「ぷらっとウオーク」 情報プラットフォーム、No.266、11月号、2009
{くちびるに歌を持て}
小学校3年生の時、子育ては母に任せきりで仕事一筋の父が「この本を読みなさい」と立派な装丁の短編集「心に太陽を持て--胸にひびく話」(山本有三編著、日本小国民文庫、新潮社、(1935))を渡してくれた。年齢の割りには難しかったが、それぞれの話が私に様々なインパクトを与えた。「くちびるに歌を持て」はその中の一つである。
あらすじは「嵐の中で船が遭難し、漆黒の闇に投げ出され、絶望の思いで漂流物に掴まって波間に漂っている人々。その時、澄んだ美しい歌声が聞こえてくる。これに元気づけられ、歌の輪が拡がり、絶望が希望に変わっていく。
暗い海に染み通る歌声を頼りに救助船が近づいてくる」である。海難事故のニュースを聞く度に、船に乗る度に、それが自分の身に起こったらと悩むことになる。海難に対する恐怖心よりも、その時そこに置かれたとき、パニックに陥らないという確信が持てないことに不安を感じた。心配性の私には最近の2つの海難事故はそのような思いを強くさせた。
2008年2月19日未明、訓練を終えて帰港する海上自衛隊の最新鋭のイージス艦「あたご」がマグロ漁船「清徳丸」に東京湾で衝突し、親子2人が行方不明となった。
2001年2月10日早朝、ハワイ州オアフ島沖で、宇和島水産高校の「えひめ丸」が不用意に浮上した米国の原子力潜水艦に衝突された。海に投げ出された乗組員35人の内、9人が行方不明となった。海に投げ出された人々のその時の様子はどうだったのだろうか。
戦中の1945年、中1になって直ぐの5月末、父の転勤で福岡から札幌への大旅行は横浜で大空襲に遭遇した。灯火管制下の青森港を青函連絡船は静かに出港する。駆逐艦?が併走していた。撃沈されるかも知れない恐怖を感じながら、あの物語を思い出していた。
戦後の1945年、中1の12月、父は東京へ転勤。アメリカ軍の管理の下、青函連絡船では、防疫のために髪の中から下着の中まで殺虫剤の粉が吹き込まれた。船は甲板まで詰め込まれた超過密の状態。
甲板から海上に張り出した板囲いの便所から遥か下に航跡が見えた。定員過剰による最悪の事態が起きても不思議がない状況である。当然、あの物語を思い出し、釣り下げられている救命ボートを横目で眺めていた。これらの体験から、連絡船やフェリーの海難事故を特に気にするようになっていた。
1954年9月26日の深夜、洞爺丸は台風15号の荒れ狂う中で座礁・沈没した。死者1300名、生存者はわずか150名程であった。後で洞爺丸台風と名付けられたこの台風は、北海道岩内町の3300戸を焼き尽くす大火をも引き起こした。
水上勉の「飢餓海峡」は洞爺丸台風のもたらした2つの災害を関連させた推理小説である。翌年の1955年には、宇高連絡船紫雲丸の海難事故が起きている。死者は168名である。このとき高知の南海中学の生徒が犠牲になっている。
就航以来の9年間で5件の事故を起こし、「死運丸」と呼ばれもした。子供心に漠然と、事故に遭遇したとき、自分は「くちびるに歌を持てるだろうか?」と心配し、「そのような場で歌えたらいいな」、「その時に歌えるように冷静でありたい」と願うように変わっていった。蛇足ながら、青函トンネルと瀬戸大橋ルートが完成した1988年は「日本列島」が一本のレールで結ばれる「一本列島」になった年である。
小3の子供にはかなり難解な本を買い与えた意図を、父には遂に聞かずじまいだったが。新潮文庫になっているこの短編集は、今読んでも胸にひびく逸話の集まりである。
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