「死にゆく父親」と語り合った家族会議の中身

2019年02月27日 | 病気 余命を考える 死を迎える準備

当該ブログのはじめに書いてるが<<私は透析患者でリウマチもあり、余命は4年位と書いている>>

これは自分のインスピレーションだったが、私は若い頃から予知ができて、色々経験している。

自分の余命も、10年前に、、、後10年したら自分は死ぬからと妻に予言して<<予言どおり、一昨年の暮に重病になり死の淵にいた>>意識混濁で自分がどこにいるかわからないし、夢が極めて現実的で鮮やかな色彩など、意識混濁で死に向かう経験をしてるので、どの様なプロセスで死んでいくのか分かる。

幸い? 緊急入院して透析などで一命をとりとめたが、今年1月初めにネットで日本とアメリカ政府の透析患者の平均余命というのを発見して自分の余命が4年平均と知った。

既に透析開始から1年経過してるので、後3年で寿命が来る予定だ。

現在体調は、リウマチでやられた膝以外は調子がいいが、血圧が低い状態が有る(腎臓ややられると造血司令がいかなくなるので錠剤と透析後のインジェクションで賄っている。




「死にゆく父親」と語り合った家族会議の中身

2/27(水) 5:10配信

東洋経済オンライン
「死にゆく父親」と語り合った家族会議の中身

亡き夫、父と語り合った日々の思い出を話してくれたご遺族(筆者撮影)

 「人生会議」という言葉が聞かれるようになった。看取り期における治療方針や、最期を過ごす場所などについて、元気なうちに医療者や家族間で話し合っておこうという政府のガイドラインだ。

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 だが、人生の終わり方について、家族で冷静に話し合うことなんて果たしてできるのだろうか。愛する家族にはできるだけ最後まで、本人らしく生き、苦しみ少なく過ごしてほしい。しかしそれを事前に話し合うことなど本当にできるのだろうか?  10年前に、最愛の夫であり尊敬できる父を看取ったという母娘に話を聞くことができた。

■76歳のとき余命3カ月と告げられて

 「76歳のとき末期がんで余命3カ月と宣告された父とは、最期を見据えて母と一人娘である私とでさまざまな話をしました。もともとフランクに何でも話し合う家族でしたので、最後のことも自然に冷静に話し合いができたのかもしれませんね。うちの会議がみなさんの役に立つかどうかは、ご家族によって異なるかと思いますが……」

 それでもよければお話ししますと、ある女性から丁寧なメールをいただき、神戸を訪れた。待ち合わせの老舗喫茶店に、はつらつとした笑顔が印象的な50代女性と、80代にはとても見えない彼女の母親がやってきた。

 「父のことがきっかけで、私たちも終末期医療についての意志表示を、すでに書面にしているんですよ」と女性はすっきりとした笑顔で語り始めた。

家族構成
父:秀雄さん(故人) 娘:綾子さん(58歳) 母: 満江さん(81歳)
家族の課題:余命宣告された父に、望むように最期を過ごしてほしい
 中小企業の経営者であった秀雄さんに、最初にがんが見つかったのは、引退後の人生を満喫していた76歳のことだった。診断は胃がん。胃の全摘手術をすれば、回復する余地は十分にあるはずだった。しかし、秀雄さんは妻の満江さんに向かってこう言った。

 「最期はホスピスで過ごしたいと思っている。早めに探しておくように」

 「夫にしては珍しいほど、少し命令口調できっぱりと言ったんです」(満江さん)

 手術をすれば治るはずなのに。そう思っていた矢先、精密検査ですでに肝臓にもがん細胞が散らばっていることが判明。ステージ4、余命3カ月と宣告された。

 「父は弟を若くしてがんで亡くしていましたし、がんの怖さは知っていたのでしょう。だから、最初のときにすぐに『ホスピス』と母に伝えたのでしょうね。結果としてよかったです。余命宣告された後はとてもじゃないけれどそんな話をすぐにできる気持ちにはなれませんでしたから」(綾子さん)




