五行歌というものを知って半年の頃の97年12月の大阪歌会で、
私は、次のような歌を出している。
ニセモノと
呼ばれても 造花
手垢まみれの花弁を
くずかごの外へ
のけぞらせている
なにか、こう……、
とにかく、何かが足りない、と思いながら、
その時の精一杯で、提出したら、
ある方が、
私の歌の思い入れを聞いた上で、
「それなら、二行目の『造花』を、体言止めにするんじゃなくて、
『造花は』にしたほうが、通じる」
と仰ってくださり、痛恨の痛みを感じたことがある。
「は」という助詞が思い浮かばなかった自分に、腹がたったのだ。
で、普通、
「この歌で、助詞の大切さを学べた。よし、次行こう」
という感じで、
歌集を作る段階になるまで、書き終えた歌を振り向く事は、
ほとんどないのだが、
この歌に限っては、何故か、
機会があれば、「造花は」に改作しなおして、
どこかに出したいと、思っていた。
★
その大阪歌会から5年が経ち、
機会は訪れた。
ネットでも縦書きで歌が投稿できるようになって、
一時期はまったことがある。
今はもう閉鎖されているけれど、「公園通り」と呼ばれるところ。
あぁ、ここならいいかな、と思って、
その造花の歌を出そうと思ったんだけれど、
最後の最後で、下手な推敲をしてしまった。
手垢まみれの花弁を
くずかごの外へ
のけぞらせて
艶やかであろうとする
造花の意地だな
……。
なんだよ、これ。
この造花に対する偉そうな態度は。
今読んでも、人にお披露目した自分が許せない。
あほちゃう、と思っちゃう。
もう、このモチーフを扱うには、
私はあまりにもお子ちゃまなんだと、
己の器を知った。
造花というものを、わかっちゃいなかったんだと、悟った。
二度とお披露目なんかは、考えないようにしようと思った。
★
さらに時は過ぎて、3年後。
今年の歌誌『五行歌』8月号を数日前に読み終えた時、
みたび、造花の歌が、頭をよぎった。
気持ちが成仏するかたちで、頭の中をよぎった。
「造花」というものから感じるもの、
私は、こういうものを、見い出だし、追いかけようとして、
追いつけていなかったのか、と思った。
そう思わせてくれた、造花の歌を見つけた。
厳密に言うと、
作品評で取り上げられていて気がついたから、
歌誌6月号の歌なんだけど。
見落としていました。
作者の方にはもちろん、
作品評に取り上げられた、三好茂弘さまにも、
深い感謝を込めて、
こちらに転載します。
咲き誇る
造花の
悲しみは
きっと
咲きつづけることだろう 其田英一
★
技術的なポイントとしては、
五行目の「咲きつづけることだろう」の余韻が、
効いているのかもしれない。
が、私も、三好さんと同様、
キーワードは「悲しみ」のほうかな、と思う。
造花にとっては、咲き誇ることが「悲しみ」なのだと知る衝撃。
生花だったら、味あわなくてすむ「悲しみ」だ。
★
私は、造花が咲きつづけることを、「意地」だと捉えていた。
そこに、思いの浅さがあった。
それでも、97年に書いた歌は、
意地の具体性を書く事で、
「悲しみ」を漂わせようとした片鱗はある。
が、おそらく、最後の最後で、
『造花』と体言止めにしたのは、
「悲しみ」まで思いを馳せることが出来ず、
「意地」に目を奪われたせいだろう。
体言止めにすることで、語気を強め、
「意地」を強調しようとした意図を、
今客観的に読んで、感じる。
ネットのほうではかなり改作して、
「意地」って、あからさまに言ってるし。
二回目は、造花そのものを見て、
詠っているわけじゃない。
推敲したというよりも、
一回目の歌を「本歌取り」的に詠った結果、
造花そのものから、遠ざかってしまった節を感じる。
ホント、おばか。
★
「意地」と「悲しみ」の違いは大きい。
例えば、想像してほしい。
自分がウィークポイントだと思うことを、
人に指摘される前に、自分で言うってことって、
ありません?
