実際にあった出来事や、
言われたことに対する思いなどを、
挙げ連ねていけば、矛盾が生じます。
なので、出来るだけシンプルに、
確かに感じたことだけを。
★
歌会を続けられなくなった原因は、
人数ではないです。
もちろん、人数が少ないと、
「意見の和音」が作り出せないので、
「これは歌会の面白さではない。単なる『会話』の面白さになっている」
と、思うことは多々ありました。
でも、それは、決して致命的ではないです。
五行歌が好きな人がそこにいれば、
それだけで、それなりに、
その時その時の楽しさが、
私自身にはありました。
「歌会」が好きなのではなく、「歌」が好きならば、それで。
なのに、少しずつ。
致命的なのは、
自分の中の、
「人を信じきれなくなっていく」感じでした。
それは、「自分を信じきれなくなっていく」という、
自信のなさの裏返しです。
人に言われることに対しては、
「これは、美辞麗句?社交辞令?テイのいいお断り?」
自分が言うことに対しても、
「これは本当にそう思って言っている?
思ってもいないのに気を使って言っている?」
何を言っても言われても、
完全に澱みの中。
今始まった話ではないものだけど、
今までのように、うっちゃりきれなくなりました。
それは、五行歌の歌会だけではなく、
今のマネキン(試食販売業)という仕事だとか、
夫との生活のことだとか、
私の日々の生き方の溜まってきた垢のようなものが、
噴き出したのが原因です。
根っこは、そこです。そこだけです。
自責の念ではなく、事実としてそう思います。
★
考えてみれば私は、
「やめる」ということは、したことがあっても、
「終わる」ということを、この人生の中でしたことがありませんでした。
「やめる」と「終わる」。違い、わかります?
「やめる」とは、
私がその行為を止めても、
その行為をする人は他にもいて、
その公のものは、存続する、続いていくということ。
「終わる」とは、
私がその行為を止めれば、
そのものは存続しないということです。
私が学校を辞めても(あるいは卒業しても)、
学校はそこに存在する。
他の来て下さってた歌会の人が、
この歌会を去っていくことは、「やめる」ことだけど、
私の場合は「終わる」ことなんだな、と思いました。
代表さんがやめるときは、「終わる」とき。
そうしたくなければ、一旦代表を降りてからでないと、
「やめる」ことはできない。
で、ここの歌会の場合は、
代表を交代してもらうことは、無理で。
人生で、おそらく初めてであろう「終わり」という経験。
どうやったら、終われるのだろう?
気がつけば、
「終わり方」がわからない。
だから歌会が続いている。
最後の方は、思い返すと、そんな感じでした。
★
4月の歌会が流会になって、
会場のキャンセルの手続きに行って、
会場側の方から、
「ギリギリになってキャンセルというのは困る」と、
お叱りを受けたとき、
へこみながらも、
「もう、許されるだろう。きっと誰も困らない。
私が歌会を閉じることを口に出しても」
そんな、妙に正当化できるような後ろ盾が出来たような、
安堵の気持ちが芽生えました。
もうこれで、来ている人、行きたいけど行けない人と言ってる人からも、
文句は言われないだろう、と安堵しました。
それでも、私は、
「終わり方」というものを、模索していました。
歌会は終われます。
でも、
「人の言うことが信じられない」感じだとか、
「自分が素直に思っていることを素直に言えているのか?」という、
モヤッとしたものへ、一条の光を投じることにはならない。
根っこはそこにあると思っているのに、
歌会が終わることが、そこに対する打開策にはなっていない。
そこへ、光を投じさせなければ、
歌会が終わっても、自分の中でオトシマエがつかない。
そういう感じがして、仕方ありませんでした。
★
それはもう、歌会2日前ぐらいのことでした。
「終わり」とは「次」のためにあるんじゃないか、と
ハタと思いました。
「終わり方」を模索するということは、
「次」への兆しを掴むということ。
そう思ったときに、あるアイディアが浮かびました。
そのアイディアは、久々に私を明るくしました。
そのアイディアのおかげで、ますます、
「あぁ、終われる。休会を提案されても、
人を気にせず、終われる意志を強く持てる」
そう思いました。
でも多分、そのアイディアは、
突拍子もないので、
きっと人には「ほへ?」っと思われることだろうとも、
わかっていました。
実際、歌会の時に言ったら、
「それはちょっと、しない方が……」という手ごたえでした(笑)
でも、歌会を終わらせたい気持ちは、