■「2人ですぐ『ここだね』って」

 手術はできず、抗がん剤治療に望みをかけて治療を開始した秀雄さんを支えながら、2人は少しずつ近くにホスピス外来がある病院を探し始めた。

「引っ越したばかりで土地勘も情報もあまりないなか、知人に評判を聞いたり、インターネットを見たりして、片っ端から父に合うホスピスはないかと探しました」(綾子さん)

 「夫には黙っていくつか見学にも行きましたね。街中の病院は看病をしやすそうだったけれど、窓からは隣のビルしか見えない。これはきっと嫌がるだろうなと思って。何件目かで、少し遠いけれど山の高台にある病院を訪れると、見晴らしがすごくよかったんです。2人ですぐ『ここだね』って」(満江さん)

 生きようと抗がん剤治療を始めていた秀雄さんには告げず、母娘は水面下で準備を整えた。いつかそのときがきたら、伝えようと心に決めて。
 
一人娘がすでに成人し、自らは離婚をしていた綾子さんは、秀雄さんとの最期の時間を一緒に過ごそうと、実家に戻ることを決める。久しぶりの3人暮らしは、とても濃密なものだった。

 「母と父は昔から会話が多い夫婦でした。でもやはり深刻な病気のことを2人で向き合ってするのは酷なことです。私がクッション材として入ることで、いろいろな話が和やかにできたのかもしれません」と綾子さん。

 顔を突き合わせて、真面目に「最期の家族会議」をしたわけじゃない。だが、抗がん剤治療を受ける際の通院や、合間の散歩時間、食後のだんらんの時間に、秀雄さんはポツリポツリと大事なことを話し出した。

 「病院への送り迎えのとき、父と2人で車に乗っていると、突然自分語りを始めるんです。『初めて会社に入ったときはな』とか『あのときはな』とか。いつも過去の話でした。ああ、人生を振り返っているんだなあ、今は聞くときなんだなあと思って、私はただ相槌を打ちながら聞いていました」(綾子さん)



■運命の“緩和ケア医”との出会い

 先々の不安や心配はもちろんあっただろう。しかし、綾子さんも満江さんも、秀雄さんが話し始めるまでは、無理に会議を開いて治療の方針について提案をしたり、延命治療の有無を問いただしたりは決してしなかった。ただ、秀雄さんが口を開いたときは、その声に耳を傾け、自分たちの考えを伝えた上で、秀雄さんが望む道を進めるよう、そっと背中を押した。穏やかな話し合いが何度も行われ、その度に秀雄さんが望む形で、次の道が開かれていった。

 抗がん剤治療をやめたいと秀雄さんが伝えたときもそうだった。

 「何クール目かの治療の合間に、父が抗がん剤治療を『もうやめたい』と言ったんです。次の治療の予約をキャンセルしてくれと。私はもともと抗がん剤なんて苦しませるだけだと思っていました。でも最初は父が頑張るというので応援していたんです。ただ実際は、どんどん体力が落ち、家でも寝ているだけ。今だと思って『そんなにしんどいならやめてもいいやん。少し体力が回復したらまた散歩もできるやん?』とそのとき、私の思いを話しました。本人も『うん、そうやなあ』って」(綾子さん)

 「私自身は、次の治療でもしかしたら少しよくなるかも、という淡い期待はありましたね。でも夫と娘と話していて、これが夫の望む生き方なんだなと思えたんです」(満江さん)

 家族会議で納得して決めたとはいえ、治療をやめた先にどんな最期が待っているのか、不安は募った。「最悪の場合は血を吐いたり、腸閉塞で苦しむ場合もある」と主治医に告げられ、恐ろしくなった母娘は、いつか訪れたホスピス病棟にある山奥の病院に改めてコンタクトを取る。

 「ホスピスを探していたことは父には伝えていなかったけれど、話す場を設けて、『こういうホスピスがあるけど1回行ってみる?』と聞いてみたんです。『そうやなあ』というので父を連れて行くと、窓の外の景色以上に、そこで出会った緩和ケア医の先生を父がすごく気に入って。先生には父だけでなく私たちもすごく救われました」(綾子さん)

