極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

帝國のロングマーチ

2016年02月22日 | 時事書評

 

 

   もし君か大きな才能の持主なら、勤勉は才能をさらに大きくするであろう。
            もし君が凡庸な才能の持主なら、勤勉はその欠点を補うであろう。

                                                  サー・ジョシュア・レイモンド



    
 ※ talent  とは、もと近東の貨幣の名であった。預ったまま使わなかった
          召使かクビになり、うまく回してふやした召使かほめられた話が、聖書
                   にある。うまく使うことである。

                      If you have greate talents, industry will improve them : 
                      if you have but moderate abilities, industry will supply their dificiency.

                                                                                                                           Joshua Reynolds

                                                                                                           
                                                                                      

● 今夜の二つのニュース


野村敏京はこの日、最小スコアの7アンダー“65”をマーク。「ISPSハンダ・オーストラリ
アン・オープン」で2
位と3打差引き離しての初優勝。

 米国女子ツアー初勝利は大きな意味があります。
 こんなに早く勝てるなんて驚きでしたが、これは始まりにすぎないと思っています。

これは、12年セーフウェイクラシック(19 Aug, 2012)の宮里美香以来の日本女子の最初
の受賞者となる。 まずはおめでとう。

 

内戦が続くシリアで21日、爆弾テロが相次ぎ、合わせて142人が死亡。過激派組織IS=イスラミッ
クステートが犯行声明している中東の地獄絵図は収まりそうもない。

 

 




● 折々の読書  『China 2049』14


               秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                マイケル・ピルズベリー 著
                                野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイ
ケル・ピルズベリーが、自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづ
けてきたと認めた
うえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌
を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これから
の数十年先の世界情勢、日中関係
そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、
職種や年齢を問わず興味をそそる内容となっ
ている。 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

  第3章 アプローチしたのは中国 


       東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                     毛主席への覚え書き(1969)より引用    

  もう.つの要囚は、ベトナム戦争に村する中国の姿勢の変化である。1950年代
 から、中国は北ベトナムに武器、物資、軍事的アドバイスを提供してきた しかし、そ
 の順になると、軍心r援助と、中国を経由するソ連り貨物輸送を大幅に減らしていた.
  そのことがニクソン政権をさらに中国を支持する方向へ動かした。そしてニクソンが

 北京を訪問した際に、アメリカはさらなる安心を得た。毛は大統領に、アメリカにとっ
 て脅威となるものをすべて中国から排除することを自分は望んでいる、と述べたのだ。

 「現時点では、アメリカからの攻撃、あるいは中国からの攻撃という可能性は比較的小
 さい,つまり、それらは主要な問題ではない,なぜなら現状では両国間に戦争状態は存
 在しないからだ。アメリカはベトナムに派遣している部隊の一部を本国に撤退させるこ
 とを望んでおり、一方、中国が部隊を外国へ派遣することはない(注16)」 中国軍は
 国外に赴かないとするこの発言は、中国が朝鮮戦争に介入したようにベトナムにも介入
 するのではないか、というアメリカの懸念を和らげたとキッシンジャーは断言する(注
  17)。毛はその懸念が、アメリカの中国咬の軸になっていることを見抜き、それを排除
 しようとしたのだ。

  1971年7月、キッシンジャーは歴史的な秘密の訪中を行ったが、それは毛の長期
 計画が初めて具現化したものだった。中国側は、アメリカに近づく原因となったソ連の
 脅威については口が重かった。首相の周恩来は「北部の隣国」「他の超大国」と曖昧に
 言及するにとどまり、ソ連の脅威という問題についてさらに踏み込もうとしなかった(
 注18)。彼らは本気で攻撃を恐れていたのだろうか。

  10月に再びキッシンジャーが北京を訪れたとき、周はソ連を六つの検討すべき重要
 な問題のリストに含めていたが、六番目としてだった。そして「中国は米ソ関係の改善
 に反対しない」と言い切ったが、キッシンジャーはそれを虚勢と見なし、中国はソ連へ
 の恐れを隠していると結論づけた(注19)。キッシンジャーは周に、モスクワは「他の
 地域に専念できるよう、ヨーロッパで重荷から解放されることを望んでいる」と警告し
 た(注20)。「他の地域」とはすなわち中国のことだ。

