近畿圏以外の人には、わかってもらえないと思うけど、明石では、『FM802』(大阪のFM局なのね)が聞けないでいた。
明石全域が聞こえないわけではなくて、
大体、西明石駅より西の方向へ遠ざかるほど、聞けないという状態で
(だから、車で移動していると、途中から聞こえるようになるんだけど)。
うちは、西明石より西だったから、聞こえなかったのねー。
もちろん、神戸のFMは聞ける。
でも、なぁ~んか好きになれなくて、
FMラジオを聞くということが、
向こうの生活の中では、あまり習慣づかなかった。
「見る」と「聞く」と、
両方しないと、微妙にわからないTVを
つけっぱなしにして、
台所のことをしたりなんかしていた。
(ちなみに、この時つけていたのは、
大概『ちちんぷいぷい』でした。
と、また一部の人しかわからないことを、
つぶやいていたりなんかして……)
が、こちらに引っ越して、
聞こえるわ聞こえるわ『FM802』。
明石に引っ越す前の、
大阪の家でも、
1Fだったせいか、
アンテナを伸ばして、かつ、めったに使わない部屋じゃないと、
聞こえなかったのに。
今や、場所を選ばず、
どこの部屋にラジオを置いても、
アンテナを伸ばすことなく聞くことができる。
ごみ捨ての時とかは、
時間のロスを感じる9Fだけど、
こんなところに、利点があるとは!と、
ちょっと嬉しくなって、
フリーセルをしたり、ご飯を作ったりするときは、
TVよりも、FMを聞くようになった。
それで、発見したことがある。
あなたは、文章を書いたり、詩歌を書いたりするのを、
音楽(朗読、説法でもいいですが・笑)を聴きながら
できる人?できない人?
★
私はできない人。
といっても、
最初は何かしらの音を求める。
ただ、それは、
自分のためというよりは、
部屋のため、という気がする。変な言い方だけど。
机の上で、「さ、やらなきゃ」と思うと、
自分の体から発する何かが、
空気に伝わって、
「な、なにかやりはるんですか!?」という感じで、
部屋が緊張するのだ。
なので、部屋に気を使って、
音楽を流す。そんな感じ。
そうやって、
部屋の空気を和ませてあげると、
しばらくして、
今度は、その和んだ部屋の空気を、
自分の毛穴が吸い上げるようになって。
そんな風な、部屋と私をほぐす循環を、
最初に求めるため、
その仲介役として、音楽を流す。
つまり、
歌に集中する前の段階として、
部屋と自分の一体化を図らないと
だめなようだ。
んでもって、そうやって、
自分と部屋が一体となって、
しばらく過ごしていくと、
ある段階で、
急に自分が、
小さくて吸引力がすごい穴に、
吸い寄せられる瞬間が訪れる。
歌(言葉)の世界に、
自分が、
ワープする瞬間だ。
その時から、
音がものすごく、
大きな音量に聞こえるようになる。
もうこうなると、
どんなヒーリング音楽もだめ。妨げ。邪魔。
部屋と自分の浸透圧が完全に一致して、
仲介役の音楽を全く必要としなくなる。
部屋と自分を一体化させるのには、
音楽は必要なんだけど、
そこから先の、
真空の世界には、自分の思いひとつで行くしかなくなる。
といっても、
もはや部屋は、私の手中にあるが。
★
それは、眠りに落ちる瞬間にも似ている。
寝る前に、音楽を小さめに聞きながら、
目を瞑ることは、リラックスにつながる。
しかし、眠りに落ちた瞬間、
その音楽は、
別にボリュームを上げたわけでもないのに、
急に大きく聞こえて、
眠りの谷間から引き上げられてしまう。
で、音楽を切るんだけど、
その一連の動作で、
こころもからだも眠りから遠ざかる。
そんな感覚によく似ている。
★
ただ、このセオリーが
全ての作歌風景に当てはまるものかといわれると、
そうではない。
私は、どちらかというと、
喫茶店で作歌したり、推敲したりする。
そっちのほうが実際は多い。
喫茶店は、言わずもがな、音楽が鳴っている。
人の声も聞こえている。
でもできちゃう。書けちゃう。
集中というか、真空状態になっても、
音は妨げにならない。
多分とでしか、説明できないんだけど、
喫茶店は、
私だけの部屋空間ではないからだろう。
私が「さ、やるぞ!」と思っても、
「なんかやりはるんですか!?」と、