 ホスピスは、治療を目的とする病院とは異なる。「治療のしようがない」という前提で「心身の痛みをできるだけ取り除き、どう穏やかに最期を迎えるか」をケアする場所だ。ある程度の覚悟が決まっているとはいえ、もちろん死への恐怖や喪失感はつきまとう。

その苦しみを家族だけで話し合うのは正直難しい。そこで頼りになるのが、緩和ケア医のような第三者としての専門家の存在だった。

 「初めての診察で、『たいていの方は、それほど苦しまずに穏やかな最期を迎えられますよ』と先生が優しく諭してくださって。私たちもすごく楽になりました。夫はストレスでほとんど声が出なくなっていたのですが、先生との1時間の診療でスーッと通るようになったんです」(満江さん)

■尊厳死の意思表明に家族全員でサイン

 家族会議を通し、秀雄さんはいざという時には、人工呼吸器や心臓マッサージを受けないといった、延命治療拒否の意思表明を文書にしていた。

 「父が事前に作っていた尊厳死に関する書類を先生に見せると、先生は父の手を握り、『お気持ちは尊重しますよ』とおっしゃいました。父は随分ホッとした表情をしていましたね。それを見て私たちもこれでよかったんだと。私も母も、そのとき一緒に、同じように尊厳死への意思表明を作りました」(綾子さん)

 その後、緩和ケア医を間に入れた「診察」という名の話し合いが何度も行われた。どんな治療やケアが必要か、体力の低下に伴うストレスや苦しみはどうか、状況を把握し、前もって心をケアしながら話を進めてくれる医師の存在が欠かせなかった、と綾子さんは言う。

 「家族には遠慮して直接言い出せないことも、先生を通してなら父は話せた。そして私たちも父の希望を知ることができました」(綾子さん)

 秀雄さんは希望どおり、ホスピスに入院してからも毎週のように外泊をしに自宅に戻った。「ご家族は、あまり患者扱いせずに役割を与えてあげてくださいね」。そんな緩和ケア医の言葉を受けて、家ではこれまでどおり、一家の主である秀雄さんを囲んでいろいろな話をした。綾子さんの娘の就職活動の話題で会議をしたこともあった。

 「もう娘が大騒ぎでね(笑)。最終面接の前日に対策について話し合いをしたんです。父も入ってくれて。『もう最終なんやから、お前が社長を面接するような気持ちで挑んだらええんや』なんてアドバイスをしていました。病気で弱っていても、祖父として社会人の先輩として役割を果たせていることがうれしいようでしたね」(綾子さん)

 余命宣告を受けてすでに1年3カ月が過ぎていた。

■葬式の話も家族会議で決めた

 もう余命いくばくもない、と誰もが感じていた頃、秀雄さんは家族を呼んで尋ねた。


「葬式はどうするんや?」

 すでに心づもりをしていた満江さんはきっぱりと答えた。

 「マンションの集会所を借りてこじんまりとした家族葬にするつもり。パパが好きだった住職さんも呼んで、小さいけれど格式高い式にしますよ。私はきちんと着物の喪服を着ますからね」

 それを聞いて、秀雄さんはうれしそうにほほんだ。秀雄さんは、すでにそれまでの会議で、永代供養をする寺を決めており、「お寺は京都やから、納骨の帰りは泊まって遊んできたらええがな」などの思いまで伝えていた。

 「最期のときも、『ママはもう大丈夫やな』って。私の娘のことも『あの子やったらどこに就職しても大丈夫や』。最後に『心配なんは、おまえや』と離婚していた私のことを言うので笑ってしまいました(笑)。本当に最期まで後に残される家族のことを考えて、大切な話を全部してくれたから、ありがたいことに、私たちにはなんの心残りも後悔もないんですよ」(綾子さん)

 人生の終わりに行う家族会議はもちろん簡単ではない。死に向かう恐怖の中で悲しい話題を持ち出すことはつらいことだし、1回の会議で全員が納得できる「死に方」を知ることはできないだろう。だが、当事者に語りたいことがあったとき、そのタイミングはきっと訪れる。

