万世六兵太の乾坤一擲!

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暗黒日記 ~1942年12月15日~

2015年03月31日 03時22分01秒 | 暗黒日記
昨日、東洋経済の月曜評議員会に出席。伊藤正徳も来る。

奥村情報局次長は、新聞記者会合の席上で、「新聞の紙は来年から、ウンと少なくなる。諸君はやめて情報局の聖戦完遂の演説で地方でも廻れ」といったという。それから『中央公論』などはウンと少くするとて、名をあげて攻撃した。さらに堀内という中佐は中央公論を無くしてしまうといったという。言論は、この少壮官吏の玩具になったことを知(不明)はずではないでしょうかと。

そういえば今の政府がどっかの言論機関を名指しで攻撃していたなぁ。

言論機関の批判は本来は読者の不買運動や抗議等でされるべきなのに、国家機関がそれに介入するのはなぁ。

政府などの国家機関は言論機関によるチェックがされ
言論機関は国民によるチェックされるのが理想なのだが…。

戦時中のこういったことによることで政府は「言論」に対する教訓を得たのであるが、それは「政府が矢面に立たず言論などを統制する」にはどうすればいいかを考えたことかもしれない。

政府が統制すると当然言論機関や国民からの批判がある。

ならどうすればいいか…。国民自ら言論統制をするように仕向けること。

つまり言論機関の不祥事を国民が叩いていることに対して国家が手助けをすること。言論機関の不祥事に「こういった言論機関を廃刊にすべきである」と国民の声に国家が乗っかれば「政府が言論を統制」するのではなく、「国民が言論統制を望んでいる」という形で言論を統制することができる。

これは考えすぎかもしれないが、こういったことには被害妄想といわれても警戒するに越したことない

ちなみに言論弾圧(言論統制)の定義

言論統制とは、政治権力が報道・出版・その他の言論に対して行う規制で、規制の対象や方法は様々。マスメディアが対象となることが多いが、集会、デモ行進、個人の会話まで規制されることもあります。

よくTwitter同士の会話やブログの返信コメなどで「言論統制」とか言う話を聞くが厳密に言うと「言論統制」ではないのです。国家が規制しているわけではないのでね

明治以降の日本においては出版法、新聞紙法などにより検閲が行われ、

●共産主義・無政府主義の宣伝・煽動
●皇室批判(おそらく考察なども不可?)
●日本の植民地(朝鮮・台湾など)独立運動の煽動
●人工妊娠中絶の方法の紹介
●要塞地帯や軍港などの地理記述・写真

などは発行禁止の対象となった。

戦時体制下の日本では、出版法、新聞紙法、国家総動員法などをよりどころにした言論統制が情報局や特別高等警察を中心に行われた(安寧秩序紊乱に関わる発禁命令権者は内務大臣)。

戦後は日本国憲法に言論の自由を保障すると明記されているがプレスコードなどGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による言論統制・弾圧は占領解除まで行われた。

今と昔の比較の部分でいうと

日本国憲法21条
1)集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2)検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

※上記のように日本では憲法上、言論の自由が保障されているが、菊タブーや鶴タブーなど言論の禁忌(報道できないこと)が少なからず存在している。

旧憲法においては大日本帝国憲法第29条において言論、出版、集会、結社の自由について規定する条文がある。

日本臣民は、法律の範囲内において、言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する。

『法律の範囲』という部分が肝で、法律(言論、出版、集會、結社等臨時取締法など)で憲法にある原則が制限されるという性質を持っているが、現憲法においては98条で憲法に反する法律は効力を生じないということになっている。

戦前、即ち大日本帝国憲法下の日本における言論弾圧・粛清には、以下のものが存在する。

1)非合法的左翼勢力(すなわち日本共産党・共産主義者)およびその関連団体(大衆運動組織)などへの弾圧・粛清
2)合法的左翼勢力(すなわち一部の急進的社会民主主義者)および自由主義的知識人などへの弾圧・粛清
3)体制内の非主流派・批判的グループ(左翼からの転向者が多かった)などへの弾圧・粛清
4)一部の宗教団体への弾圧

この中で弾圧立法として大きな役割を果たしたのが治安維持法であり、幾度かの改正を経て本来の立法意図をすら逸脱し、広い意味での体制批判者を取り締まる法へと拡大解釈されていった。敗戦後、GHQの政策により治安維持法体制は一転して解体に向かった。

1925年に制定された治安維持法以降の言論に関する事件を万世の独断と偏見で抜粋すると


1925年4月22日:治安維持法公布[5月19日施行]。

1925年12月1日:農民労働党が結成され即日禁止。

1926年1月15日:京都学連事件本格化。

京都帝大など全国の学生社会科学連合会メンバーが検挙、最初の治安維持法適用事件。(1927年5月30日:京都地裁による有罪判決)

1928年:三・一五事件
全国で検挙1568名、起訴483名(初めて治安維持法を適用)。4月10日に報道解禁。

1928年4月10日:労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散命令。

1928年6月29日:治安維持法中改正を公布する緊急勅令。
最高刑を死刑とする。(1929年3月5日:衆議院で事後承諾案可決)

1928年7月3日:全国の警察署に特別高等課設置。

1928年7月24日:各地裁に思想係検事(思想検事)を設置。

1929年:四・一六事件[全国で共産党関係者起訴339名]。

1929年3月5日:治安維持法改正事後承諾案に反対した山本宣治代議士刺殺。
(犯人は右翼団体である「七生義団」の黒田保久二)