別に聞いてこないもの。喫茶店の部屋は。
喫茶店の空気は、
私が気を使わなくても、
多分、お店の人が、飼い慣らしているから。
私は無責任でいいからなんだろう。
うまく説明できているとは思えないけど(笑)
多分、そうなんだろう。
★
きっとこれは、人によって、
個人差があるんだろうなぁー。
昔、誰かに聞いたのは、
「何気に音楽を聴いていたら、
ある歌詞に引っかかって、
そこからぱーっと開いてきて、
歌ができることがあるので、
何かしら音楽を流している」っていうもの。
なるほどなー、と思ったりする。
千差万別であろう作歌風景の
1000分の1のお話でした。
明石全域が聞こえないわけではなくて、
大体、西明石駅より西の方向へ遠ざかるほど、聞けないという状態で
(だから、車で移動していると、途中から聞こえるようになるんだけど)。
うちは、西明石より西だったから、聞こえなかったのねー。
もちろん、神戸のFMは聞ける。
でも、なぁ~んか好きになれなくて、
FMラジオを聞くということが、
向こうの生活の中では、あまり習慣づかなかった。
「見る」と「聞く」と、
両方しないと、微妙にわからないTVを
つけっぱなしにして、
台所のことをしたりなんかしていた。
(ちなみに、この時つけていたのは、
大概『ちちんぷいぷい』でした。
と、また一部の人しかわからないことを、
つぶやいていたりなんかして……)
が、こちらに引っ越して、
聞こえるわ聞こえるわ『FM802』。
明石に引っ越す前の、
大阪の家でも、
1Fだったせいか、
アンテナを伸ばして、かつ、めったに使わない部屋じゃないと、
聞こえなかったのに。
今や、場所を選ばず、
どこの部屋にラジオを置いても、
アンテナを伸ばすことなく聞くことができる。
ごみ捨ての時とかは、
時間のロスを感じる9Fだけど、
こんなところに、利点があるとは!と、
ちょっと嬉しくなって、
フリーセルをしたり、ご飯を作ったりするときは、
TVよりも、FMを聞くようになった。
それで、発見したことがある。
あなたは、文章を書いたり、詩歌を書いたりするのを、
音楽(朗読、説法でもいいですが・笑)を聴きながら
できる人?できない人?
★
私はできない人。
といっても、
最初は何かしらの音を求める。
ただ、それは、
自分のためというよりは、
部屋のため、という気がする。変な言い方だけど。
机の上で、「さ、やらなきゃ」と思うと、
自分の体から発する何かが、
空気に伝わって、
「な、なにかやりはるんですか!?」という感じで、
部屋が緊張するのだ。
なので、部屋に気を使って、
音楽を流す。そんな感じ。
そうやって、
部屋の空気を和ませてあげると、
しばらくして、
今度は、その和んだ部屋の空気を、
自分の毛穴が吸い上げるようになって。
そんな風な、部屋と私をほぐす循環を、
最初に求めるため、
その仲介役として、音楽を流す。
つまり、
歌に集中する前の段階として、
部屋と自分の一体化を図らないと
だめなようだ。
んでもって、そうやって、
自分と部屋が一体となって、
しばらく過ごしていくと、
ある段階で、
急に自分が、
小さくて吸引力がすごい穴に、
吸い寄せられる瞬間が訪れる。
歌(言葉)の世界に、
自分が、
ワープする瞬間だ。
その時から、
音がものすごく、
大きな音量に聞こえるようになる。
もうこうなると、
どんなヒーリング音楽もだめ。妨げ。邪魔。
部屋と自分の浸透圧が完全に一致して、
仲介役の音楽を全く必要としなくなる。
部屋と自分を一体化させるのには、
音楽は必要なんだけど、
そこから先の、
真空の世界には、自分の思いひとつで行くしかなくなる。
といっても、
もはや部屋は、私の手中にあるが。
★
それは、眠りに落ちる瞬間にも似ている。
寝る前に、音楽を小さめに聞きながら、
目を瞑ることは、リラックスにつながる。
しかし、眠りに落ちた瞬間、
その音楽は、
別にボリュームを上げたわけでもないのに、
急に大きく聞こえて、
眠りの谷間から引き上げられてしまう。
で、音楽を切るんだけど、
その一連の動作で、
こころもからだも眠りから遠ざかる。
そんな感覚によく似ている。
★
ただ、このセオリーが
全ての作歌風景に当てはまるものかといわれると、
そうではない。