 家族ができることは、そのときを逃さないよう、そばにいて、どんな話でも聞こうと心の準備をすること。そして、もっと前から家族がフラットに話し合える家族関係を作り続けることだ。時折涙を見せながらも笑顔で秀雄さんの言葉を聞かせてくれるお2人から、命が途切れるまで、家族が本音で話し合えることがどれだけ大切かという例を、見せてもらえた。

玉居子 泰子 :編集者、ライター




vam***** | 3時間前

父も末期の肝臓がんで、判明した時点で手術はできず、僅な望みをかけて抗がん剤治療をしましたが、かえって予後を悪くしてしまい、緩和ケアに移行しました。記事のご家族と同じく、父も私達家族も大きく救われました。

外科も内科も患者さんを治すところだから、治る見込みのない患者さんにはあまり親身になってくれない感じがしましたが、緩和ケア科の先生方は全然違います。

父は最期を緩和ケア病棟で過ごしましたが、看護師さん達も親切で優しくて、患者さんやその家族が自分の身内であるかのように接してくれました。緩和ケア病棟って暗い重いイメージがありましたが全然違います。部屋も日当たりが良くて、とても優しい場所でした。

父は眠るように穏やかに逝きました。延命措置をしなければ、大抵は穏やかな臨終だそうです。

緩和ケアの先生や看護師さん達のおかげで、迫り来る父の死を受け入れる覚悟ができたし、後悔が少なく済んでいます。

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abc123 | 1時間前

周りの家族が悪化するかもしれないから、あれやってはいけない、これ食べてはいけないと言うと本人は心配かけてはいけないと思い何も出来なくなる。私は死が数日くらい短かくなろうとも最後は歩ける力があるなら歩くし、食べれるなら食べたい物を食べて死にたいとはっきり言っておかないと、何も出来なく、意識がありただベッドの上で死を待つだけなんて拷問の最後の日々だと母の死で学んだ。

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ツイノスミカ | 28分前

癌ではないけれど去年から何度か手術を受け今も入院している父。

最近、今までになく意志を発するようになりました。手術のたびにそしてなにかある度に覚悟を決めて臨んできた兄と私。

最後のわがままだとおもって父の言うとおりにしています。残念ながら最期の話は出来ていません。もうすぐ退院出来そうな父は私達夫婦と過ごしたいと言っています。

もちろんそのつもりでいます。これからの生活の中で少しずつ父の最期のイメージができて思うようにしてあげたいなぁと思っています。

退院出来ないと思っていたんですね。何故かそんな予感が…不謹慎ですが。
先月も退院の話がでて日程まで決めたのですが発熱してキャンセルになりました。

今回も退院許可はでただけなので。今度こそ退院してほしいと思ってます。今日は父の誕生日です。これで去年のお盆から、年末年始と誕生日を病院で迎えたことになります。

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yok***** | 2時間前

父が融和ケアに入り一ヶ月。どんなにもっても後48時間と、今言われたばかりです。もう意識ないけど、入った当初は本当に家にいるようなゆったりとした時間が過ごせました。余命言われると色々後悔ないように行動できるから、そこはいいとこですね。一年あっても足りないけど。。

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kyo***** | 3分前

私の母も在宅緩和ケアで亡くなりました。
緩和ケアというと、全ての苦痛を無くせるイメージでいましたが、正直母は最後の1ヶ月、傷みと苦しさ、身の置き所のない苦痛と闘っていました。
その時は母の側に居てあげることで精一杯でしたが、今考えるともっと痛み苦痛から解放できる手段があったのかなと頭をよぎります。
緩和ケアといっても、その病院や訪問医療機関によって、治療方法も異なると思いますので、もしもの時は私たち一般人でも、どこの病院ではどういったケアをしてもらえるのかといった詳細を調べることができるようになったらいいなと思います。
母はもう戻ってきませんが、母の死が世の中のお役に立てたらと切に願います。

