日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

造花の歌

2005年08月26日 | 五行歌な日々
五行歌というものを知って半年の頃の97年12月の大阪歌会で、
私は、次のような歌を出している。


     ニセモノと
     呼ばれても 造花
     手垢まみれの花弁を
     くずかごの外へ
     のけぞらせている


なにか、こう……、
とにかく、何かが足りない、と思いながら、
その時の精一杯で、提出したら、
ある方が、
私の歌の思い入れを聞いた上で、

「それなら、二行目の『造花』を、体言止めにするんじゃなくて、
『造花は』にしたほうが、通じる」

と仰ってくださり、痛恨の痛みを感じたことがある。
「は」という助詞が思い浮かばなかった自分に、腹がたったのだ。

で、普通、
「この歌で、助詞の大切さを学べた。よし、次行こう」
という感じで、
歌集を作る段階になるまで、書き終えた歌を振り向く事は、
ほとんどないのだが、

この歌に限っては、何故か、
機会があれば、「造花は」に改作しなおして、
どこかに出したいと、思っていた。

     ★

その大阪歌会から5年が経ち、
機会は訪れた。

ネットでも縦書きで歌が投稿できるようになって、
一時期はまったことがある。

今はもう閉鎖されているけれど、「公園通り」と呼ばれるところ。

あぁ、ここならいいかな、と思って、
その造花の歌を出そうと思ったんだけれど、
最後の最後で、下手な推敲をしてしまった。


     手垢まみれの花弁を
     くずかごの外へ
     のけぞらせて
     艶やかであろうとする
     造花の意地だな


……。
なんだよ、これ。
この造花に対する偉そうな態度は。
今読んでも、人にお披露目した自分が許せない。
あほちゃう、と思っちゃう。

もう、このモチーフを扱うには、
私はあまりにもお子ちゃまなんだと、
己の器を知った。

造花というものを、わかっちゃいなかったんだと、悟った。
二度とお披露目なんかは、考えないようにしようと思った。

     ★

さらに時は過ぎて、3年後。

今年の歌誌『五行歌』8月号を数日前に読み終えた時、
みたび、造花の歌が、頭をよぎった。

気持ちが成仏するかたちで、頭の中をよぎった。

「造花」というものから感じるもの、
私は、こういうものを、見い出だし、追いかけようとして、
追いつけていなかったのか、と思った。

そう思わせてくれた、造花の歌を見つけた。

厳密に言うと、
作品評で取り上げられていて気がついたから、
歌誌6月号の歌なんだけど。

見落としていました。

作者の方にはもちろん、
作品評に取り上げられた、三好茂弘さまにも、
深い感謝を込めて、
こちらに転載します。


     咲き誇る
     造花の
     悲しみは
     きっと
     咲きつづけることだろう   其田英一


     ★

技術的なポイントとしては、
五行目の「咲きつづけることだろう」の余韻が、
効いているのかもしれない。
が、私も、三好さんと同様、
キーワードは「悲しみ」のほうかな、と思う。

造花にとっては、咲き誇ることが「悲しみ」なのだと知る衝撃。
生花だったら、味あわなくてすむ「悲しみ」だ。

     ★

私は、造花が咲きつづけることを、「意地」だと捉えていた。
そこに、思いの浅さがあった。

それでも、97年に書いた歌は、
意地の具体性を書く事で、
「悲しみ」を漂わせようとした片鱗はある。
が、おそらく、最後の最後で、
『造花』と体言止めにしたのは、
「悲しみ」まで思いを馳せることが出来ず、
「意地」に目を奪われたせいだろう。

体言止めにすることで、語気を強め、
「意地」を強調しようとした意図を、
今客観的に読んで、感じる。

ネットのほうではかなり改作して、
「意地」って、あからさまに言ってるし。

二回目は、造花そのものを見て、
詠っているわけじゃない。
推敲したというよりも、
一回目の歌を「本歌取り」的に詠った結果、
造花そのものから、遠ざかってしまった節を感じる。

ホント、おばか。

     ★

「意地」と「悲しみ」の違いは大きい。

例えば、想像してほしい。

自分がウィークポイントだと思うことを、
人に指摘される前に、自分で言うってことって、
ありません?

逆に言うと、それって、
他人に言われると、傷ついて無口になったり、
反発したりするから、
そういう態度を未然に防ぐための、
自己防衛だと思うんだけど。

私の歌は、

枯れることはないが、
ゴミ箱の中へ
枯れてもいないのに、
捨てられていく造花が、
ゴミ箱を、花瓶と見なして、
咲いているように捉えたことから、

「お前、意地はってんな」と
造花に向かって、
言ったような感じかもしれない。

造花にとって、一番言われたくない言葉を、
言い放ったようなものかもしれない。

それは、造花を洞察したことにはなっても、
その洞察を活かしきったとは言えない。

     ★

意地を張る造花を、
プライドを保とうとする造花を、
そのすべての姿勢を、
肯定も否定もしない、
見守るようなまなざしみたいだ。

其田さんの歌に盛り込まれた「悲しみ」という言葉は。
とても深いやさしい愛情から紡がれているのだろう。

其田さん。

直接お手紙を書こうかとふと思ったけど、
照れが先立って、書けそうにない。

2年前に九州へ行ったとき、
お会いしたことがあったけど、
入院される数日前のことだった。

今はどうなんだろう。

入退院を繰り返しているようなことを
聞いたことがある気がしているけれど。

このことは、直接お会いしたときに、伝えよう。
(お会いすることがある人は、伝えてくださってかまわないですけど)

きっと、いつか会える。

どうかそれまでお元気で。
いや、その後もずっと、元気でいてください。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (素音)
2005-08-27 14:12:50
こんにちは



いつもながら、ご自分の歌を深く掘り下げるところ、

すごいなぁと感じます。



私はいつも歌いっぱなしで終わってますから。



其田さん 歌といっしょで、とてもすてきな方ですよね。
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案外クヨクヨと其田さん (いなだっち)
2005-08-28 09:10:47
掘り下げるというか、

いい歌にめぐり合うと、

「あぁ、これがわかっていなかったのか」って、

照らし出されてしまいます。

忘れていたのに、よみがえってしまう。

引きずりだされてしまいます。



自分で自覚してないだけで、

案外、ひきずって、クヨクヨするほうなのかも、

知れないです。



歌いっぱなしで終わるということは、

常に、前へ前へと進んでいるからだと思いますよ。



     ★



其田さん、一回だけの面識ですが、

心が震えるような心地がしました。

上手く言えないんですけど。



すごく遠くを見ていらっしゃるような印象がしました。



自分の歌集、とても読んでいただきたくて、

普通は事前に贈ることを連絡させてもらうのですが、

入院されているかもしれないと思い、

わずらわしいかな、と考え、

捨てられることを覚悟で、

一方的に送ったら、

絵と五行歌を添えて、

感想を書かれた葉書を送ってくださいました。



その絵と五行歌が、またこれ、

よかったんだよなぁ~。



素音さんほど、存じ上げてないですが、

素敵な方だと私も思います。
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