  だがこの時点でも、中国はまだアメリカを味方ではなく障害と見なしていたようだ。
 中国がこの新たな友人についてどう感じていたかを、周の発言からうかがい知ることが
 できる。周は「アメリカは『覇』である」と、キッシンジャーの通訳を務める中国外務
 省の外交官、翼朝鋳に語った,それは、毛沢東とその後継者である鄙小平が何度となく
 口にした言葉だ。
  中国語を理解するアメリカの役人(少数ながら増えつつある集団)はかねてより、中
 国語には英語への翻訳が難しい単語が多いことを知っていた。それぞれの本当の意味は、
 通訳が状況に応じて適切な訳語を選ばなければならない。翼朝鋳はその言葉を、「アメ
 リカはリーダーだ」と訳してキッシンジャーに伝えた。この説明に害はなく、冷戦とい
 う文脈では社交辞令にすぎないようにも思える。しかしそれは、「覇」という単語が意
 味するところではなかった↓なくとも、その意味を十分には伝えていなかった。

 「覇」には戦国時代からの歴史的な意味がある。「覇」は、その世界に軍事的秩序をも
 たらし、力をもってライバルを排除し、やがてそれ自身が力によって排除される。
 「tyrant(専制君圭、圧政者)」と訳したほうがより正確だろう。戦国時代には、少なく
 とも五つの「覇」が存在した。それらは、数十年から百年という長きにわたって知恵比
  べしながら、新たな挑戦者が既存の「覇」を出し抜くという形で、盛衰を繰り返した。
  当時のキッシンジャーが、中国はアメリカをリーダーではなく横暴な暴君と見なしてい
  ると聞かされていれば、対中政策はどう変わっただろうか。今日、わたしたちは、その
  重大な誤訳がもたらした結果を理解し、それとともに生きることを強いられている。

   その数年後、わたしは翼朝鋳と話す機会を得た,彼は回想録、The Man on Mao's Right
  において、キッシンジャーに「覇」の概念をどう伝えたかについては触れていない。回
  想録は、それ以外のことについては饒舌で、中国外務省がアメリカとの交渉開始をどの
 ように捉えていたかについて、内部の人間による貴重な記録を提供している。わたしは
 翼朝鋳に、あなたが「リーダー]と言ったのは、中国語の「覇」を訳してそう言ったの
 か、と尋ねた。

 「あなたはキッシンジャー博士に「覇』の本当の意味を伝えましたか」とわたしは尋ね
 た。

 「いいえ」
 と、彼は答えた。
 「なぜですか」
 「博士を動揺させるでしょうから」

  「覇」という単語に込められた周の真意、つまり中国が実際にアメリカをどう捉えて

 いたかをキッシンジャーが理解していれば、ニクソン政権は中国に対してあれほど寛大
 ではなかったかもしれない。ともあれ、政権はすぐ、秘密裏に、かつ強力に、中国を軍
 事支援した(注21)。すべては、米中は恒久的で協力的な関係を築きつつあるという間
 違った仮定に基づいていた。アメリカを横暴な「覇」と見なす、中国の反米タカ派の見
 解を知っていたら、ワシントンは警戒していたはずだ,1977年のランド研究は、「
 1968年以来、中国政府には強力な反米集団がいて、『肉切り包丁を捨てて仏陀とな
 れ』という仏教の教えをもじって、アメリカは『肉切り包丁を握ったまま仏陀になれる
 』と郷楡している」と警告した(注22)。

  キッシンジャーと周の会談の2ヵ月後、ニクソンの訪中を目前にした時期に、キッシ
 ンジャーは極秘裏に、中国に秘密のプレゼントを贈った。アメリカが人民解放軍を支援
 していることを知れば、世間は大いに衝撃を受けたはずだ。当時は第三次インド・パキ
 スタン戦争のさなかだった。キッシンジャーは中国に、インド軍の動向について詳細な
 機密情報(注23)を提供しただけでなく、軍隊の配置も含めた中国のパキスタン支援を
 認めた(旧訓)。その返礼としてキッシンジャーは中国に、インド国境の中国軍を移動
 させ、パキスタン東部を我がものにしようとするインドの企みを阻止するよう求めた。
 中国軍は移動しなかったが、それがアメリカの期待をくじいたわけではなかった。