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sb2***** | 2時間前

実の父親ではないが、息子同様に可愛がってくれた方を肝臓ガンで亡くした。

医者ではないから、治療とか緩和ケアとかはできなかったが、毎週末お見舞いに行き家族に言えない不安や話を聞いてあげた。
亡くなった後に奥様から聞いた話だと、自分が来ている時は機嫌もよくなるようで、帰ると不機嫌になったそうです。
こんな事しかできなかったが役にたてかな
今でも、頻繁に仏壇にお線香あげにいってます。

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tak***** | 28分前

とてもいいお話だった。
そう遠くないであろう祖母を見送る時、どの様な形にするのがいいか
祖母は高齢で認知症もあった為
本人は除き、家族だけで残り幾ばくもない日々をどのように過ごさせてあげるか、何度も話し合った。
普段の生活から、食べる物、そしてお葬式のスタイルまで。
夜、おやすみとベッドに入り、数時間後 様子を見に行った時には、もう天国へ…
93歳、大病も何もなく寝ている間に召された。
最高の人生だったかどうかはわからない
けれど、最高の最期だったと思う。
あれから10年、今度は後期高齢者になりつつある父親に、次はお父さんのプランも考えようか?なんて、冗談めかして言っている。

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tai***** | 1時間前

しっかりとした自分の意思があり
強くて理解のある妻子で良かったですね

最期に向き合うってわかっていても心が揺らぎますよね
両親ももちろん自分自身も、後悔がない最期を迎えたいです

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古き良き | 50分前

年齢や家族構成や環境にもよるが、死が迫っている状況においては、逆らう生き方より、その流れに沿った生き方が選択肢にあると、充実することもあるのだと感じました。遺族の方々にとっても同様だと感じました。

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His masters voice | 3時間前

ウチは話し合いましたよ。
カネの使い方、残った家族の生き方、葬式、墓…。
母は「納得できた。良かった」と言ってくれました。
家族も「あぁしとけば良かった」がないので、楽です。


F91くちビーム | 2時間前

平民でいい。
普通の幸せを送ってほしい。

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nm | 42分前

まもなく息を引き取るお父さんを前に、娘さんが最後となってしまった直前の父とのやり取りで言うことを聞いてやらず泣いてしまったことを後悔していたが、在宅医が「死ぬ前に、お父さん今までありがとうございましたと言って死んでいくなんてことはおかしい。お父さんは怒ったり笑ったりの日常の中で亡くなっていく。こんないいことはない」
というようなこといっていたが、その言葉で娘さんの気持ちは救われたし、私も亡くなった親に対する接し方の後悔も薄らいでいきました

人は生まれて死んでいく
もっと自然なことに考えて、どう死んでいくかなんてそんなに考えることはないと思った

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※(@-@)※ | 1時間前

理想はあっても、お金がないと現実は
なかなか厳しいものがある。

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shomama | 3時間前

私も一人娘。主人と息子がいるから両親が亡くなっても孤独にはならない。とはいえ、こんな風に死を受け入れられるだろうか?今ちょっと想像するだけで、私はしんどい。いざ本当にそうなれば、ストンと落ちるものがあるのだろうか?

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sak***** | 7分前

緩和ケア=看取りの医療ではない。抗がん剤で治療を受けているときから苦痛を和らげる緩和ケアは必要。

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wgl***** | 2時間前

神戸で高台にあるなら、六甲病院か。あそこ、高くてお金持ちしか入れないのよね。記事の端々からも、お金持ちだと分かる。もっと庶民に役立つプランを知りたい。

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ume***** | 15分前

両親は延命治療を望んでいないが、母が脳卒中で倒れ、がん以外の疾病(脳卒中や心不全など)に対応してくれる緩和ケア施設が少ないことがわかった。意識はあるが、心不全もあり症状が重く、話をすることもままならない状態の中、何が本人にとって最善なのか探る毎日。病気はがんだけではない。緩和ケアをもっと他の疾病にも対応できるようにして欲しい。

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wai***** | 1時間前

どんな最期になるのか 誰もわからない。
金が溢れるほどあっても雑に過ごす人生は虚しい。
本人も家族も後悔の無いよう 丁寧な暮らしを心掛けたいね。

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