砂金を掬うように、
昨日の巨大大型スーパーでのお仕事の中の、
ちょっと感動した話。
★
お父さんと、
1歳か2歳の子どもさんだった
(いや、3歳かな……見慣れないのでよくわからないです)。
「牛乳いただけますか?」と言われたので、
(味見じゃないんだよねぇ。でも断れないのよねぇ)と思いながら、
「はい、どうぞ」と笑顔でカップを差し出した。
お父さんは受け取って、
カートに乗っている子どもに「牛乳飲みや」と、
カップを口に近づけた。
子どもは嫌がった。
私は、あぁまたか、と思う。
本当に、びっくりするくらい、
「与えられるものは与え続ける。それが親の愛情」
と、でも思っているのか、
子どもの「いる/いらない」の判断もさせずに、
タダでもらえるものは全部受け取って、
子どもに押し付ける親の
多いこと、多いこと。
愛情の機微がなさすぎ。
「あんたねぇ、
となりの置きっぱなしになっている、
ウィンナーやチキンナゲット類も、
全部子どもの口に放り込んだだろう。
子どもよく見ろよ。
まだモグモグしているじゃねーか。
さらに、牛乳流し込むってか?
残酷だねぇ。
自分の思いをまだ表情でしか伝えられないんだから、
子どもも意思を伝えられなくて、
受難だよな。
まぁでも、その親の元に生まれたのも何かの縁だ。
子どもよ、良くも悪くも、
『押し付け=愛情』というひとつの構図が、
あんたの基準になっていく。
その基準に対して、どれだけあんたが、
苦悩しながらも、
自分の力で栄養にしていけるか、
それは、あんたの人生の責任において、
やっていかなきゃいけないよ。
そこらへんは自由なんだから。
親のやり方に依存しすぎて、
自分の気持ちがわからなくなる前に、
いろんな人間と関わって、たくましく育っていけよ。
ま、大変だろうけどさ」
と、じゃんじゃん飲み食いさせる親に、
きょとんとしながら、
自分が何をどう思っているかを、
思慮するヒマもなく、
ただ、漠然と
私をじーっと見ている子どもには、
言葉にすると結構長いけど(笑)、
そういう思いを
全く届かないであろうテレパシーで(?笑)送ったりした。
が、このお父さんは違っていた。
★
お父さんは、
何回か牛乳を子どもに勧めたけれど、
飲まない子どもに諦めて、
牛乳を私に戻そうとした。
すると、子どもは牛乳を欲しがった。
で、お父さんが飲ませようとする。
が、嫌がる。
なんやねん、一体と、内心思いながら、
私はパブリックスマイルをして黙っていた。
するとお父さんは、子どもの小さな欲望を察知した。
「すいません。
あの、僕の変わりに、
カップをこの子に渡してあげてくれませんか?」
あ、そうなのか、そういうことだったのか!
私はお父さんに渡していたカップを受け取って、
子どもに直接「はい、どうぞ」と、
渡してあげた。
すると子どもは喜んで、
牛乳を受け取けとり、ごくごく飲み始めた。
察知したお父さんにも感動したけれど、
こんな小さな子どもですら、
そういう細やかな欲望を持っているんだな~、と
感動した。
やっぱり子どもは、
ある意味では表現力があるんだろうけど、
別の意味では表現力が身についていないんだから、
窮屈だなぁと思う。
小さいけれど「人間」。「人形」じゃなくてね。
その小さな人間の上手く表現できない欲望に、
親は、
応えれるときは応えてあげればいいし、
応えられなければ断念すればいい。
姿勢さえ見せていれば、断念したところから、
子どもは子どもなりに考えてくれる。
すぐに気持ちの切り替えては無理だと思うけど。
大人になってから考えるかもしれないけれど。
子どもは必ず考えて、
予想もつかなかった答えを出して、
人として成長してくれる。
カートを押して立ち去るお父さんの背の向こうから、
私をじっと見る子どもに「バイバイ」と手を振りながら、
親子特有の
人と人との愛情の機微に触れたことを
嬉しく思っていた。
昨日の巨大大型スーパーでのお仕事の中の、
ちょっと感動した話。
★
お父さんと、
1歳か2歳の子どもさんだった
(いや、3歳かな……見慣れないのでよくわからないです)。
「牛乳いただけますか?」と言われたので、
(味見じゃないんだよねぇ。でも断れないのよねぇ)と思いながら、
「はい、どうぞ」と笑顔でカップを差し出した。
お父さんは受け取って、
カートに乗っている子どもに「牛乳飲みや」と、
カップを口に近づけた。
子どもは嫌がった。
私は、あぁまたか、と思う。
本当に、びっくりするくらい、
「与えられるものは与え続ける。それが親の愛情」
と、でも思っているのか、
子どもの「いる/いらない」の判断もさせずに、
タダでもらえるものは全部受け取って、
子どもに押し付ける親の
多いこと、多いこと。
愛情の機微がなさすぎ。
「あんたねぇ、
となりの置きっぱなしになっている、
ウィンナーやチキンナゲット類も、
全部子どもの口に放り込んだだろう。
子どもよく見ろよ。
まだモグモグしているじゃねーか。
さらに、牛乳流し込むってか?
