れいな日記《Reina- diary》

複数画像で北茨城市の歴史、観光、ニュースなどをお伝えし「北茨城市」を勝手に応援しています。

常陸太田市にある西山荘までのツーリング 北茨城市

2009-03-20 | 爺の想い
【画像説明】西山荘入口の御門

昨日(3/19)北茨城市からバイクに乗り、2年ぶりに常陸太田市にある水戸光圀(水戸藩二代藩主)の隠居処「西山荘」を見学した。
※西山荘に関する話題(画像)が前回と重複するので割愛し、下記の話題を取上げる事とした。

前回(07.01.19付)の生憎、黄門様は諸国を漫遊されてお留守でした。をご覧下さい。


水戸徳川家の墓所・瑞龍山(この瑞龍山は西山荘とは少し離れた処にある。)
墓所は、この土塀の奥にあるが現在は徳川家の意向で見学できなくなっている。


テレビの放映でお馴染みの〝助さん〟の住居跡
西山荘エリア入口となる店の裏口から西山荘に向かう小道を行くと間もなく左側に〝助さんの住居跡〟の案内看板があり、案内により高台に上がると用水池がある。その用水池の周辺を右回りの3~400m歩くと目的地に着く。そこには看板と井戸のみがある。
看板には、文題:水戸黄門漫遊記でお馴染みの「助さん」の居住跡(常陸太田市新宿町不老沢)として‥
助さん(本名・佐々介三郎宗淳)は、延宝2年(1674)、35才の時、黄門さん(水戸藩主二代藩主徳川光圀)に招かれ、彰孝館の史臣となりました。全国各地を訪ね貴重な古文書を収集して「大日本史」の編さんに力を尽くしました。元禄元年(1688)彰孝館総裁に任命され、西山荘の黄門さんに仕えました。元禄11年6月初めに59才で亡くなりました。
この辺が助さんの住んでいた所でこの井戸(深さ4mほど)は、当時使用されたものです。助さんの墓は、市内の増井町の正宗寺にあります。とある。


不老沢跡
西山荘への道の助さん住居跡へ上がるほぼ同位置のところにある。
説明看板には‥
「この地一帯は、往時は不老沢と称し、光圀公にお仕えした家臣の屋敷があった処です。
大森典膳(西山にての御家老) 佐々介三郎(格式小姓頭) 剣持與兵衛(格式御納戸) 鈴木宗與(御医者) 朝比奈半冶(格式小納戸)
明治初年に付近の水田が開拓されたために、用水池になりました。」とある。


いずみやの手打ちうどん鰹だし味と〝ぶっというどん〟が最高。
今回も常陸太田名物のうどんを食べて家路についた。


当時は世界一の日立の大煙突
常陸太田市からの帰り道は、日立市を経由、きららの里、日立の大煙突を見ることができた。
この煙突は、北茨城市からも見ることができたが、平成5年2月19日、地上54mを残して崩壊したため、現在は雄大な姿を見ることが出来なくなった。
「日立の大煙突」のプロフィール
建 立:1914年(大正3年)12月 所在地:茨城県日立市三作山頂(標高328m) 高 さ:155.7m(当時世界一)
材 料:鉄筋コンクリート(382トン) 規 模:延べ36,800人、9ヶ月間 目 的:銅精錬の煙害防止
所有者:日鉱金属日立工場


5月2日~3日は‥
国選択無形民俗文化財 常陸大津の御船祭 です。
開催は、5年に一度の今年です。チャンスを逃すと五年後にならないと観られません。
是非今回、御出でください。

詳しくは、下記HPをご覧下さい。
常陸大津の御船祭ホームページ



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
梅里先生 (namechan)
2009-03-23 07:13:18
今から7年前に亡くなった勝田の義父が、
『梅里先生の碑文と銘」を墨書し、掲額
していたのを思い出しています。
すっかりケガからも回復されバイクで駆け回っている姿に敬服。
先日、彼岸の入りに墓参してきました。中妻も
便利になりましたね。
ご自愛を!
namechanさん、いつも有難う御座います。 (れいなじ)
2009-03-25 06:15:38
18日、父の命日、偶然お墓で阿見町家族にお会いしました。
先に天理教近くの墓参りを済ませたが、既にnamechanさんに花をあげていただいたので、花束が余ったとのこと。その花束を私が頂き大変助かりました。
○正ちゃんが、定年を迎えたとのこと。(私も、いっぱい歳を重ねた気持ちでした。)