経理・経理・経理マンの巣窟

大・中・小あらゆる企業で経理実務経験約40年の蔵研人が、本音で語る新感覚の読み物風の経理ノウハウブログです

経理マンへの道 (中後編)

2014-02-28 13:02:43 | たそがれ経理マン編

 

 医療センターの事務局で企画、経理、総務、人事、医療事務をこなしていたと書いたが、正確には私が行った経理事務とは、補助簿の記帳や棚卸くらいだった。そのほか元帳記帳、試算表作成、決算書作成、資金繰りなどは、年配の女性とあとから入社した40歳前後の事務長代理が行っていたのである。
 私は本格的に経理をやってみたかったのだが、事務長代理はともかく、必死に経理にしがみついている年配の女性の仕事を奪い取る気分にはなれなかった。だがどうしても本格的に経理を覚えたいという気持ちがメラメラと燃え上っていた。
 
 そこでまず簿記の通信教育を受けてみる。生まれてはじめて知った簿記だったが、これほど勉強が楽しいと感じたことはなかった。毎日貪るように添削を重ねた結果、わずか半年後には日商簿記2級に合格してしまったのである。
 もうこうなると、経理関係の勉強が楽しくてしようがない。そこで簿記以外の経理の勉強を深めるため、当時代々木にあった東京経営計理学校の夜学に通うことになったのである。ここは毎晩6時から9時までの3時間を使い、1年間で簿記、会計学、商法、税法などを学んでゆく、いわゆる短期大学から一般教養を除いたようなシステムであった。

 それにしても毎日というのは非常に辛い。そして麻雀仲間の技師たちからも、始終「お誘い」の声がかかったのだが、心を鬼にして必死でそれを振り払った。結局授業を休んだのは仕事が超多忙なときの3日間だけで、なんと1年間ほとんど休まず、必死にこの学校で勉強に打ち込んでいたのである。もし一度でも麻雀のお誘いに応じていたら、禁煙を破ったように、途中で挫折してしまったかもしれない。

 それはそうと、この学校に入学した時は60人余りの受講生がいたのだが、1年間最後までついていったのは、なんと私を含めて5人だけであった。仕事をこなしながら、いろいろな誘惑を払いのけて毎晩勉学に勤しむのは、強靭な意思と体力がなければ成し得なかっただろう。
 このころ私の心の中には、目前にぐーんと真っ直ぐに伸びた広い道が果てしなく続いているのが見えるようになってきたものである。そして私の燃えたぎる心は、さらなる躍進へと向かって行くのであった。

(次回最終回に続く)

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経理マンへの道 (中編)

2014-02-19 14:16:02 | たそがれ経理マン編

  その後何度か面接をして、いくつかの上場会社から採用通知が来た。だが職種が営業だったり、勤務地が郊外だったりで、期待感も自信も沸かず全て断ってしまった。そうこうしているうちに、あっという間に半年が経ち、毎日のように母親の心配顔を見なければならない生活が続いていた。
 そんなとき、朝日新聞の求人欄に僅か二行の小さな求人広告を見つける。「医事募集」場所は東京駅八重洲口前とあった。そもそも「医事」とは何かも知らず、ただ八重洲口前ということだけに惹かれてわざわざ面接に出向いたのである。

 「医事」とは医療事務のことであり、ここは新設した医療センターで、医療事務のベテランを募集していたのだった。だから普通科卒の何も出来ない若造など、全くお呼びではなかったのである。だがものは試し、あるいは当たって砕けろの格言の如く、実際に行動してみればなんとかなるものであった。
 たぶんダメだと諦めて、家に帰ってふて寝していたら、この医療センターに就職して喜んでいる夢を見た。とそのとき母親が慌てて私の部屋に入って来て電話だと言う。なんとその電話は、午前中に面接した医療センターの事務長からであり、明日にでも出社して欲しいとの合格連絡だったのである。

 こうして私は運命的な出会いとなったこの医療センターで五年間の社会人生活を送ることになるのだった。この医療センターの従業員は30人程度であったが、先進の医療機器を導入して、そのころまだ未開発だった検診バスによる集団検診を実施し始めていたのである。私は企画、経理、総務、人事などを任され、次第に医療事務であるレセプト作成なども覚えはじめた。なにしろ若いということは、それだけでひとつの財産である。何でもやれるし、すぐに吸収して自分のものにしてしまうからだ。

 ただひとつだけ気になることがあった。それは当時はどこの病院でも同様だったのだが、医師・薬剤師・看護婦・技師・事務員という、士農工商のような封建的な身分制度が残っていたことである。従って給与体系も、この身分ごとに差別的に定められていた。
 もしこの身分制度のようなしきたりさえなかったら、とても環境の良かったこの医療センターで一生働いていたかもしれない。だが逆に言えば、もしそのぬるま湯の中につかり続けていたら、『たそがれの経理マン』も誕生していなかったのである。
 
(次回に続く)

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経理マンへの道 (前編)

2014-02-12 09:20:44 | たそがれ経理マン編

 

 少年時代からマンガが大好きだった。貸本屋に入り浸りで、かなり大量のマンガを読んだ記憶がある。だが実は読むだけではなく、自分でもマンガを描いていたのである。最初はいたずら書きのようなマンガだったが、だんだん熱が入ってきて、ストーリーのある忍者マンガやロボットマンガを描いて、クラスメイトの間で回し読みされるようになってしまった。こんなことを小学校1年生から中学1年生頃まで続けていた。

