日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

2009年2月のAQ歌会

2009年02月28日 | 五行歌な日々
たどり着いた新横浜駅は、
すっかり工事が終わってて、
綺麗になっていた。

おかげで、迷うことも、走り回ることもなく、
スムーズに、
溝の口行き直行バスのバス停まで、
行けたことは行けたけど、
着物とガラガラで来た私に言わせれば、

「JRから、バスターミナルへ渡るための歩道橋に、
エスカレーターがついているのはいいけれど、
歩道橋から、
各バス停乗り場へ下りるための階段の横に、
エスカレーターがついていないのは、どうかと思うぞ!!
どうせなら、そっちもつけてくれたらいいじゃん!!」

ってなもんで。
文句は探せばいくらでも出る、
人の欲深さを自分の中に垣間見る。

バスは順調に溝の口へ着いた。

先にホテルに向かい(ここは迷った……、でも省略~)、
ガラガラを預けて、AQ歌会の会場へ。

15人は、
いつもの歌会より、多い人数だと聞いたけど、
それよりも、多かった印象の、お茶請けの数(笑)

その中には、私からの、
新大阪駅で買った、
お好み焼きを模したプチせんべいもあったけど、

「やっぱ、どうせなら、
『神戸○○○○』とかの、おいしそうなのを買えばよかった。
どうして、『神戸』ってつくと、おいしそうなんだろうなぁー。
なんで、大阪のお土産は、
タイガースとか、ヨシモトとかのキャラものとか、
『東京ばなな』の親戚のような、パクリものっぽいのとかなんだろう。
おいしさよりも、イメージ重視なんだモンなぁ~。
でも、結局、お好み焼きを模したせんべいを、
選ぶ自分を振り返ると、やっぱり、
最後の最後の決め手は、『味』より『おもしろさ』って人、
やっぱ、多いのかなぁ~。
……悔しいけど、ツボ、押さえられてるのかなぁー」

と、
色とりどりのお茶請けを見ながら、
自分の中の性のようなものを見出して、
笑えるような、笑えない気分になった。

提出歌、お披露目。

     ★

       川の水面の洗剤の泡
       仏が気づかず踏んでいく
       儚い命の小石のように
       細く 長く 薄く
       白い葬列が続いていくよ


前述したことのある
奈良の平群の竜田川で見た、
洗剤の泡からの歌。

今年2月の始めに、また仕事に行った際に流れていた。

ひとすじの洗剤の泡に、心惹かれて。
心惹かれると、
「何故、惹かれるのか?」という理由を、
知識や経験の倉庫から、
「これちゃいまっか?」「これちゃいまっか?」
と、頭がぐるんぐるんと、見せてきた。

その数あるぐるんぐるんの中から、
一つ目に捉えたのが、
「からくれないに 水くくるとは」
の、在原業平の歌の下の句。

(閑話休題:AQ歌会の際、
ワタクシ、あたかも、暗記しているかのごとく、
竜田川 神代も御も ほちゃららら からくれないに 水くくるとは』
と、言っていましたが、
『ほちゃららら』が間違っているのはもちろん、
それ以外の上の句も、全然違っていました。
正しくは、
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
で、ございました。あーはずかしー!!)

「『からくれないに 水くくるとは』の情景とは、えらい真逆な情景だ」

というのが真っ先に。

そこからさらに、

「何故に、溶け込むことなく、沈むことなく、
流れに乗っているんだろう?あの泡たちは。しかも、行列で。
あの泡の上には何がある?空気がある?風がある?」

風が見えたところで、
『風のてのひら』という言葉も思い出す。
俵万智氏の第二歌集のタイトルだ。そのフレーズを使った短歌もあった。
短歌そのものは思い出せないが、イメージがよぎる。