残酷だねぇ。
自分の思いをまだ表情でしか伝えられないんだから、
子どもも意思を伝えられなくて、
受難だよな。
まぁでも、その親の元に生まれたのも何かの縁だ。
子どもよ、良くも悪くも、
『押し付け=愛情』というひとつの構図が、
あんたの基準になっていく。
その基準に対して、どれだけあんたが、
苦悩しながらも、
自分の力で栄養にしていけるか、
それは、あんたの人生の責任において、
やっていかなきゃいけないよ。
そこらへんは自由なんだから。
親のやり方に依存しすぎて、
自分の気持ちがわからなくなる前に、
いろんな人間と関わって、たくましく育っていけよ。
ま、大変だろうけどさ」
と、じゃんじゃん飲み食いさせる親に、
きょとんとしながら、
自分が何をどう思っているかを、
思慮するヒマもなく、
ただ、漠然と
私をじーっと見ている子どもには、
言葉にすると結構長いけど(笑)、
そういう思いを
全く届かないであろうテレパシーで(?笑)送ったりした。
が、このお父さんは違っていた。
★
お父さんは、
何回か牛乳を子どもに勧めたけれど、
飲まない子どもに諦めて、
牛乳を私に戻そうとした。
すると、子どもは牛乳を欲しがった。
で、お父さんが飲ませようとする。
が、嫌がる。
なんやねん、一体と、内心思いながら、
私はパブリックスマイルをして黙っていた。
するとお父さんは、子どもの小さな欲望を察知した。
「すいません。
あの、僕の変わりに、
カップをこの子に渡してあげてくれませんか?」
あ、そうなのか、そういうことだったのか!
私はお父さんに渡していたカップを受け取って、
子どもに直接「はい、どうぞ」と、
渡してあげた。
すると子どもは喜んで、
牛乳を受け取けとり、ごくごく飲み始めた。
察知したお父さんにも感動したけれど、
こんな小さな子どもですら、
そういう細やかな欲望を持っているんだな~、と
感動した。
やっぱり子どもは、
ある意味では表現力があるんだろうけど、
別の意味では表現力が身についていないんだから、
窮屈だなぁと思う。
小さいけれど「人間」。「人形」じゃなくてね。
その小さな人間の上手く表現できない欲望に、
親は、
応えれるときは応えてあげればいいし、
応えられなければ断念すればいい。
姿勢さえ見せていれば、断念したところから、
子どもは子どもなりに考えてくれる。
すぐに気持ちの切り替えては無理だと思うけど。
大人になってから考えるかもしれないけれど。
子どもは必ず考えて、
予想もつかなかった答えを出して、
人として成長してくれる。
カートを押して立ち去るお父さんの背の向こうから、
私をじっと見る子どもに「バイバイ」と手を振りながら、
親子特有の
人と人との愛情の機微に触れたことを
嬉しく思っていた。
その子のなかで、スーパー(試食コーナー)では、
「親じゃなくお店のひとから貰うもの」というルールみたいなのができちゃってたんですね。
子どもには子どもなりのルールとかかんがえとか思い方がちゃんとあって、気まぐれに怒ったり欲求するわけじゃないと思っています。それはすごくシンプル。シンプルすぎて気づけないことが多い。
でも、気づけなければそれなりに子どもはそこから考える…なるほどなぁと思いました。勇気づけられました。姿勢は忘れずに、とも。(*^_^*)
んでもって、子どもも、
こんなに小さいときから、
「社会的欲求」というものを持つんだなぁって、
びっくりしたの。
この欲望って、
「食欲」という生理的欲望じゃないものね。
失礼な言い方かもしれないけれど、
本当にペットじゃないし、
こんなにも成長が早いんだなぁと感動しちゃった。
でも、逆のパターンも見たことがあるの。
親がずーっと与え続けるから、
もらえるものは、何が何でももらわなくてはと、
考える子ども。
試食品に関心がなくて、
スルーする親に必死で訴えかけて、
口の中がいっぱいなのに、
さらにもらおうとする子ども。
これもきっと、
生理的欲求じゃないんだろうなぁ~と。
子どもにも社会的欲求はある。
それに常にピンときて、
応え続けていけば、
きっと子どもは、わがままになる。
思考力はなくなっていく。
親ですら気がつかないことが、
この世にはあって、
どうにもならないことの前で、
どう思えばいいのか、
そんなことを考えさせるいいチャンス。
とりこぼしたことですら、
子どもは栄養にするんじゃないでしょうか。
そんな気がします。