受け入れてもらえました。
★
今でも、そのアイディアを実行に移すのか、
考えています。
一時の衝動なんじゃないかと、検証中です。
終わりたいという意志を強固にしたというだけで、
十分、そのアイディアは、役目を果たしたんじゃないか、
そう思うこともあります。
それは、お金も時間もかかることなので、
タイミングを逸してしまえば、ただの徒労にも終わります。
引越しや、仕事や、夫婦喧嘩で、
どうでもよくなる気持ちになって、考えないときもあります。
でも、最後の最後で、声がするのです。
「かしこくなるなよ」と。
ここで、無難に賢く生きたら、
多分、今度は数年後、
五行歌自体が詠えなくなると思います。
私の中で、五行歌と並行して、
いろんなものに興味を抱き、熱中するものは、
これからも見つけていくと思うけど、
五行歌ほど、軸足におけるものを見つけることは、
ないだろうと思っています。
だから、五行歌を手放すと、
多分、病気になってしまいます。
人を信じられなくなったり、自分を信じられなくなったら、
「死」の匂いが立ち込めてきます。
大げさと笑われても、
そういう本能的な危機感は、人の価値観ではクリアできない。
みっともなくても、ジタバタしなければ。
★
本当にそのアイディアが実行に移せたら、
その時は、書きます。
一年後になるか、へたしたら、二年後になるか、わからないけど。
(それ以上遅くなるようなら、もう実行できないと思う)
それだけ費やしても、
誰も喜ばないかもしれない。
しらけるばかりかもしれない。
でも、私は、結果がどうであれ、
とてもわかりやすく、
萎えていく自分には、勝ったことになる。
そういうものを、自分に刻み付けたいのです。
人にはそれが痛々しく思え、
「傷」に見えたとしても、
私にはヘタクソな絵の「刺青」だから。
一生懸命描いた結果の、ヘタクソな「刺青」だから。
いつか、刺青をほどこした片方の肩をさらして、
イキに賽の目を振るおねーさんとして、
その出来事をここに書きたいです。
言われたことに対する思いなどを、
挙げ連ねていけば、矛盾が生じます。
なので、出来るだけシンプルに、
確かに感じたことだけを。
★
歌会を続けられなくなった原因は、
人数ではないです。
もちろん、人数が少ないと、
「意見の和音」が作り出せないので、
「これは歌会の面白さではない。単なる『会話』の面白さになっている」
と、思うことは多々ありました。
でも、それは、決して致命的ではないです。
五行歌が好きな人がそこにいれば、
それだけで、それなりに、
その時その時の楽しさが、
私自身にはありました。
「歌会」が好きなのではなく、「歌」が好きならば、それで。
なのに、少しずつ。
致命的なのは、
自分の中の、
「人を信じきれなくなっていく」感じでした。
それは、「自分を信じきれなくなっていく」という、
自信のなさの裏返しです。
人に言われることに対しては、
「これは、美辞麗句?社交辞令?テイのいいお断り?」
自分が言うことに対しても、
「これは本当にそう思って言っている?
思ってもいないのに気を使って言っている?」
何を言っても言われても、
完全に澱みの中。
今始まった話ではないものだけど、
今までのように、うっちゃりきれなくなりました。
それは、五行歌の歌会だけではなく、
今のマネキン(試食販売業)という仕事だとか、
夫との生活のことだとか、
私の日々の生き方の溜まってきた垢のようなものが、
噴き出したのが原因です。
根っこは、そこです。そこだけです。
自責の念ではなく、事実としてそう思います。
★
考えてみれば私は、
「やめる」ということは、したことがあっても、
「終わる」ということを、この人生の中でしたことがありませんでした。
「やめる」と「終わる」。違い、わかります?
「やめる」とは、
私がその行為を止めても、
その行為をする人は他にもいて、
その公のものは、存続する、続いていくということ。
「終わる」とは、
私がその行為を止めれば、
そのものは存続しないということです。
私が学校を辞めても(あるいは卒業しても)、
学校はそこに存在する。
他の来て下さってた歌会の人が、
この歌会を去っていくことは、「やめる」ことだけど、
私の場合は「終わる」ことなんだな、と思いました。
代表さんがやめるときは、「終わる」とき。
そうしたくなければ、一旦代表を降りてからでないと、
「やめる」ことはできない。
で、ここの歌会の場合は、
代表を交代してもらうことは、無理で。
人生で、おそらく初めてであろう「終わり」という経験。
どうやったら、終われるのだろう?