風の手のひら、大きな手のひら。

でも、私の見ている泡は、
やさしい手のひらに撫でられているものには思えない。
もっと、残酷な感じがする。

推敲を繰り返しているうちに、
そんなところまで確かめて、
その路線(どんな路線?)で詠っていた歌のフレーズを、
一度捨てる。

残酷な感じ……少なくとも、手で撫でられているようには見えない。
う~ん、足……かな……。

そう思うと、仏さま……厳密には、観音さまの行列が、
洗剤の泡の上をすーっと踏んでいく画が見えた。

あぁ、でも、この画で踏んでいるのは、小石のような感じのもので、
名も無い人の命として描かれていたよな、と思う。

それは、マンガで見た絵。

山岸涼子著『日出づる処の天子』という、
聖徳太子(厩戸皇子)の少年期を描いたマンガ。
本筋とは、ほぼ関係の無い、伏線的なヒトコマの画として、
それは描かれていた。

それは、物部vs蘇我の宗教戦争のヒトコマ。

厩戸皇子は『錦の御旗』的存在として、
蘇我側について、戦場に来たのだが、
その際、その争いを端から見ていたときに、
仏さまの行列を見た(ここの厩戸皇子には、そんな能力がある設定なのね)。

その足元には、その争いで死んでいった人々の命が、
救われることなく、踏まれていってて。

「仏は人を救わない」的なことを、
蘇我側に着きながら、シニカルに厩戸皇子は、胸の中でつぶやく、
みたいなシーン。
(ここの蘇我氏は、信仰心より、
政争の道具として仏を扱っていたから、
口先だけいいように言っている、蘇我氏に対するシニカルさでもあって)

知っている人は、知っているけど、
知らない人は、よくわからないお話で、申し訳ない(笑)

そのヒトコマの、
残酷で、でも何故か崇高さを感じさせる画が出てきたところで、
頭のぐるんぐるんが止まった。

あとは、自分の胸の奥へと進むのみとなって、
言葉を掘り起こしたわけなのだが、
いささか、イメージをてんこ盛りにし過ぎてて、
二行目に、唐突感があるかもな、と思ったりした。

けど、コメントを聞いている限りでは、
言いにくい歌なりに(笑)、そんなに厳密に追求されず、
不自然には思われなかったようで、よかったと思う。

提出するにあたって、
この一首を作るまでの過程を話すことで、

「人に理解されるされないを横に置いても、
その一首に向かって、自分が集中していくのは、
ナニモノにも変えがたく、心地いい、気持ちよさがあります」

という雰囲気の自分を一番伝えたかったのかもと思う。

「意味わかんないけど、なんだかこの人、歌作ってて、楽しそう」

というところを、理解してもらえるのが、
完成度よりも、今、重要視しているところなので。

内容は、多少重たいけれど(笑)、
たった一首をつくるために、じっくり心尽くすことの楽しさよ。

水源氏が、

「詩的なものに任せてしまわない世界観がある」

みたいな事を言ってくれたのが、一番印象に残った。

作者が意図しても、意図したら、
立ちのぼってこないものだと思えて。

読み手にしか、見つけられないもののように思えて。

     ★

他の方の歌では、
片桐たまさんの歌が印象的だったが、
1位の歌なので、AQ歌会のHPに掲載されてるので、
ここでは差し控える。

ひとりで、勝手に笑っていたのが、
吉田綾乃さんの歌。

こーゆー解釈をしているのは、きっと私だけだろう、と思いながら。

       高熱と
       格闘
       唇だけが
       生き返るように
       脱皮しつづける


「唇だけが、脱皮し続けると、どうなるんだろう?」と、思わずにはいられなかった。

私の中で、太く、分厚く、
唇だけが成長し続ける。

高熱の中、苦しむ作者の、
唇だけが成長し続ける。

あぁ、やがて、私の中ではアナゴさん。
作者よ、あなたは、アナゴさん。
マスオさんと同僚のアナゴさん。
だんだんだんだん、アナゴさん。

もう、どうしようもなく、おかしくって!!

作者の旦那さんが、
インフルエンザにかかったときの歌らしいので、
綾乃さんが、アナゴさんになったわけじゃないけど。
だからと言って、「あーよかった。ほっ!」という話でもなく。

そういう意味で、刺激的な歌でした。

次回は、
『五行歌インタビュー』の時のことを、
なるべく早い目に、アップしたいっす。(うーっ!)

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