのも、完成度が高ければ、

ありだよな」って思えるのかもしれないです。



が、

あまりにも、子規が登場するまで、

いや、登場した後も、

説明的な短歌が、

きっといらいらするほど、

多いんでしょうね。きっと。



その原因は、果たして、

あの字数だけのせいなんでしょうかね。



多分ね、説明的だけれど、いい短歌、っていうのも、

あると思うんですけれどね。



     ★



は。



すいません。

深みにはまって、沢山書いてしまいました。



驚かれないことを切に願います。

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