只管朗読

2010年02月21日 16時15分30秒 | 自分の意見の陳述
久しぶりに国弘正雄氏の本を読みました。そこで、氏の提唱する只管朗読の解説を読みました。私もその意見に100%賛同するものです。ただ問題は実際にやるかどうかです。実際にやるというのはエネルギーもいることです。

私ごとになって恐縮ですが、英語は一応できるわけです。が、問題は、出来るというその内容なのです。英語という言語が自分の中で血肉化しなければ本当でないと考えたら、どうなるか?たとえば落語家が自分がしゃべる話を繰り返し練習しています。その原稿があればだれでもたいていの日本人は読めるのです。その人たちのしゃべる日本語を聞いていて、彼らが一応日本語がしゃべれるということは感得できるだろう。だけれども、これらの人が人をを楽しませることが出来るのか? ほとんどの人には無理だろうと思われます。聞いている他人を感心させるには、修行が必要です。英語を話せるのといっても、いろんな段階があるということです。その各種ある段階の中でどこに属したいのかは、結局自分が選択するしかありません。

国弘氏は私は音声学者でないから発音は自信がないが(発音も悪くはもちろんないのですが)、自分の英語には文法的ミスはないはずだとおっしゃっている。こういいきれる自信はすごい。その原点は中学時代に英語テキストを繰り返し繰り返し読んだことにあると言っています。私はこのかたのknowledge をみんな吸収すべきだと思っています。

ただし、シカンロードクは、読み方がわるいと、ながく続けれるものではない、と思います。読み方、間の取り方、音の高低(Pitch)などが合理的だと、気持ちが良くなる。私の理解だと、記憶するのが目的ではなく、読むこと、つまり口を動かすことに意味がある、と思います。結果的に記憶もしますけれど、記憶が目的ではないと思う。口の筋肉を動かす過程で、自分意識とは別個に脳が何ものかを記憶しているのではないでしょか。意識しないでもことばが口をついて出てくるとはそうした脳の働き(自分では意識しなにしろ)なのではないでしょうか。

いま私は「英語で説明する日本Q&A」を使ってシカンロードクをやっています。300頁を超える本で、半分が英文です。その本を破って小分割します。それをホチキス止めし。真中に穴をあけ、また閉じれるようにします。このことで、ちょっとした時間を活用して英文の読みます。一寸した時間、細切れの時間の活用が、効果的です。もし時間があっても、長い時間やれるものではに。疲れるわけです。

何かの参考になるかも知れないと思い、あえて紹介しました。



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