逆に言うと、それって、
他人に言われると、傷ついて無口になったり、
反発したりするから、
そういう態度を未然に防ぐための、
自己防衛だと思うんだけど。
私の歌は、
枯れることはないが、
ゴミ箱の中へ
枯れてもいないのに、
捨てられていく造花が、
ゴミ箱を、花瓶と見なして、
咲いているように捉えたことから、
「お前、意地はってんな」と
造花に向かって、
言ったような感じかもしれない。
造花にとって、一番言われたくない言葉を、
言い放ったようなものかもしれない。
それは、造花を洞察したことにはなっても、
その洞察を活かしきったとは言えない。
★
意地を張る造花を、
プライドを保とうとする造花を、
そのすべての姿勢を、
肯定も否定もしない、
見守るようなまなざしみたいだ。
其田さんの歌に盛り込まれた「悲しみ」という言葉は。
とても深いやさしい愛情から紡がれているのだろう。
其田さん。
直接お手紙を書こうかとふと思ったけど、
照れが先立って、書けそうにない。
2年前に九州へ行ったとき、
お会いしたことがあったけど、
入院される数日前のことだった。
今はどうなんだろう。
入退院を繰り返しているようなことを
聞いたことがある気がしているけれど。
このことは、直接お会いしたときに、伝えよう。
(お会いすることがある人は、伝えてくださってかまわないですけど)
きっと、いつか会える。
どうかそれまでお元気で。
いや、その後もずっと、元気でいてください。
私は、次のような歌を出している。
ニセモノと
呼ばれても 造花
手垢まみれの花弁を
くずかごの外へ
のけぞらせている
なにか、こう……、
とにかく、何かが足りない、と思いながら、
その時の精一杯で、提出したら、
ある方が、
私の歌の思い入れを聞いた上で、
「それなら、二行目の『造花』を、体言止めにするんじゃなくて、
『造花は』にしたほうが、通じる」
と仰ってくださり、痛恨の痛みを感じたことがある。
「は」という助詞が思い浮かばなかった自分に、腹がたったのだ。
で、普通、
「この歌で、助詞の大切さを学べた。よし、次行こう」
という感じで、
歌集を作る段階になるまで、書き終えた歌を振り向く事は、
ほとんどないのだが、
この歌に限っては、何故か、
機会があれば、「造花は」に改作しなおして、
どこかに出したいと、思っていた。
★
その大阪歌会から5年が経ち、
機会は訪れた。
ネットでも縦書きで歌が投稿できるようになって、
一時期はまったことがある。
今はもう閉鎖されているけれど、「公園通り」と呼ばれるところ。
あぁ、ここならいいかな、と思って、
その造花の歌を出そうと思ったんだけれど、
最後の最後で、下手な推敲をしてしまった。
手垢まみれの花弁を
くずかごの外へ
のけぞらせて
艶やかであろうとする
造花の意地だな
……。
なんだよ、これ。
この造花に対する偉そうな態度は。
今読んでも、人にお披露目した自分が許せない。
あほちゃう、と思っちゃう。
もう、このモチーフを扱うには、
私はあまりにもお子ちゃまなんだと、
己の器を知った。
造花というものを、わかっちゃいなかったんだと、悟った。
二度とお披露目なんかは、考えないようにしようと思った。
★
さらに時は過ぎて、3年後。
今年の歌誌『五行歌』8月号を数日前に読み終えた時、
みたび、造花の歌が、頭をよぎった。
気持ちが成仏するかたちで、頭の中をよぎった。
「造花」というものから感じるもの、
私は、こういうものを、見い出だし、追いかけようとして、
追いつけていなかったのか、と思った。
そう思わせてくれた、造花の歌を見つけた。
厳密に言うと、
作品評で取り上げられていて気がついたから、
歌誌6月号の歌なんだけど。
見落としていました。
作者の方にはもちろん、
作品評に取り上げられた、三好茂弘さまにも、
深い感謝を込めて、
こちらに転載します。
咲き誇る
造花の
悲しみは
きっと
咲きつづけることだろう 其田英一
★
技術的なポイントとしては、
五行目の「咲きつづけることだろう」の余韻が、