1929年、前年の三・一五事件を機に警保局図書課の予算を倍増し、言論弾圧を拡大。

1930年、関東大震災(1923年)以後、およそ毎年1000件であった発売頒布禁止処分の件数が1897件(前年は1095件)へと急増。

1931年5月25日:三・一五と四・一六両事件の統一公判開始。

1932年4月:プロレタリア文化団体への弾圧、4日蔵原惟人、7日宮本百合子検挙。

1932年6月29日:警視庁特高課が特別高等部に昇格。

1933年2月20日:小林多喜二、検挙され警視庁築地署で虐殺される。

1933年4月22日:滝川事件の始まり。
鳩山一郎文相が京都帝大法学部教授滝川幸辰の辞職を要求。

1933年8月11日:桐生悠々、信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う」を掲載(その後問題化し、桐生は退社に追い込まれた)

1934年:南北朝正閏論で足利尊氏を過去に評価した商工大臣中島久万吉が菊池武夫や右翼から攻撃を受け、辞任に追い込まれる。

1934年5月2日:出版法改正公布[皇室の尊厳冒涜・安寧秩序妨害への取締強化]。

1934年6月1日:文部省に思想局を設置。

1934年10月:陸軍パンフレット事件

1935年2月18日:天皇機関説事件の始まり。
貴族院議員菊地武夫、美濃部達吉の議員辞職を要求。

4月9日:主著の発禁。

9月18日:美濃部の議員辞職。

1935年8月3日:第1次国体明徴声明

1936年5月28日:思想犯保護観察法公布。

1936年5月28日:不穏文書臨時取締法公布。

1936年3月24日:内務省がメーデー禁止を通達。

1937年4月28日:結社禁止。

1937年11月8日:中井正一・新村猛ら『世界文化』同人の一斉検挙開始。

1937年11月24日:矢内原事件。
東京帝大経済学部長・土方成美、矢内原忠雄教授の言論活動を非難。12月4日:矢内原辞職。

1938年2月18日:『中央公論』3月号掲載の石川達三「生きてゐる兵隊」発禁。
1938年3月3日:「黙れ」事件

1938年3月11日:社会大衆党代議士西尾末広の政府激励演説が問題化。
「ヒトラーの如くスターリンの如く」と発言し同月24日に議員除名。

1938年11月29日:唯物論研究会事件。
岡邦雄・戸坂潤・永田広志・新島繁ら幹部35名が検挙。1940年1月24日:第二次検挙(12名)。1945年8月9日:戸坂の獄死。

1939年1月28日:平賀粛学事件
東京帝大総長平賀譲、河合栄治郎および土方成美両教授の休職を文相に上申。両陣営の賛同者が同措置に抗議して多数辞職。経済学部は創部以来の大混乱に。

1939年3月25日:軍事資源秘密保護法公布。

1939年4月8日:宗教団体法公布。

1940年1月11日:津田左右吉右翼の攻撃により早大教授辞任。

2月12日:主著『神代史の研究』など発禁。3月8日:起訴。

1940年2月2日:斎藤隆夫代議士「反軍演説」事件
戦争政策を批判した衆議院での演説が問題化。3月7日:議員除名処分。

1940年8月:プロテスタント(メソジスト)系キリスト教会・救世軍への弾圧。山室軍平の著書『平民の福音』が発禁処分となり、イギリス人宣教師や植村益蔵ら日本人伝道者がスパイ容疑で憲兵に逮捕される。その後政府に「軍」の名称や軍隊組織の使用禁止、イギリスの万国本営(教団の世界本部)との断絶などを迫られ、万国本営との関係一時断絶と「日本救世団」への名称変更を余儀なくされた。

1940年8月25日:賀川豊彦、反戦平和論により憲兵隊に拘引。

1941年3月10日:治安維持法全面改正公布[予防拘禁制度の新設]。

1941年5月15日:予防拘禁所設置。

1941年12月9日:全国の治安維持法違反被疑者・要視察人・予防拘禁予定者計396名を検挙・検束・仮収容。

1941年12月19日:言論出版集会結社等臨時取締法公布。

1942年4月24日:尾崎行雄、選挙演説で不敬罪で起訴。
翼賛選挙における非推薦候補の運動に対する全国的干渉の一環。

1942年9月12日:横浜事件の始まり。
細川嘉六「世界史の動向と日本」を掲載した『改造』の発禁(14日:細川の検挙)。また同月、世界経済調査会の川田寿・定子夫妻が神奈川県警察部特高課に検挙。1943年5月26日:細川および中央公論社・改造社社員の会合を共産党再建会議と見なし検挙開始(泊事件)。

1944年1月29日:前記2社のほか日本評論社・岩波書店・朝日新聞社の編集者、昭和塾関係者を検挙(合計49名)。

7月10日:『中央公論』『改造』廃刊命令。

1943年1月1日:中野正剛の「戦時宰相論」を掲載した朝日新聞の発禁。

1943年3月13日:戦時刑事特別法公布。

1943年3月15日:『中央公論』掲載の谷崎潤一郎「細雪」連載禁止。

1944年2月23日:竹槍事件
毎日新聞「竹槍では間に合わぬ」の記事で差し押さえ。

1945年2月:戦争敗北の流言が広まり東京で1月以来40余件が送検。

1945年8月15日:昭和天皇が降伏文書の調印を予告。

1945年9月2日:日本政府が降伏文書に調印。連合国軍による占領が開始。

1945年10月4日:GHQ/SCAP、政治・信教・民権の自由制限撤廃の覚書発表。治安維持法廃止指令。

1945年10月10日:政治犯約3000名釈放。

1945年10月15日:治安維持法・治安警察法・思想犯保護観察法など廃止。特高警察官罷免。

この辺りはまた説明させていただきます




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