私は、どちらかというと、
喫茶店で作歌したり、推敲したりする。
そっちのほうが実際は多い。
喫茶店は、言わずもがな、音楽が鳴っている。
人の声も聞こえている。
でもできちゃう。書けちゃう。
集中というか、真空状態になっても、
音は妨げにならない。
多分とでしか、説明できないんだけど、
喫茶店は、
私だけの部屋空間ではないからだろう。
私が「さ、やるぞ!」と思っても、
「なんかやりはるんですか!?」と、
別に聞いてこないもの。喫茶店の部屋は。
喫茶店の空気は、
私が気を使わなくても、
多分、お店の人が、飼い慣らしているから。
私は無責任でいいからなんだろう。
うまく説明できているとは思えないけど(笑)
多分、そうなんだろう。
★
きっとこれは、人によって、
個人差があるんだろうなぁー。
昔、誰かに聞いたのは、
「何気に音楽を聴いていたら、
ある歌詞に引っかかって、
そこからぱーっと開いてきて、
歌ができることがあるので、
何かしら音楽を流している」っていうもの。
なるほどなー、と思ったりする。
千差万別であろう作歌風景の
1000分の1のお話でした。
歌をつくる時に「音」は関係ありませんが、清書の時は静かな方が好ましいです。あ、あとは選歌の時も、静かなのがベストですね。こうして考えると、関係ないのはつくる時だけですね。
最後になりましたが、お久しぶりです(笑)。明石にいらっしゃる時にお会い出来ず、残念でした。
人のざわめきの方が集中はできます。
スタバが書斎になることが多いです。隣のおばちゃんが煩いと
若干能\率下がりますが〆切りが近いとあまり関係なく集中できますね(笑)
音よりもシチュエーションですかね?
じっと机の上で書くのが苦痛なのであちこち出歩いたりしています。
水野さま。
おひさしぶりでございます。m(__)m
>時間も場所も関係ありません。
「詠う(思う)」場合は、
私も同じような感じなんですが、
悔しいことに、私はよく忘れます。フレーズを。
台所にいるときは、
電話台の上のメモ用紙なんかに、
五行ではありませんが、思い浮かんだものを、
書き留めておいたりするんですが、
例えば、帰り道に浮かんだものは、
家に帰った頃には、忘れてしまいます。
で、また、翌日、
帰り道の思い浮かんだ場所に行くと、
「あ、これこれ!」って感じで、
思い出すんですけど、また忘れる(笑)
それが重なって、
言葉ではなく、ニュアンスが、
ちゃんと胸に沈んだら、
喫茶店とか、自分の部屋で、
帰り道に見た景色とかを、
ふと思い出して(バーチャルになるんですな)、
そこから言葉が出る場合もありますが、
その背景に、
「歌にしたい!!」と切実な欲がないと、
言葉までには行き着きません。
>歌をつくる時に「音」は関係ありませんが、清書の時は静かな方が好ましいです。あ、あとは選歌の時も、静かなのがベストですね。
そうそう!!
清書(歌う)のときは、
静かなほうがいい気がします。
以前、伊古奈の中の『花筐』という喫茶店で、
歌会をさせてもらったとき、
BGMが流れていたのですが、
私だけがすごく苦痛で(他の人は平気だった)、
消してほしいとお願いしたことがあります。
読ませてもらっている人の五行歌の世界が、
どんな内容であろうと、
BGMが醸し出す雰囲気が流れ込んでくるのが、
苦痛でした。
リラックスして読めるとか、
歌の内容とBGMが結びついて、
相乗効果になる場合もあるんでしょうけど、
どうしても私には駄目でしたね。
>明石にいらっしゃる時にお会い出来ず、残念でした。
はい。私も残念でした。
遠方でいらっしゃるので、
強く押すことはできませんが、
チャンスがあれば、こちらの歌会にでも、
またいらしてくださいませ
>スタバが書斎になることが多いです。
私も、明石では、スタバでした
その前の大阪に住んでいたときは、
ドトールだったんですが、
今は、近くにそういうカフェがないので、辛いです。
いや、足を伸ばせば、ドトールはあるんですが、
一度行ってみたら、子供がぎゃあぎゃあ騒いでて、
それがトラウマで、もう行けなくなっちゃって。
あと、独身の頃に行ってた、
普通のお店の喫茶店も、
足を伸ばせばあるにはあるんですが、
どうも壁が……なんでだろう?