効いているのかもしれない。
が、私も、三好さんと同様、
キーワードは「悲しみ」のほうかな、と思う。
造花にとっては、咲き誇ることが「悲しみ」なのだと知る衝撃。
生花だったら、味あわなくてすむ「悲しみ」だ。
★
私は、造花が咲きつづけることを、「意地」だと捉えていた。
そこに、思いの浅さがあった。
それでも、97年に書いた歌は、
意地の具体性を書く事で、
「悲しみ」を漂わせようとした片鱗はある。
が、おそらく、最後の最後で、
『造花』と体言止めにしたのは、
「悲しみ」まで思いを馳せることが出来ず、
「意地」に目を奪われたせいだろう。
体言止めにすることで、語気を強め、
「意地」を強調しようとした意図を、
今客観的に読んで、感じる。
ネットのほうではかなり改作して、
「意地」って、あからさまに言ってるし。
二回目は、造花そのものを見て、
詠っているわけじゃない。
推敲したというよりも、
一回目の歌を「本歌取り」的に詠った結果、
造花そのものから、遠ざかってしまった節を感じる。
ホント、おばか。
★
「意地」と「悲しみ」の違いは大きい。
例えば、想像してほしい。
自分がウィークポイントだと思うことを、
人に指摘される前に、自分で言うってことって、
ありません?
逆に言うと、それって、
他人に言われると、傷ついて無口になったり、
反発したりするから、
そういう態度を未然に防ぐための、
自己防衛だと思うんだけど。
私の歌は、
枯れることはないが、
ゴミ箱の中へ
枯れてもいないのに、
捨てられていく造花が、
ゴミ箱を、花瓶と見なして、
咲いているように捉えたことから、
「お前、意地はってんな」と
造花に向かって、
言ったような感じかもしれない。
造花にとって、一番言われたくない言葉を、
言い放ったようなものかもしれない。
それは、造花を洞察したことにはなっても、
その洞察を活かしきったとは言えない。
★
意地を張る造花を、
プライドを保とうとする造花を、
そのすべての姿勢を、
肯定も否定もしない、
見守るようなまなざしみたいだ。
其田さんの歌に盛り込まれた「悲しみ」という言葉は。
とても深いやさしい愛情から紡がれているのだろう。
其田さん。
直接お手紙を書こうかとふと思ったけど、
照れが先立って、書けそうにない。
2年前に九州へ行ったとき、
お会いしたことがあったけど、
入院される数日前のことだった。
今はどうなんだろう。
入退院を繰り返しているようなことを
聞いたことがある気がしているけれど。
このことは、直接お会いしたときに、伝えよう。
(お会いすることがある人は、伝えてくださってかまわないですけど)
きっと、いつか会える。
どうかそれまでお元気で。
いや、その後もずっと、元気でいてください。
いつもながら、ご自分の歌を深く掘り下げるところ、
すごいなぁと感じます。
私はいつも歌いっぱなしで終わってますから。
其田さん 歌といっしょで、とてもすてきな方ですよね。
いい歌にめぐり合うと、
「あぁ、これがわかっていなかったのか」って、
照らし出されてしまいます。
忘れていたのに、よみがえってしまう。
引きずりだされてしまいます。
自分で自覚してないだけで、
案外、ひきずって、クヨクヨするほうなのかも、
知れないです。
歌いっぱなしで終わるということは、
常に、前へ前へと進んでいるからだと思いますよ。
★
其田さん、一回だけの面識ですが、
心が震えるような心地がしました。
上手く言えないんですけど。
すごく遠くを見ていらっしゃるような印象がしました。
自分の歌集、とても読んでいただきたくて、
普通は事前に贈ることを連絡させてもらうのですが、
入院されているかもしれないと思い、
わずらわしいかな、と考え、
捨てられることを覚悟で、
一方的に送ったら、
絵と五行歌を添えて、
感想を書かれた葉書を送ってくださいました。
その絵と五行歌が、またこれ、
よかったんだよなぁ~。
素音さんほど、存じ上げてないですが、
素敵な方だと私も思います。