狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

朝日新聞題号について

2008-07-28 07:29:24 | 日録
          

凡凡学兄から、先日の朝日新聞画像の「題号」について、次のようなコメントを戴いた。こんなところに迄、気が付く学兄の識見は流石である。
掲載画像の「朝日新聞」の表題文字が奇妙に
見えるのは、小生の眼が老衰のためか・・?
新聞の新の片の下が、木ではなく未になって
いるのは何故でしょう。

勿論ボクが回答すべき問題ではないが、愛読者として朝日新聞には特に気負いがあるので、ボクの知っている範囲のことをエントリーしてみた。
ネットにもこのことが書かれていて、(参照のところにリンクを張った)朝日新聞社史とは少々異なるが、興味深い記事なので参照して戴きたい。

写真は、『朝日新聞社史(明治編)全4冊朝日新聞社』から、「新」の検索は、『常用字解・白川静 平凡社』からスキャンした。
字が読みにくいので、社史から創刊第一号の紙面の解説の一部を引用する。

 
『創刊第一号の紙面』第一号の紙面はいまの大きさの約三分の一、縦三十二センチ、横二十三センチで、一枚二つ折り四ページ、その第一面の上部に「朝日新聞」の題号が、浪華にゆかりある芦の図案でかざられて右から左へ横一段に大きく書かれていた。この大事は中国唐代の名筆欧陽詢が書いた「大唐宗聖観記」の碑の古い拓本から字を集めたものだが、「新」(立+未)の字だけはなかったので「親」(立+未)と「柝」の二字から偏とつくりとをとって、それに手を入れてつくったという。現在もこれを使っている。

三面から四面上段につづく創刊のあいさつは、主幹津田貞(号は聿水いっすい)が「社中一統の総代」として筆をとったものである。その全文はつぎのとおり。

東帝駕を促がして南枝の一蕾を綻ろばす斯花の難波津によしとあしとをかき分て世の人心に映して見る水の鑑も曇りなき明治聖代の風倍をばそを其儘の活歴史と今を盛りに開け行く文の林の効績を覔て這個に創る朝日新聞振放見れば膽駒山時まだ寒き積陰の雪気横雲の旗手を払ふ朝東風は一陽来復の前駆にて棚引き初る棹姫の霞の衣麗らかに豊栄昇る朝日児の天の御影取分て御贔屓の御影を仰く一社の幸先今日初刷のういういしさも手習ふ児童の筆始め足らぬ勝なる難波の事も浅香山の浅からぬ看官の愛顧によりて譴りもし褒もして養育玉はゝやがて世に楷草行の運筆自在と成立つ時のなからずやはと江湖の人皆の力を力に斯は物する事とはなりぬあはれ朝日の光り落ちず大八州の隅々までも到り及ばんことを願ふと思ふ旨を片端に記して社中一統の総代となり禀状でもなく祝辞でもなく解らぬ事を臆面なしに列らべ立たる小可は大坂の社員と云ふもちと厚皮しき瀬惰生朝日社では居候の中へも這入らぬ津田聿水今日ばかりは真面目になりて謹んで白す

朝日新聞の記事は総ルビであった。このブログでは振り仮名ができないので、始めのところをかな読みにすると次のようになる。
(とうていがをうながして なんしのいちらいをほころばすこのはなの なにはづによしとあしをかきわけて よのひとごころにうつしてみるみづのかかみも くもりなきめいじせいだひのてぶりをば そをそのままのくわつれきしと いまをさかりにひらけゆくふみのはやしのいさををとめて ここにはじまるあさひしんぶんふりさけみれば ゐこまやま…)
           
朝日新聞(大阪)創刊号第1面明治12年(1878年)1月25日
(朝日新聞社史 明治編明治12年(1879年)明治45年(1912年)1990年7月10日朝日新聞社発行)巻頭写真よりコピーした。
この社史は当初社内版非売品として発行されたが、1995年(平成7年)7月25日
市販本5冊函入りセットが発行された。

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