  1972年1月、自らの歴史的訪中のわずかIカ月前に、ニクソンはキッシンジャー
 の代理であるアレクサンダー・ヘイグを通じて中国にまた別のプレゼントを贈った。中
 国と陥力してソ連に対抗することを約束したのだ。ヘイグは先遣隊を率いて訪中し、「
 アメリカは、インドとパキスタンの危機の問、中国国境付近でのソ連の脅威を取り除き
 脅威の阻止を試みる]と周に伝えた。秘密裏に交わされたこれらの約束は戦略的なもの
 にすぎなかったが、アメリカが20年にわたる対中禁輸措置から急転換したことを語って
 いた。さに重要なのは、それらを皮切りに、その後さらに大きなプレゼントが贈られた
 ことだ。

  1972年2月、ニクソンと対座した毛は、かつてソ連に対して演じたのと同じ役割
 を演じた。中国を、支援と保護を渇望する無害で無力な嘆願者のように見せかけたのだ。
 「彼らはわたしたちのことを心配してくれていますか?」
   アメリカ人について、毛はそう尋ね、「そうだとしても、それは死んだネズミに涙す
 るネコのようなものです」と嘆いてみせた(注25)。さらに、アメリカ人はモスクワを
 狙って中国の肩の上に乗っていると主張し、ニクソンらを警戒させた。
 数年後、キッシンジャーは、交渉中に感じた中国側の疑心について述べている。

 「反覇権主義」というアメリカの公約は策略ではないのか?中国がガードを下げれば、

 アメリカとソ連は共謀して中国を破壊するのではないか? 西側は中国をだましている
 のではないか? さもなければ西側が自らを欺いているのではないか?
 いずれの場ハロも、結果として「ソ連の邪悪な水」が東に向かい、中国に到達する可能
 性がある(注26),
  こうした反応に対してニクソンは、中国に対するソ進のいかなる「攻撃行動」にもア
 メリカは反対する、と毛に約束した(注27)。そして中国が「自国の安全を守るために
 何らかの措置をとる」のであれば、彼の政権は「中国に干渉しようとする他国のいかな
 る動きにも反対する」と明言した(注28)。

  ニクソンが北京で他の指導者たちと会っていた日に、キッシンジャーは、軍事委員会
 副委員長の葉剣英と外務副大臣の喬冠華と対談し、中ソ国境沿いのソ進軍の配置につい
 て手短かに説明した,イェール大学教授のポール・プラッケンが2012年の著書 Sec-
     ond My Nuclear Age で指摘したように、その折にキッシンジャーは、核攻撃目標の情報
 までも提供した。葉元帥はそれを「われわれとの関係を改善したいというアメリカの意
 思表示」と見なした(注29)。その時に話し合われたことのなかには、ソ連の陸上部隊、
 航空機、ミサイル、そして核戦力が含まれていた(注30)。キッシンジャーの重要な側
 近で対中問題を担当するウィンストン・ロードによると、ソ連がこの情報交換を「聞き
 及ぶIことをホワイトハウスは想定済みだったそうだ(注31)。実際、ほどなくそれは
 ソ連政府の耳に入った(注32),

  毛は、「ならず者」のソビエトに対処するために米中は協力すべきであり、アメリカ
 は同盟国、とりわけNATOとの団結をさらに強化すべきだ、と強く主張した(注33)。
  また、毛はアメリカに、ヨーロッパ、トルコ、イラン、パキスタン、日本を含めた反
 ソ運輸を築くことを求めた(注34)。覇権国を逆に包囲しようとするこの作戦は、戦国
 時代からの占典的な方法だった。アメリカが気づかなかったのは、それが中国の恒久的
 な政治志向ではなく、米中という二つの「戦国]が便宜上敷いた協力体制にすぎなかっ
 たことだ。1972年時点の毛の打算は、20年後に彼の回想録が公開されるまで、明か
 されなかった(注35)。

  キッシンジャーは毛の計略にまんまとはまり、ニクソンに、「中国は英国に次いで、              
 世界観がアメリカに近い国かもしれない」と告げた(注36)。中国の戦略を疑う気持ち
 はみじんもなかったようだ。