 だから出来れば、将来はマンガ家を目指したいと密かに思いを張り巡らせていたようである。しかし当時はまだマンガ自体が市民権を獲得しておらず、マンガ家になるなどという荒唐無稽な希望を親に話すことはとても出来ない。
 そんな心理的な経緯もあってか、とりあえず美術系の大学に進み商業デザイナーになりたいというのが、親に話した表面的な将来への希望であった。それでとりあえず、普通科の都立高校へ入学することになったのである。

 だがその都立高の入学式を前にして、父が胃がんで亡くなってしまった。さらには高校に入って、美術力が抜群の同級生を見るにつけ、だんだん自信がなくなり、勉強することにも興味を失ってしまう。家庭の事情もあり、もうこうなると美術大どころか、普通の大学への進学も諦めるという選択肢しかなかった。

 とりあえず高校の紹介で某大手企業に就職したが、配属先が不便なロケーションで、工場と倉庫を合わせた暗い場所だった。都心にある本社勤務だとばかり思い込んでいた世間知らずの私は、もうそれだけで不満が爆発してしまった。そして人事係長と喧嘩をして、この会社を1か月足らずで辞めてしまったのである。

 さあこうなると、何のコネもなく、経験も技術もない私が再就職するのは至難の業であった。運よく都心にある優良会社の面接で内定したのだが、一か月で辞めてしまった前会社に問い合わせされてオジャンになる。つまり喧嘩別れした人事係長にボロクソにけなされ、結局内定を取り消されてしまったのである。
 私が未熟でバカ正直だったのだが、当然と言えば当然の話であり、それに懲りてその後は、履歴書にはその短過ぎた職歴は記載しないことに決めた。このころの私は特に何に成りたいというような希望も夢もなかった。

(次回に続く)

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コンピーターと経理システム(後編)

2014-02-06 11:34:18 | たそがれ経理マン編

 
 PC8001が姿を消したあと、会社ではPC-9800シリーズが導入されるのかと思っていたが、技術部以外の全部門では同じNECのN5200という機種が採用されることになった。その訳は簡単である。このNECのN5200はただのパソコンではなく、ホストコンピューターと直結する端末機としても使えるからであった。さらにNECが開発した表計算ソフト、ワープロソフト、データーベースソフトなどを揃えたLANシリーズを使用できることも大きなメリットであった。

 このLANシリーズとは、現代風に言えばエクセル、ワード、パワーポイントのような位置付けだった。そしてこれらの汎用ソフトの登場で、もはやN-BASICを使ったプログラム創りは不要となってしまう。それまでパソコン普及のネックになっていたN-BASICが不要になったことにより、今までパソコンを敬遠していた若者たちも少しずつLANシリーズに興味を示し始めたのである。
 このまま黙っていれば、やがて私がN-BASICで組んだプログラムも廃棄され、私自身の価値も暴落するだろう。そう考えた私は、寝る間も惜しんで懸命に覚えたN-BASICだったが、涙をのんでこれを切り捨てることにした。そしてすかさずLANシリーズの使い方をマスターするよう、自分自身に鞭を打つことを決心した。

 その後自ら進んで、本社勤務から静岡の僻地にある工場への転勤を希望し、原価計算の仕組みを学ぶとともに、LANシリーズを使った月次決算システムを確立することになった。さらにはそのLANシリーズを使った予算システムを構築し、これを工場の改善提案大会で発表し、間接部門で初の優勝を成し遂げたのである。
 さらにこれらのシステムをホストコンピューターと連動させ、所属工場だけではなく主要な子会社も含めて全社的なネットワークに進展させることに成功した。

 だが数年後にはN5200も廃棄され、ウインドウズPC時代に突入してしまう。そのため、さすがのLANシリーズもとうとう使えなくなってしまった。しかしながら変換ツールなどを使って、LANシリーズで作った貴重なシステムの大部分は、なんとか無事エクセルなどに変換することが叶い、長くその役割を全うすることが出来たのである。めでたし、めでたし・・・。
 
 そのあたりで私はこの会社を退職し、別の会社で税務に特化することになるのだが、定年後に再度この会社に招聘されるという奇跡的な巡り合わせに遭遇する。そして10年ぶりに訪れたこの会社で見たものは、私が25年前に創った経理システムの片鱗であった。なんと四半世紀もの時を経ても、いまもなお私が創ったシステムの一部が使われていたのである。気がつくと感激の余り、じんわりと熱い涙が頬に落ちて来るのを感じた。

 しかしながら、もうどこの会社でも経理システムは、パソコン活用方式からホストに蓄積されているデーターを利用する方式に刷新されている。さらには通常の経理システムとは別建ての連結財務諸表や法人税の申告書の作成までが、高価な外部パッケージシステムを利用するようになってしまったのだ。
 もうこうなってくると、経理的な知識や技術力よりも、パッケージシステムの使い方や端末機の操作方法に長けている人が、優秀な経理マンだということになってしまうのである。そしてシステムは次から次へと新しく変貌してゆくのだった。

 あれほどパソコンを活用して経理実務に役立ててきた私であったが、気が付いたら私自身も時の流れの速さについて行けなくなっていた。そしてますます経理の中身が見えなくなってゆく。こうして世の中のおじさんたちは、経理実務が全く出来なくなってしまったのかもしれない。
 コンピューターの進化が本当に良いことなのだろうか。それとも私が年を取り過ぎたのだろうか。あるいはかつて私が、25年前にパソコンで経理改革の嵐を巻き起こした時に、その嵐に吹き飛ばされたおじさんたちの怨念なのだろうか。
 時空は大きく捻じれて循環し歴史は繰り返すと言う、だが未来(あした)のことは誰にも予測出来ないのだ。

(完結)

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