気がつけば、
「終わり方」がわからない。
だから歌会が続いている。
最後の方は、思い返すと、そんな感じでした。
★
4月の歌会が流会になって、
会場のキャンセルの手続きに行って、
会場側の方から、
「ギリギリになってキャンセルというのは困る」と、
お叱りを受けたとき、
へこみながらも、
「もう、許されるだろう。きっと誰も困らない。
私が歌会を閉じることを口に出しても」
そんな、妙に正当化できるような後ろ盾が出来たような、
安堵の気持ちが芽生えました。
もうこれで、来ている人、行きたいけど行けない人と言ってる人からも、
文句は言われないだろう、と安堵しました。
それでも、私は、
「終わり方」というものを、模索していました。
歌会は終われます。
でも、
「人の言うことが信じられない」感じだとか、
「自分が素直に思っていることを素直に言えているのか?」という、
モヤッとしたものへ、一条の光を投じることにはならない。
根っこはそこにあると思っているのに、
歌会が終わることが、そこに対する打開策にはなっていない。
そこへ、光を投じさせなければ、
歌会が終わっても、自分の中でオトシマエがつかない。
そういう感じがして、仕方ありませんでした。
★
それはもう、歌会2日前ぐらいのことでした。
「終わり」とは「次」のためにあるんじゃないか、と
ハタと思いました。
「終わり方」を模索するということは、
「次」への兆しを掴むということ。
そう思ったときに、あるアイディアが浮かびました。
そのアイディアは、久々に私を明るくしました。
そのアイディアのおかげで、ますます、
「あぁ、終われる。休会を提案されても、
人を気にせず、終われる意志を強く持てる」
そう思いました。
でも多分、そのアイディアは、
突拍子もないので、
きっと人には「ほへ?」っと思われることだろうとも、
わかっていました。
実際、歌会の時に言ったら、
「それはちょっと、しない方が……」という手ごたえでした(笑)
でも、歌会を終わらせたい気持ちは、
受け入れてもらえました。
★
今でも、そのアイディアを実行に移すのか、
考えています。
一時の衝動なんじゃないかと、検証中です。
終わりたいという意志を強固にしたというだけで、
十分、そのアイディアは、役目を果たしたんじゃないか、
そう思うこともあります。
それは、お金も時間もかかることなので、
タイミングを逸してしまえば、ただの徒労にも終わります。
引越しや、仕事や、夫婦喧嘩で、
どうでもよくなる気持ちになって、考えないときもあります。
でも、最後の最後で、声がするのです。
「かしこくなるなよ」と。
ここで、無難に賢く生きたら、
多分、今度は数年後、
五行歌自体が詠えなくなると思います。
私の中で、五行歌と並行して、
いろんなものに興味を抱き、熱中するものは、
これからも見つけていくと思うけど、
五行歌ほど、軸足におけるものを見つけることは、
ないだろうと思っています。
だから、五行歌を手放すと、
多分、病気になってしまいます。
人を信じられなくなったり、自分を信じられなくなったら、
「死」の匂いが立ち込めてきます。
大げさと笑われても、
そういう本能的な危機感は、人の価値観ではクリアできない。
みっともなくても、ジタバタしなければ。
★
本当にそのアイディアが実行に移せたら、
その時は、書きます。
一年後になるか、へたしたら、二年後になるか、わからないけど。
(それ以上遅くなるようなら、もう実行できないと思う)
それだけ費やしても、
誰も喜ばないかもしれない。
しらけるばかりかもしれない。
でも、私は、結果がどうであれ、
とてもわかりやすく、
萎えていく自分には、勝ったことになる。
そういうものを、自分に刻み付けたいのです。
人にはそれが痛々しく思え、
「傷」に見えたとしても、
私にはヘタクソな絵の「刺青」だから。
一生懸命描いた結果の、ヘタクソな「刺青」だから。
いつか、刺青をほどこした片方の肩をさらして、
イキに賽の目を振るおねーさんとして、
その出来事をここに書きたいです。