冷戦構造下の代理戦争がベトナムを舞台に展開されていた時、中ソ間は最悪の状況にあり、
毛沢東の中国は窮地に追い込まれていたが、ここでも、
西安事件(1936.12.12)の周恩来の手
法が再現。日中(1972.09.25)
・米中(1979.01.01)国交正常化1978年にわたしたちも中国のカ
ラーブラウン管工場建設に参画開始。ベトナム戦争開始(1964.08~1973.01.27)→文化大革命
(1966~1977)
→天安門事件(1989.06.04)までの経過を知るひとりである。

                                   この項つづく

12Helmet Sonnenfeldt and John H. Holdrige to Henry Kissiger, October 10, Subject: State Me-
            mo to the President on Sino-Soviet Relations and the U.S.
注13  Rogcr Morris Memorandum for Henry Kissinger , Novembcr 18、118, 1969, dcclassiricd
            memo, Subjcct; NSSM  63,Sino-Sovict Rivalry-A Disscnting view. Nixon Presidential
            Library. NSC職員ハイランドとモリスは、ソ連の中国への攻撃を抑止したり中国の側に立っ
     たりするのをアメリカがいかに望んでいなかりたかを強調する。対照的に、キッシンジャー
     は white Hourse Years で ソ連による中国への攻撃を、見逃すわけにはいかなかった。わ
            たしたちは、いかなる接触も持たないうちからこの立場にあった」と主張した,Kjssinger,
            White Hourse yearss,764. だが、パトリック・テイラーは、中国を保護したいというキッシン
            ジャーの記述は偽りだと結論づけた。「このご都合主義の言明は、数年にわたるニクソン
            とキッシンジャーの他の言明と明らかに矛盾し、(中略)キッシンジャーの側近でもあった
             ラード国防長官の回想でも否認されている」。Tylcr,GreαΓ Wall, 66.
注16 . Jerome A. Cohen, "Ted Kennedy's Role in Restring Diplomatic Relations with China, "Le-
             gislation and Public Policy 14 (2011): 247-55.
注15     1969年7月のチャパキデック事件は必然的に、ケネディの関心を中国からそらし、大統領
             への野心を揺るがせたが、1977年、ケネディは初めて中国を訪問し、小平に会った。
     1969年3月22日にケネディが行った、中国との国交を支持する演説は世界中のメディアの
     注目を集め、ニューヨーク・タイムズ紙の一面を飾った。その日、エフゲェー・クトボイとア
     ルカディ・シェフチェンコは、興奮気味にその記事をわたしに見せた。
注16. 会話の覚え書き。Participants:Mao Tse-tung, Chou En-lai, Richard Nixson, Kissnger, Win-
              ston Lord (notetacker), February 21, 1972, 2:50-3:55 p.m. Beijing, Document 194, in Forei-
              gn Relations of the unitcd States, 1969-1976,vol.XVII,China,1969-1972,以下のサイト
              で人手f可能。httPs://history.state.gov/historicaldocuments/frus1969-76V17/d194.
注17.   Kissinger,On China,259.
注18. 会話の覚え書き。ParticiPants: Chou En-lai, Yeh Chien-ying,Huang Hua, Chang Wen-
              chin, Hsu-Chung-ching,XVang Hai-jung, Tang Wen-sheng and Chi Chao-chu(Chinesc
              intcrpritcrs and notetakers),Henry Kissingcr, John Holdridge, Winston W. Richard Sm-
              yser,北京1971年7月10日12:10-6:00pm,in Foreign Relations of thc united States, vol.X
              VH,document 140, 以下のサイトで入可能。http://2001-2009.statc.gov/documcnts/org
              anization/
70142.pdf.
注19.   Kissingcr to Nixon, “My october China visit: Discussionsof the Issues, ” 11 November[19
              71] Top Secret/Sensitive/Exdusively Eycs only, Pagcs 5, 7,and 29. Source:RG 59, Sta-
               tc Dcpartmcnt TOP Secrct Subjcct-Numcric Files, 1970-1973,POL 7 Kissingcr,availablc
               in William Burr, ed.,with Sharon Chambcrlain and Gao Bci,“Ncgotiating U.S.-Chincsc
               Rapprochcmcnt: N(3vAmcrican and Chinese Documcntation Lcading Up to Nixon’s 197
               2 Trip,” National Security Archivc Electronic Bricfing Book n0. 70,May 22,2002,以下
               のサイトで入手h可能。httP://www2.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB70/doc22.pdf.
注20.    会話の覚え書き。ParticiPants: Prime Minister Chou En-lai, Chip'eng-fei,Chang Wen-chin,
