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普化宗の日本開祖法灯国師も尺八を吹けなかった

2007-08-10 06:25:44 | Weblog
紀州(和歌山県)由良の興国寺。その開祖法灯国師心地覚心(又は学心)が
普化禅(虚無僧)の日本開祖という噂は、戦国時代末から江戸時代の初め頃
に創られたようだ。しかし、興国寺側にそういう史料は全く存在しない。
 
京都の虚無僧寺明暗寺から江戸時代の半ば、いきなり親寺になってほしいと
手紙が来た。興国寺としては、無視していたのだが、「然るべきお金も毎年
納めますから」との再三の要請に、親寺を引き受ける。すると興国寺の親寺、
臨済宗妙心寺派の総本山、妙心寺からクレームがついた。「明暗寺とやらが
いつのまにか興国寺の末寺になっているが聞いてないぞ」という脅しである。

これに対して興国寺は、「寺が火事で焼けて記録は有りませんが、なんでも
その昔ちょっとした関係があったようです」と苦しい弁明をしている。

明暗寺もいい加減だ。毎年お金を納めるとか、「住職になる虚無僧はきち
んと興国寺で剃髪して得度受戒を受けます」と約束したにもかかわらず、
ちっとも実行しない。親寺-末寺の関係はうやむやのまま歳月が過ぎた。

明暗寺が、興国寺の末寺になろうとしたのには次のような理由があった。

幕府の浪人取締りとキリシタン禁令による宗門改めである。
虚無僧寺は元々浪人の溜り場である。葬儀を執り行うこともせず、墓地も
ない。
幕府から、寺なら宗旨と『縁起(由緒書き)』を提出せよと督促された。
困った困ったの末、興国寺に頼み込んだのだ。
「興国寺の開祖法灯国師殿が中国から帰朝の折、尺八僧を連れてきて、
その一人なのか、その弟子かはわかりませんが、虚竹という方が
京都に来て、明暗寺を建てたということにしてください。と

こうして『虚鐸伝記』なるものがでっちあげられ、幕府もなんとなく黙認
してくれたので、後は興国寺との関係も知らんふりしたのである、と
私は考えている。
しかし、親寺になぜ興国寺を選んだのかが、解けない謎である。


尚、詳しく知りたい方は、虚無僧研究会の機関誌『一音成仏』31~34号
に寄稿しているのでご覧いただきたい。







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