指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『陸軍前橋飛行場」

2020年03月25日 | 映画
前橋に陸軍の飛行場があったとは知らなかったので、見に行く。

                 

1942年のミッドウエー戦の後、飛行兵の養成のために急遽前橋に飛行場が作られることになり、土地の収用が始まる。
全体の経過は、この地におられた住谷修氏の日記の記述により、学生、囚人、さらには朝鮮人など2,000人を動員してなんとか1年後にできる。
米軍は、大型重機でサイパン島で数週間で飛行場を整備していたのと大きな差である。
アメリカでは、T型フォードとニューデールの公共事業で、ドイツでもフォルクスワーゲンとアウトバーンで自動車の時代になっていたが、日本ではまだモッコと人力だったのだ。中学生が箱を背に負って土を入れて現場に運んだというのだからすごい。万里の長城の人海戦術である。
高橋和夫先生によれば、「アメリカの南北戦争以後、人口と経済力の高い方が、戦争では勝つ」そうで、ここでもそうだった。

1944年に飛行場はできるが、赤トンボ(練習機)が墜落したり、大型輸送機が転覆した等の事故が起きる。
要は、きちんと舗装されていなかったのだろう。
その頃、サイパン島に基地ができ、B29、あるいは洋上の艦載機からのグラマン攻撃を住民は受けるようになる。
そして、1945年の前橋の爆撃、言うまでもなく群馬には中島飛行機の大工場があったためで、米軍は爆弾と焼夷弾を8対2で混ぜて爆撃する。
その戦後の前橋の焼け跡の写真をアメリカの国立公文書館で発見したと福田康夫元首相が証言される。
福田氏は、公文書管理法を作られた方なのだ。
近年の自民党の首相で一番まともだと思われたが、なぜ辞めたのだろうか、非常に不思議。
そして、8月15日の玉音放送、証言された女性もなんだか分からなかったが泣いたそうだ。

結局、急遽作ったが、大して役には立たなかったようだが、それも戦争であり、「私たちの村も戦場だった」の副題のとおりだった。
コロナウイルス騒ぎ故か、横浜シネマリンは、ガラガラだった。
八幡さんも大変だなあと思う。





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