とにかく今は、
私を歌わせてくれる、喫茶店募集中です(笑)
>音よりもシチュエーションですかね?
それも言えるんですけどね。
歌に限らないかもしれませんが、
集中して、
真空状態になった場合、
いろんな五感が、鋭くなってたりしませんか?
私の場合、家でそういう状態になっている最中に、
夫が帰ってきたりすると、
その鍵を開ける音だけで、
驚いて、
「ぎゃぁぁぁぁああ!」と、悲鳴を上げることがあります。
そして、よく叱られる(笑)
もう、トランス状態とか幽体離脱に近いかも(笑)
無理やり現実に戻ろうとすると、からだ重いし。
喫茶店だと、無理やり現実に戻る可能性は低いですよね。あぁだからかも……。
本当にはやく、行きつけにする喫茶店を探さなければ、と、切実に思えてきました
すんごく集中しているから気にならない!
とかではないです。
ケイタイを取り出して、在庫に入力しときます。
でも、わざわざ音楽をかけるのはダメかもです。
聴くほうに耳がいっちゃいそうです。
てゆか、聴くために音楽があるんだと思うのです。
歌詞とか、きになるので(…邦楽かい)。
…あたし、ゆるゆるだ……orz
しぜんに、はじめから流れているような音は、まったく平気(雑踏とかでも平気だし、お店のBGMも平気)です。
それもありますよね~。
でも、厳密には、私の場合、
途中から、
「聞こえているけど、聞こえない」という
かすかな切り替えがある感じかなぁ。
の、割には、
五感は研ぎ澄まされていると思う自分は、
なんなんでしょう(笑)
>ケイタイを取り出して、在庫に入力しときます。
これは、歌のことですか?
まれのまれのまれーに、
ケータイ保存はするんですけど、
親指で押すことで、
「歌を書く」というのでは、
私には遅くって、間に合わないんですよ。
例えば、ノートで書いていたりすると、
歌が頭の中から消えてしまうので、
間違えた字を書いてもへーきに書き留めます。
で、とりあえず書き終えて、
そこから、まだ時間があれば、
正確な文字をもう一度模索したり、
二重線引いて隣に言い回しを変えたのを書いてみたり、
矢印を書き足して、順番をいじくってみたり、
ぐちゃぐちゃになるまで、書き足せるし、
歌の変化の変遷が残せるんで、
思考的に、ケータイはだめなようです。
ケータイの場合、性格のせいか、
正確な文字を問われると、
正確な文字が出るまで、
まず、ついつい探しちゃうんですよ。
んで、肝心の歌全体を、どじょうのように、
するするするっと逃がしてしまう。
だからといって、
帰り道にひらめいたからといって、
とりあえず道の横によけて、ノートを取り出して、
書き留めるというマメさもなく(笑)
それなら、ケータイでとりあえず、
書き留めるということを学習したらいいのにねぇ(笑)
>でも、わざわざ音楽をかけるのはダメかもです。
聴くほうに耳がいっちゃいそうです。
てゆか、聴くために音楽があるんだと思うのです。
歌詞とか、きになるので(…邦楽かい)。
邦楽は絶対だめですね。極力かけない。
歌詞と自分が歌いたいものを
引っ掛けて、配合して、
オリジナルの言葉にしていく人もいるんでしょうけど。
仲介役の音楽は、
洋楽か、インストメンタルでないと。
邦楽は、外出時のウォークマンとか、
車の中で聞くようにしています。
それにしても、
コメントを書いているうちに、
私は結構こだわっているんだなぁと、
やっと気づきました。神経質なほうだなぁって(笑)