               Hsuing Hsiang-hui,Wang Hai-jung,Tang Wen-sheng and Chi Chao-chu (中国の通訳と
               記録係),Henry Kissinger,Winston Lord,John Holdridge,Alfred Jenkins, October 22,
               1971,Great Hall of the PeoPle, Peking,4:15-8:28 p.m, GeneraI Subjects: Korea, Japan
                South Asia, Soviet union,Arms Control,in “Forcign Relations,1969.1976,volume E-
               13, Documents on China, 1969-1972,” released by the office of the Historian of the U.S. 
               Department of State, 以下のサイトで 入手可能。http://2001-2009.state.gov/r/pa/ho/frus/
       nixon/d3/72461.htm.
注21.  これは、数年後まで公表されなかった。1976年、アメリカ合衆国国防長官だったジェーム
               ズ・シュレシンジャーは、アメリカ当局者は中国を軍事支援する可能性について議諭した、
               と公に発言した。Letherbridge Herald, April 13,1976,3,以下のサイトで入手可能。
      http://ncwspaPerarchive.com/ca/alberta/lethbridge/lethbridge-herald/1976/04-13/Page-3.シ
      ュレシンジャーは、アメリカ当局者は、中国を軍事支援することを議諭したが、それは公
      式なものではなかったと述
べる。「この件について考察することはあったが、中国への軍
      事支援を公に論じたことはなかった」。シュレシンジヤーは、(自分は)こうした支援は状
      況を鑑みて考慮されるべきだと言ったが、「一蹴したわけではなかった」と付け加えた。
      ”Weighing of Aid to China Seen,” Victoria Advocate,April 12, 1976,5A,以下のサイ
               トで人手可能、http://news.googlc.com/newsPaPers?nid=861&dat=19760412&id=lhZZ
                AAAAIBAJ&sjid=xkYNAAAAIBAJ&Pg=3791,2033685.
注22.     Thomas M. Gottlieb,“Chinese Foreign Policy Factionalism and the origins of the Strate-
               gic Triangle,”RAND Corporation, 1977,Document Number: R-1902-NA, 以下のサイ
                トで入手可能,http://www.rand.org/pubs/reports/R1902.html.
注23.  Lord to Kissinger, “Your November 23 Night Meeting." Novcmber 29, 1971,enclosing
                memcom of Kissinger-Huang Hua Meeting, Top Sccrct/Scnsitivc/Exclusivcly Eycs only,
                Source:RG 59, Records of the Policy Planning Staff, Director's Files (Winston Lord),
               196E1977,box 330, China Exchanges October 20-December 21,1971,in Burr, ed.,“N-
                egotiating U.S.-Chinese Rapprochemcnt."
注24.   Evelyn Goh,Constrructing the US Rapprochement with China. 1961-1974: From "Red  M-
                enace" to "Tocit Ally" (Cambridge UK: Cambridge university Press, 2005),189.
注25.      Yang and xia, “Vacillating Bctween Revolution and Detente,” Diplomatic History,Journ-
                al 34, no.2 (April 2010): 413-14.
注26.  Kissinger,On China 290.
注27.  会話の覚え書き。February 23, 1972,2:00 p.m.-6:00 p.m.,Location of original: Nati-
                onaI Archivcs,Nixon Prcsidcntial Materials Project,White House Special Files, Presi-
                dentls Office Files,Box 87, Mcnloranda for the Presidcnt Bcginning February 20,1972,
                pagc 21, in William Burr, ed.,Nixon's Trip to China: Records noxv Completely Dec-
                lassincd,lncluding Kissinger Intclligence Bricnng and Assuranccs onTaiwan,The Natio-
                nal Security Archive, December 11, 2003,Document 2, 以下のサイトで人手可能。
                htpp://www2.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB106/.
注28.       Kissinger,White House Years, 906.6.

  

 


 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 朝食前の4つのメニュー | トップ | 甘い苺と菠薐草 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

時事書評」カテゴリの最新記事