狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

吉村昭について

2006-08-20 22:24:29 | 本・読書
昭和20年2月初旬、私たち中学生まで動員して飛行機修理や、マルダイ兵器(人間爆弾〝桜花〟)の生産にあたっていた海軍□空廠は、米艦載機の爆撃で、致命的打撃を受けた。
この日は、マリアナ基地を発進したB29の編隊も大挙して来飛したが、超高空を西に向かって通過しただけで、この地方は平穏に見えた。私たちは早くから、防空壕に退避、時折壕を出ては上空を見上げているほど、暢気に構えていたのである。

その後、間もなく応戦する付近の防空陣地から機関砲の射撃音で緊張した。
約1キロ位離れている□空廠上空に艦載機の編隊の姿が現われたのを確かに見た。身の軽い艦載機は舞うように降下して、空廠施設に爆弾をふるい落とした。 
グラマンTBF「アベンジャー」という機種で、弾倉が開いて爆弾が落ちるのがはっきりと見えた。急降下可能の艦上爆撃機であった。

 B29の高空からの戦略爆撃(無差別爆撃)と違って、艦載機の攻撃は、軍事目標を狙った正確なものであった。
 この爆撃で□空廠の稼動はほとんど不可能になった。爆撃が終わって、壕から元の職場、飛行機組み立て工場に引き上げてくると、そこは爆弾であるから火災こそ起きなかったが、瓦礫ばかりの無残な戦場の跡と化していた。
 通用門附近に飛行機が墜落した。敵機が去ったあとの正午頃の時刻である。米軍機だろうと思って駆け付けたが、飛行機の格好も分からない残骸の塊であった。 
それは味方機であった。
 
 それ以後は、爆撃あとの片付けに追われる日々が続いた。ある日の夕方、近くの飛行場内の中央格納庫と呼ばれる建物に、93中錬の「爆装をする」といってその取り付け作業に連れて行かれた。昼間は空襲の危険で、夜の作業となったのである。「爆装」といっても、ピント来なかった。鉄板を切断して折り曲げU字型にし、溶接した村の鍛冶屋が作るような器具である。その器具を2~3機の通称「赤トンボ」の胴下に取り付けたのである。勿論それは爆弾の懸架装置とは分かった。250㌔爆弾を固定懸吊してそのまま体当たりするものであったことは、戦後になって知り得たことである。
 夜半コッペパンの差し入れがあった。同僚がパンにカビが生えているのを発見したが、パンなどは貴重品であった。貪るように食べた。空腹ではなかったが、パンの味は格別だった…。

 吉村昭訃報のあった日、小生はブログに吉村昭の「零式戦闘機」について触れた。
 学習塾講師のV先生の目にとまり、
『「吉村昭」について述べよ』とオッカナイ顔で詰問されたような気分である。
 吉村昭と言われても、嘗て昔、
 「零式戦闘機」(新潮文庫)「戦艦武蔵」新潮社をざっと見ただけである。
 しかしそれを読み返し感想を述べるには、もう一度も二度も読み返す必要もあるだろう。文庫本といえど、300ページにおよぶ。軍艦については、全くの予備知識を持たぬ。 さらに、最近『「戦艦武蔵ノート」作家ノートⅠ吉村昭』なる文春文庫も発見した。

「v先生、いま少し時間を呉れ」ともいえたいが、V先生は忙しい受験生相手の講師である。そんなものに構っていられないだろう。それにおっかない顔が目に映る。ビンタをくわせらる恐怖もあった。

そこで思い出すのは、
 この書き出しが、「零式戦闘機」は牛車で試作機を、名古屋市港区大江町の海岸埋立地区にある三菱重工株式会社名古屋航空機製作所の門から、48キロ離れた岐阜県各務原飛行場に運ばれる情景から始ること、
「戦艦武蔵」は有明海沿岸の海苔養殖業者が棕櫚の繊維が姿を消したことに気付いたことからの展開なのである。しかも両者とも、

『昭和12年7月7日、北平郊外の盧溝橋北方地区で端を発した中国大陸の戦火は…。』から稿を起こしている。

私は吉村昭「零式戦闘機」「戦艦武蔵」を通読して、戦後61年経っても、あの中学3年の時、鉄の嵐といわれた沖縄戦に立ち向かうのに、93中錬の爆装をしたこと、カビの生えたパンを食した記憶を、ダブル・イメージすることを書いてV先生への答えとしたいのである。


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1 コメント

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先輩! (VIVA)
2006-08-21 04:19:05
おじゃまいたします。拙者、何と申し上げれば良いのやら…。



先輩のブログから19もアクセスがありましたので。どうしたのかと思いまして、のぞいたら、“ビンタの恐怖”とは…



そりゃtani大先輩にビンタをくらわす奴がいるとならば、私も見たくなります。それこそ、切腹してもできません。

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